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2015 6/30 『危機管理』

今朝は神奈川県西部で地震が頻発していた。
箱根山、大丈夫か心配していたところ、新幹線の白煙....油をかぶった男が車内で自殺をしたとニュースが流れた。
新幹線のニュースが流れている合間に、今度は箱根山が噴火したと発表された。時間が経つにつれ、どうやら気象庁はやっと噴火と認めた?というが..
東日本大震災以来、いやもっと前からだろう、日本列島は本格的に活動期に入ったようだ。大きな地震のあとにはもれなくその周辺の火山が活発になり噴火するというが、西ノ島の噴火で新しい島ができたり、御嶽山、浅間山、口永良部島の噴火、そして今回の箱根山の噴火と、あちこち動きはじめてきたことになるのだろう。
今後どう活動するか気になるところで、被害がないようにと願うばかりだ。
小笠原付近ので深いところでの巨大地震や、小笠原から一直線状つながる箱根山や富士山、伊豆半島は元々は島で、プレートが動いて日本列島にぶつかりくっ付いて伊豆半島になったのだから何かしら関係があるのだろう。

新幹線の事件は自殺と言うが、高速で走る密室での焼身自殺、さらに運転席のすぐ後ろで火を放ったのはテロと同じようなものだと思う。飛び火によって1人亡くなられたし、重軽傷者、多数被害に遭われたのだから。
新幹線もこれからは持ち物検査が必要になるのだろうか。

これから経験するであろう自然災害など、改めて危機管理を持とうと思った一日だった。

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2015 6/29 『STRONG』

梅雨の晴間の日曜日にはランニングで根津神社へ。

ランニングでどこそこ...,という書き方、意識しているわけではないが、ふと思うとやはり、シューズを履きシューレースをギュっと結んで向うことはシューズが移動のツールとなっているんだなと思う。
自転車でどこそこへ、バイクでどこそこへ、電車でどこそこへ....エンジンがついてるかついてないか、走っている人でも走ってない人でも、何だかよくわからないかもしれないが、自分にとってはそんな感覚に近い。

さて、昼すぎに出て、2−3kmくらいでもうバテバテ。
まぁ息があがって辛い。
日影をゆっくりと走るも暑い。。
帰りは電車で良いからと、脚を進める。
何とか到着、半年ぶりかな。
家族がもう何年も近くの病院にかかっているので、お礼を。
感謝しかありません。

巨大なオレンジ色の鯉を見下ろし、しばし休憩。
鳥居、ここは前は有料だったような気が....
写真2枚目...境内には「徳川家宣胞衣塚」として、第6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚がある。当地が甲府藩邸であった時に家宣が生まれたことに由来する。
写真を撮るのを忘れたが、本郷通りと旧中山道(国道17号)が分れる交差点、本郷追分にあった道祖神がこの根津神社に移されて祀られている。
日本橋から一里目(約4km)が本郷追分、二里目が板橋駅手前、三里目が志村坂上、四里目が荒川をこえてすぐの蕨....
日頃からランニングをしていると、距離というものが身近に感じるようになる。
ど真ん中の日本橋からわずか16kmほど旧中山道をテクテク走っていくとそこはもう埼玉県だ。歩くと3−4時間かかるけど、ムリせずにリズムよく走っていけば一時間半くらいだ。って言っても、信号があるので2時間半くらいだろうか。

あとにして、上野へ向うも、ヘトヘトになりつつで、谷中へ。
ストアでSTRONG ZEROペプシを。激しい運動をすると最初は糖分をエネルギー源にするので、本当はZEROではない砂糖たっぷりのオリジナルが良かったんだけど、はんぱない強さの炭酸でちょい元気になる。
信号でちょいちょい脚をとめて、戻ってこれた。
なかなか疲れて、こんなの久しぶり。
運動時の暑さにまだ身体がなれてきていないのだろう。
公園で、STRONG ZERO 9%と共に休憩を、これまたウマイんだわ。

NIKE + runningのアプリケーションでは12.52km、時計では11.05kmと1.5kmほど差がある。
前者はゆっくり歩く時も計測されるが時計はされない....にしても、だいぶ差がでたのは精密さのちがいもあるのだろう。
前者のルートのログをマップでみると、かなりざっくりしてて、そこは走ってないけど、みたいなのもあるし。
時計の方は、計測スタートして最初の1kmはだいたい1分ほど速く計測される。6分/kmくらいで走っているのに、5分/kmくらいで記録されて、そのあとはほぼ正確に計測されるんだけども。
走っている人だったら、そのスピードの差はなかなかのものだから体感でいやいやいやぁ〜ちがうちがうと分るんだけど...感覚的には車を運転してて、40km/hと60km/hの目やスピード感覚の体感でわかるように、そんな感じにちかいんですよね。
NIKE + runningのアプリケーションはエラーもたまに出て計測が止まる。
ま、どれもこれも個性があってちがうものなので、壊れにくければまぁいいや。

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2015 6/23 『香り』

コウヤマキ(高野槙)
高野山真言宗の総本山である高野山に多く生えていることに由来する。また、高野山では霊木とされる。wiki

高野槙から調製した線香を戴いた。爽やかで独特で、とてもいい香りだ。
寝落ちる前に、パカッと開ける....なんとも心地がいい。

...たばこを手放して丸6年が経った。
1日の喫煙本数×年数=ブリンクマン指数....自分の場合は20本〜30本だったので、少なく見積もって25本×24年=600となり、600以上:肺がん・肺気腫(COPD)の危険大、に当るという。
毎日擦っていたライター、今はお香専用となった。

-------6/25 加筆
エッセイストの国井さんのブログより。こちらこちらに詳細が掲載。
もうどうだろうか...10年以上かな、彼女のブログを読んでいるが、掌蹠膿疱症 (しょうせきのうほうしょう)でとても大変な生活をしていたと、いつかの記事で告白された。痛いし膿みがでるしで、良い先生がいると知れば全国を飛び、食生活から何から改善して、治療に励んでいたと。
それでも一向に治らずで、本当のこれ以上はもう改善ムリの最後の最後の唯一残ったのがマルボロメンソール、つまりたばこだったのだ。
この病気の80%が喫煙者というので、思い切ってやめたらなんと2週間で簡単に病気が治ったのだという、あんなに辛くて悩んでいたのに。まぁそれはもちろん人によるが、彼女にとっては悪さをしてたのがマルメンだったのだ。
身体が不調だとか、持病を抱えているとか、発症したとか、何かある人で喫煙者なら、一旦手放すのも良いかもしれない。それで調子がよくなったら万々歳だ。
自分もたばこを手放して、かつての辛い身体の不調はもうすっかりない....ま、それも人それぞれだけど。
ケースには思い入れのある大切なすぐに使えないジッポが4つ眠っている。

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2015 6/17 『スケートボード道』

30年近く前、学校から帰宅後〜晩飯食べてそして時には夜錬まで、毎日滑っていた。日曜日は朝から池袋へ、時には光が丘や所沢航空公園へと遠征に行った。

13歳のその当時、何をするにも何も楽しくなく、生きている実感を持つことができなかった頃に、自分はスケートボードに出会った。
一気に目の前の視界が晴れて、この生活が楽しい、定時制高校も入れない学力だったけども、もっと色々がんばろう!とスケートボードと勉学の両立、14歳の頃に勉強にも着手したのだ。
学年でもビリの方、偏差値は30いくつかだったけど、優等生や先生を拘束して分らないところを、というか全部だけど、徹底的に学んだ。
職員室では毎日自分の話題が飛び交っていて「あいつが変わった」と逆にえらい良い問題として賑やかだったと、だいぶ後になって当時担任だった若い女教師と実母とのその後のやりとりで、実母はそのことを知って自分に教えてくれた。
学年でも上位の方になり、結果的に偏差値は63くらいまで上げられて、絶対に私立には行けないので....無事に中堅の都立高校に進学ができた。
先生の目もそうだが、優等生やかつて所属していた素行不良グループの目、女子の目が変わったのをよく感じた。

高校では環境ががらっと変わり、新しい目標も持ち、スケートは生活からはほぼ消えて、ほとんど滑らなくなった。
大学に進学しようと懸命に勉強をするも思うように学力があがらず、とても苦戦する3年間だった。全部落ちて浪人生活が....不動車だったトライアルバイクをまずは直すことから初めて、トライアルバイクで予備校に通う毎日だ。
不思議だったが、春がちょっと過ぎた頃の模試で点と点がつながったかのように問題がスラスラ解けて、ぐんぐん成績が上がり、いつしか70になって、志望校別模試では目標にしてた芝浦工業大学ではなんと全国で2位にもなった。
で、実際の芝浦の試験は理系なのにまさかのデッサンと英語の受験に挑戦し、100倍の倍率をくぐり抜けられた。ちなみに、リンゴと花瓶だったかな....1年間で2枚描いたくらいで、デッサンの対策はとっておらず、ほぼ一発本番で挑んだのだが、それはチビの頃から絵をかくのが好きで、よく舟や電車などを図画用紙に描いたり、企業やブランドのロゴをよく模写したり、スケートボードにも絵を入れてギンギンに強くなった気分で....絵を習ったことはないが、それが19歳の春に功を奏したのだろうと。
デッサン試験は急須とプッシュ式電話を詳細に描きなさいと。急須は毎日の仏様のお供えで母が使っていたのでよく思いだして描いて、で問題なのが電話でその当時うちはまだダイヤル式の黒電話だったから、プッシュ式を感でなんとなく思いだして描いてフィニッシュ。
美大じゃないし理系の大学の試験、難題はないだろうと。で、すんごいうまい猛者はほぼいないだろうと、ある種、無謀でもあるがそんな気持ちで挑んだのも逆に気楽で良かったのかもしれない。デッサンで受かった友2人に聞いたら、美大コースの予備校に通ってデッサンを習って対策をしていたと。。

その後、大学生の頃に何回かスケートして、社会人ではちゃんと滑ることはほぼなくて、11年前に数回ほどレクチャー役でちゃんと滑ったきり。
また気持ちよく滑りたいなと、この春に整備して、5月に実に11年ぶりに滑りはじめたのだ。プッシュするだけでよろけるわ、オーリー(ジャンプ)するも、ぜんぜん飛べずもうふらっふら状態.....で、4回、5時間ほど練習して、だんだん感を取り戻し動けるようになってきた。
もうちょい脚が上がるようになればオーリーもまだ高さをだせると思うが、ケガが怖いのでムリはしないし、過信もしない。

スケートボードが沢山のことを学ばせてくれて、救ってくれたと思っている。
自分の構成要素、自分にとってスケートボードは楽しいし最高なんだけど、遊びという感覚は今でもなくて、“道”という感覚に近い。
気持ちよく滑れる生活習慣病予防スケート、良いもんです。

【過去記事】
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■オールドスクール #2
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■クルーザー
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■オールドスクール #3
■あぶないランプその2
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■久しぶりのお墓参り
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■東京オリンピック 新種目スケートボードと日本人のDNA
■池袋スケートパーク 試験運用

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2015 6/17 『旧川越街道 ハッピーロード大山商店街 小松屋横町道に佇む“命”の碑』

35年前、大山町に数年間住んでいたことがあって、先日懐かしさもあってこの地域をあちこち見て、歴史を調べてみた。
かつて住んでいた家2つはもうどちらも今はなくなっている。
川越街道沿いにある山中交番(現 大山交番)の横をとおる山中通り睦会にある金魚屋さんは今でも健在で、よく買ってもらっていた。
ハッピーロード大山商店街、かつてはチンドン屋がよく練り歩いていて、孔雀の羽やサトウキビもよく売りにきていて、初めて食べた時になんて甘い木なんだろうかと不思議だった。
イトーヨーカドーの火災は夜中に凄まじいほどのサイレンではっきり憶えている。可燃物が多く消火が困難で長い間燃えて全焼し、商店街はいつまでも焦げた臭いが漂っていた。

ま、それはさておき。

地図1枚目の黒い点、ハッピーロード大山商店街の横道を入ってすぐに、大きなケヤキがあって、その袂に“命”の碑があった。命?何だろうか??....
住んでいた当時、この“命”の碑の前を毎日通っていたことになるけど、まるっきり憶えていない。ひょっとしたらその当時には無かったのかもしれない。
命、意味深....比較的新しいようにみえる。
石を彫ったものではなく、コンクリートで作ったようだ。
個人のお宅の敷地内に建てられているので、このうちの方がかつてつくられたのかもしれない。

調べていくと、この“命”の碑が建っている道は旧中山道に繋がっている古道だとわかった。
その名は小松屋横丁道というのだそうで、仲宿の酒屋 小松屋の脇道が名の由来だという。
中山道 仲宿から川越街道 大山(山中)へと抜ける便利な道だったのだろう。
また、大山詣に行く人々も通ることから大山道とも言われていたと。
商店街の会長もこの碑がなぜあるのか詳しくは分らないというが、ひょっとすると鎌倉道につながる道だから目印として使われていたのかもしれないと。
旧川越街道手前の交差点、その先は鎌倉街道との交差点、たしかに道標のような、ロードサイン的なものかもしれない。
江戸時代、宿場から物資を運ぶ人々、大山詣に行かれる人々、信仰、大山で地域の人々や街道を旅する人々や馬を癒していた行者のおふくさん....何か命にまつわることも多くあったのだろうか、そういうことも関係しているのだろうか。

不思議な“命”の碑が佇むその場所その道は、かつての人々にとっては重要な道で、今では商店街の脇道となったが、住民にとってはなくてはならない生活道路として今も機能している。
そして道もアップデートしつづけている。
東京都道420号鮫洲大山線(都市計画路線補助26号線)の計画で、旧川越街道(ハッピーロード)の一部は開発で道は拡幅され、踏切をこえて東京都健康長寿医療センター前を通る道と接続、そして山手通り・R17号の交差点につながる。
それ故に、商店街はバッサリ分断されて、道も町並みもがらっと変わってしまうことになる。
この道路の開発で、かつて親しんだ大山西銀座商店街も消滅した。
一番下の地図の大谷道に商店街はあった。
幅員も広くなくてこじんまりとした商店街で、よく駆け抜けて遊んだのを憶えている。もうすっかりその姿を変えてとても残念だ。
その交差点にあった吉野家は毎晩の夕食で、嫌いになるほどだった。忙しい親だったのでそれは致し方なかったんだけど。
割ばし綿菓子をくわえて走っていて、アスファルトの凹みに足を引っかけて転倒、割ばしがノドに突き刺さり、血まみれになって田崎病院にかつぎこまれ、たいへんな手術になるために、日大板橋病院に転送されて、緊急手術。突き刺さりどこが悪ければ早死にしてたかもしれなかった。

とまぁたくさんの思い出が詰まっている町、たまに寄ってみるととてもいいもので、地域史を調べてみると昔と今、点と点がつながって、ご縁があって今があるのだなと驚くことが多い。

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。

photo2015 6/11 『東池袋』

サンシャインや造幣局の裏あたりの東池袋4−5丁目は開発の真っただ中。
とても細い路地が入り組んでいて、住宅がひしめき合っている。
ここは空襲でも焼けずに残ったために、昔ながらのそのままの状態が残っているという。
空き家も放置されているし、ひとたび火が出るととても大変な地域だ。
都電の線路際にはこれから高層のマンションがあちこち建つ予定だという。

そんな東池袋4−5丁目、中央図書館は新しいビルの中4−5階に移転して、とても立派になっているが、いかんせん通常はEVのみでしかアクセス出来ないのが使いにくい。こういう新しいビルはしょうがないけど、階段は非常時に使うものになっているので、立ち入り禁止の貼り紙が。
EVが地震で止まっちゃったらイヤだからなんだけど、7階くらいだったらあまりEVを使わない。東日本大震災以降、特にそう意識するようになった。
先日の立て続けに大きな地震が起きたが、六本木ヒルズ 森タワー 52F、EVが止まって来場者がしばらく下りることが出来なかった。非常階段も安全が確認できないから使えないというなんだか意味がないことが起きた。
EVに1−2時間も閉じこめられるのはほんとゴメンだ。

話がそれたが、東池袋5丁目に日の出優良商店会があってその中に『ミート&デリカ なりたや』さんがある。食べログ
ココは庶民の味方....久しぶりに通ったら、ショウケースに佇むブラウンなぶ厚いビジュアルの 名物だという 黒毛和牛入りメンチは、なんとおどろきの50円!と目に入る....えっ?!と立ち止まる....そりゃ頂きますよね。ずっしり重くてさらにびっくり。
商店会の活性化、街の再開発で大変なことが多くあるのだろうか、抗う強い意思のような想いを感じて。
って、そりゃそうだ、肉肉しいぎっちりなメンチではなかったけど、これはこれでヘルシーな味がして美味しかった。

そして、東池袋一丁目はブランズウイック付近(ボーリング場などが入った複合施設)、ビルしかなくて人通りも激しくて、特に若い子らがたくさん闊歩する通りに、ただ一軒だけ一戸建て住宅が建っている。
周囲は立ち退きだと思うが、駐車場になっていて、住宅へは10m以上の長いアプローチを通らないとならず、緑が印象的だ。
もちろん現在も生活をされている。
池袋駅前にまだ闇市がどっさりあった頃からおそらくお住まいなのだろう。
なんだか力強さを感じて、いつまでもお元気でといつも思って通る。

豊島区役所も移転し、今後は造幣局も移転しまた町の姿が変わっていく。
よく買い物に行っていたスポーツアパレルのBODY MAKER池袋店が撤退して不便になったが....
なにかと物騒な事件も多い池袋だが、中心よりちょいと外れたところにとても良いものがあります。

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2015 6/8 『検査 青いフィルムを使う時の姿勢』

ワシがかつてチビだった頃、朝一で四つんばいでケツを実母差し出し、青いフィルムを転写....妙に恥ずかしかったのを憶えている。
検査にひっかかる子らは、虫くだしのチョコを食べるのが日課になるのだ。
30年以上前、毎日遊んだ砂場にはブラウン地雷がどっさり潜んでボクらを攻撃してきた。それはそれはしょっちゅうキャッチしたもんだ。
夜、銭湯できれいになろーぜ!と徒党を組んで団地の横道を闊歩して、たびたび大きめワンコか?の巨大なのを踏んで、縁石や小石を巧みに使い除去し、公園の蛇口でうまいことソール部分だけに水を当てて総仕上げだ....って言っても、帰宅すると顔を歪めて「あ”ぁ〜踏んだなぁ〜お前!」と実姉。帰宅した実母はそんなのを見てクタクタ顔、今でも忘れない。
...今の公園の砂場にはフェンスが張り巡らされて、小動物は、ってもほぼ野良ニャンコだろうが、だいたい立ち入りができなくなっている。校庭にある砂場にはシートがかけられてディ〜フェンスをしている。何でもかんでも抗菌抗菌の時代、これからはもう青いフィルムは消滅するという。
今でも忘れないこのふざけた天使の笑顔を、ありがとう。

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2015 6/9 『複合遺跡 東池袋遺跡 旗本中西家の屋敷地と御鷹方御役屋敷』

案内チラシより引用...

現在のあうるすぽっと周辺は東池袋遺跡として、豊島区の遺跡に指定されています。
この東池袋遺跡は、江戸時代のはじめ頃の旗本中西家の屋敷地をおおむねその範囲としていますが、1719年(享保4)に屋敷地は東西に分割され、「御鷹方御役屋敷」が1864年(元治元)まで設けられました。
屋敷地が分割された享保年間といえば、徳川吉宗が将軍となり鷹狩を盛んに行うようになった時期です。
文献資料によれば、この屋敷地には、20戸前後の鷹匠の屋敷と、鷹匠同心の長屋が建っていました、
鷹を飼育している「御鷹部屋」は、現在の雑司ヶ谷霊園にあり、職場として住まいは区別されていました。
東池袋遺跡では、これまで幾つかの発掘調査が行われていますが、主なもの簡保検診センター地区、東池袋4丁目再開発地区の2つです。
これらの発掘調査では、御鷹方の屋敷地であった時代の遺構や遺物のほか、旧石器時代や縄文時代の遺物もみつかっています。

....地図をみると、広大な屋敷があったのはグリーン大通り、豊島岡女子学園、東京福祉大学池袋キャンパスらへんのようだ。
写真撮ってしばらく見続けていたら、人だかりが。
若いパパママさんが、覗き込んで「めっちゃ色ちがう!」って。

かつて、東急ハンズ裏あたりから水が溢れ出し、東池袋から護国寺そして神田川へと水窪川が流れ、メトロポリタンホテルあたりから水が溢れ出し、雑司ヶ谷をから護国寺そして神田川へと弦巻川が流れていた。台地を流れる川のそばにホモサピエンスが集り生活を営んでいた。
開発で区役所にタワマンが立ち並び、ガラッと姿を変えた地域だが、縄文時代から現在まで、ココら辺はとても住みやすいということだ。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。

photo 2015 6/8 『運動を兼ねた日曜日の買い物』

日曜日、朝一でウォーキングで家電屋へ。
実家のエアコンが壊れたので、なるはやでとの連絡、代わりに見て買って欲しいと。
3つ見てまわってよーく話を聞いて、連絡とってその製品でいいと了解を得て、一旦家へまたウォーキングで戻って、途中でムラサキでスケートボードに使う部品を買って、帰宅。
で、駅まで荷物ピックアップして、今度は電車で家電屋へ。
3日後に工事OKとのこと。
買って、お会計....これまた時間がかかって。
その足で、今度はシーリングライトを買って、デパ地下で甘エビとメバチマグロとビンナガマグロとメンチカツを買って、クタクタ気味で電車に揺られ帰宅。

遅い昼メシを食べて、ここからは別行動で妻は結局、工事当日に業者に渡さないとならない券を渡しに電車にゆられて実家へ。
自分はスケートボードを組み直して....足りないビスを買いにホームセンターへ。
買いに行く途中に、図書館へ“アメリカ極悪刑務所を生き抜いた日本人”を返しに。前に借りてた人が一ヶ月返却してくれなくて、待ちに待って....って、この本、4時間で読み終えたけども。なかなかおもしろい本だったけど、アメリカのプリズンはめっちゃくちゃなんだと信じられない内容だった。
で、走って向うこと4km、ホームセンターに到着。
5本欲しかったビス、この手のことはよくあるけど、4本入りで結局8本買うことに。ナットは要らないんだけどセット売りなんですよね。。DOITだったらバラ売りで買えるんだけど。

で、帰路へ。
運動を兼ねる買い物はいいものです。
時間を有効に使える。

レモンサワーを飲みながらスケートボードを組んで。
飲まなきゃ滑れるけど、優位はノドを潤すことだわな。
脚に優しい仕様で滑るのが楽しみだ。

そうこうしているうちに晩飯だ。
甘エビ30尾とメバチとビンナガが¥1000という、日曜日のタイムサービスはめちゃくちゃ安くていいもんだ。
たまにビンナガを食べたくなるんだよなぁ。
とても美味しかったなぁ〜

この日はウォーキングを約7−8km、ランニング9kmで、いい運動になった。

2015 6/4 『古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道) 千川上水に架かる<かち橋>』

板橋区 川越街道、日大病院入口交差点にバス通りとはさんだ狭小地にほそ〜い建物がある。
その右側に細い道があって、それが鎌倉道で椎名町道ともいわれ、古くから人々が使ってきた古道だという。あちこちにある古道は今でも不思議と人通りが多く、住民にとっては今でも便利で主要な道だということなのだろう。
その名のとおり、昔は鎌倉までつながっていた道で、豊島区椎名町駅や南長崎と板橋区大山〜石神井川を渡って〜小豆沢〜北区赤羽〜へと続く。
この鎌倉道が石神井川を渡る橋が本来の板橋だという説もあり、山中橋という。山中橋から下流へ10番目が旧中山道にかかる現在の名所 板橋だ。
川越街道の日大病院入口交差点付近(パッピーロード大山商店街の川越街道側入口あたり)、現 大山町・中板橋・栄町・仲町の一部の地域をかつては山中と呼んでいて、板橋宿(上宿、仲宿、平尾宿の3つで構成。)の仲宿と平尾宿は、この山中という地域の農家の次男や三男がかり出されて移り住んでつくったという。
山中と言われていた地域は旧川越街道と鎌倉道、大山道(大山詣で人々が通った道)と交わっていたために賑わっていたという。
あっちへ行く人、こっちへ行く人....かつても今も、渋谷のスクランブル交差点もそう、それは変わらず人々があつまりわかれる要衝だ。
幼い頃に何年かこの山中地域、現 大山町に住んでいたのでとても懐かしくて、当時を思いだしてあちこち巡って歴史を調べてみた。
地図1枚目:鎌倉道と黒線で囲まれた地域は山中、地図2枚目:椎名町道 約3km

先日この鎌倉道(椎名町道)を通ってみた。
A地点の日大病院入口交差点からスタートし、C地点は毎日遊んでた大山の交通公園で、かつて流れていた千川上水を椎名町道は渡っていて、そこはかち橋と言われていたと。兵隊さんの訓練にもよく使われていたようで、兵隊道とも言われて、このかち橋で大砲を落としたと伝えられている。
D地点は豊島長崎の富士塚があり、国指定重要有形民俗文化財に指定されていて、とても立派だ。
E地点は要町通りを渡るところで、出桁造りの立派な商家が建っていて、古道ならではの風景だ。
そしてF地点には御嶽神社があり、終点の椎名町駅前には長崎神社がある。
古道の特徴である微妙な幅員と出桁造りや比較的立派な造りの木造住宅、そして神社や寺が面している。
古道は一方通行のところも多いので、自転車や徒歩で通る方が便利だけども、なるほどなぁ〜こんな細い道をたどっていくとこんなところまで繋がっているんだ、便利だなと、なんだか感慨深いものがある。現代の裏道的に思うし、実際に裏道?抜け道なのかもしれないが、インフラ好きにはそれにも魅力を感じる。

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【過去記事】

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2015 6/2 『新宿歴史博物館』

今日6月2日は本能寺の変が起きた日。
諸説あるが、他者の気持ちが分らないサイコパスだったのだろうと言われる信長に対して、原因は様々あるだろうが、これ以上は生かしておいてはだめだという気持ちがあったのだろう。
信長も秀吉も戦戦の連続で、いつあいつに殺されるか、身内にいつ寝首かかれるかで、頭がおかしくなってきたのだろう。

ま、それはおいといて...

新宿歴史博物館に縄文人のガイコツを見に行った時に、常設展示もついでに見た。
なかなか立派な展示、施設で見応えがあった。

新しい宿場として、栄えた内藤新宿。
一番上の写真は江戸時代の現在の新宿三丁目交差点と甲州街道ふきんのジオラマだ。
T字の交差点が現 新宿三丁目交差点で縦に通る道が現 明治通りだ。
かつての甲州街道は新宿三丁目で90度曲がっていた。
それはジオラマからもわかるが、江戸市内に供給していたとても貴重な上水は、少しでも低いところを通さないと水が流れないので、本当は真っすぐに道を通したかったけども、玉川上水があるために甲州街道が道をゆずったかたちになったのだ。ジオラマの縦の道と玉川上水のV字部分は現 FOREVER 21 が入居するビルで、かつての京王電鉄の新宿駅はここにあったと。

江戸時代の新宿の商家は火に対して強いつくりが奨励されていたと。
一番こわいのは火だからだ。

昭和6年製造のチンチン電車。
内装は木でできている。

文化住宅。

昭和初期に急速に発達した新宿駅周辺の風俗と娯楽の展示も。
自分よりも上の先輩にはとても懐かしいコーナーだ。
60歳前後の手を繋いだ仲の良いご夫妻が懐かしいと連呼していた。

受付の横には往年の名車である小田急ロマンスカーの座席と運転席が展示。
運転席に座ってみたが、中肉中背の自分でもとても小さく、窮屈に感じた。
運転士は大変だっただろうなと思った。たぶん皆身体は大きくない運転士だったのだろうと。
小学生の頃はまぁ〜よく小田急線に乗ったなぁ。
妙に懐かしかった。

と、なかなか立派な施設、大企業も多いし、どでかい繁華街もありますしね、新宿区はお金持ちだなと後にした。
新宿区の歴史は縄文時代から江戸時代から現在まで、見どころ満載なので、とてもおもしろい。
新宿歴史博物館、いいとこです。

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