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2021 3/11 『3月10日東京大空襲 湘南二宮町のガラスのうさぎ像 3月11日東日本大震災』

一晩で8〜10万人が犠牲となった東京大空襲。

神奈川県の二宮駅前にガラスのうさぎ像が建っている。
二宮町のウェブサイトから引用ーーーーーーー
「ガラスのうさぎ」の由来
太平洋戦争終結直前の昭和20年8月5日、ここJR二宮駅(当時国鉄)周辺には艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い生命がその犠牲となりました。
この時、目の前で父を失った12歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き抜く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」(高木敏子さん著)は国民の心に深い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。
この像は、私たち二宮町民が平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々のご協力をいただき建てたものです。
少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。
「ガラスのうさぎ」像記念碑文より
ガラスのうさぎ像
二度と戦争があってはならないと、永遠の平和を願う人々の浄財によって昭和56年(1981年)、二宮駅南口に、この像は建てられました。
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もう40年近く前になるだろうか...ガラスのうさぎという映画を区のホールで観たことがあった。今でもその描写や少女の姿を憶えている。
その当時、母にねだった初めての漫画ははだしのゲンだった。

3月11日、電話で打合せ後だっただろうか。電話を切ってしばらくすると経験をしたことが無い揺れを感じ、耐え、駆けって表に出て行き、バイクのエンジンをかけて実母の元へと向かった。今でも一刻一刻をはっきりと憶えている。
今も当時の続き、未来も今日の続き....皆それぞれたくさん様々なことがあります。今をしっかりと生きていきたいと思う。

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2021 3/10 『谷端川と上池袋支流(瓢箪池支流)の落ち合い地点にある防災用ポンプ』

1番上の地図が広域で、2番目が谷端川跡と上池袋支流跡の合流地点の地図で、青い楕円部分に集合住宅の敷地を一部提供して小さな防災広場と防災用ポンプが設置されている。

豊島区郷土資料館紀要
<豊島区の湧き水をたずねて>から引用ーーーーー
小川跡:上池袋1-3付近から湧き出た清水は、小川となって北上し、上池袋1-14で直角に右に折れ、西巣鴨1-10の丹羽藤吉郎邸(のち山口玉造邸)内を通って谷端川に注いでいた。
途中の上池袋1-27には洗い場があり、小川の流れが急なため「滝」と呼ばれた。
現在は暗渠となり、洗い場跡も住宅が建ち面影は残っていない。

瓢箪池跡:上池袋1-3付近から湧き出た小川が、谷端川に流れ込む場所にかつて丹羽藤吉郎邸があり、瓢箪に似た形の大きな池があった。のち東京謄写堂社長の山口玉造邸となり、「山玉(やまたま)の池」と呼ばれた。
雉や鷲・兎などが巣を作っていたという。現在その一角に旭湯がある。

※現在、旭湯は廃業している。
※丹羽藤吉郎:明治-大正時代の薬学者。日本薬剤師会会長として医薬分業達成に尽力した「分業の父」。日本製薬協会会長。昭和5年死去。
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昔、この地点にあった瓢箪池に倣ったように水の存在を感じる。
防災用の水として活用すべしというように姿を現したのだろうか。
また、この場所を十数メートル谷端川跡を下ると“谷端川跡”の案内板が設置されていることから、この付近は重要だと考えているのだろうか。

かつて自分が通っていた都立文京高等学校校庭裏の都電巣鴨新田電停の近くと、校門の前をとおる折戸通りの入口近くにも綺麗な水が湧きだしていたと言う。(<豊島区の湧き水をたずねて>より)

全然関係がないが、通っていた当時の文京も人気が割とあったのが今でも続いていて、より人気になっていると何年か前に聞いたことがある。
当時は旧校舎の建替えが始まっていて、旧校舎と親校舎どちらでも学んだことが良い思い出となっている。個人的には、廊下と教室の引戸はあるが、吹きさらし状態に近かった土足の暑くて寒い校舎が好きだった。学ラン指定の制服もあったが、私服で通っていても黙認していた校風も良くて、自分はほぼ私服で通っていた。

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2021 3/8 『上板橋役場跡と古道 台橋道(茂呂遺跡・栗原遺跡 お東山<板橋城跡の候補地のひとつ 長命寺>)』

地図の黒丸部分、古道 台橋通り沿いの安養院の向かいに上板橋村役場があった。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーーーー
江戸時代に川越街道の宿駅になっていた上板橋宿は、現在の弥生町・東山町・東新町・常盤台・南常盤台・桜川・上板橋・大谷口・大谷口上町・大谷口北町・向原・小茂根、そして練馬区の旭丘・小竹町を含む大きな村でした。
明治五年の調査では、戸数四〇五戸、人口は二三七六人でした。
明治二二年(一八八九)の町村制施行にあたっては、江戸時代の村をいくつか合併して新町村が編成されるのが普通でしたが、上板橋は単独で上板橋村となりました。
役場は、当初安養院の玄関や境内の建物を使用していましたが、昭和二年(一九二七)にこの場所に新庁舎を建築しました。
以後、昭和七年に上板橋村が東京市に合併されるまでの五年間、ここに役場が置かれていました。
石柱はその当時に門柱として使われていたものです。
この役場跡は、平成十四年度に「一町三村役場跡地」として、板橋町役場跡、志村役場跡、赤塚村役場跡とあわせて、板橋区の文化財に登録しました。
平成十五年三月
板橋区教育委員会
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安養院の境内に流れる“あげ堀”と田柄川、石神井川の水の流れに挟まれた立地に役場があった。
また、上板橋役場跡と安養院を横切る台橋通りは古道で、南北を結ぶ重要な道として今も交通量が多く、新川越街道を越えると一方通行となるが、その先は若木通りとなり前野川に架かる閻魔橋を渡り、台地を下って中台の出井川跡へと続く。
上板橋方面から高島平(西台など)へはバスしか通っていなく、アクセスが良くない為に、この若木通りも重要な道として今も通行量が多い。
※東武東上線と三田線に挟まれた地域(下の地図の桃色丸あたり)は陸の孤島感があるので、バスと南北を通る昔からの道が重要になる。

いたばしの古道より引用ーーーーーーーーーーーー
台橋道

中台前で練馬道から別かれて南進し、東上線の踏切を横切り東方へ50メートル食い違って中内出に至り川越街道を横断し、この交叉点に田中米店郵便ポストがあった。
更に南へ進み上の根の動坂を下り安養院と上板橋村役場の間を通り、栗原のあげ掘を渡り、また石神井川の台橋を渡って、毛呂・小山のあざ境を南進して根の上に至り、上板橋小学校分校(現上板橋第二小学校)の四ツ角で大谷道に合する。この道は更に坂を下り「えんが掘」を渡って向原を過ぎ薬師道に達する。
この道路は志村方面から旧上板橋をほぼ南北に縦走し、東西に通ずる川越街道・大谷道を結んで、薬師道に合する道である。
石神井川に架かる「台橋」の直ぐ南道路の西側にあった元村会議員竹内五郎さんの家号を村人は「台橋」と言っていたという。また、毎年6月末日。「台橋」から150メートルほど下流の処で、小山地区の人々が不動明王をまつり、氷川神社から戴いたお札を竹の先を割って挟み、2、3名の者がこれを持って川に入り、「さんげ、さんげ」と唱えれば、川土塁の人々は「帰命頂礼・・・」と声を合わせて念じ「ふせぎ」を行ったという。
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下の地図、この役場跡のすぐ近くに旧石器時代の、地域というか日本の宝でもある貴重な茂呂遺跡があり、石神井川の向かいで田柄川に挟まれた場所に栗原遺跡(城北公園内)もあり、太古のすっと昔から栄えてきている地域だとよく分かる。
また、上の地図の赤丸部分には長命寺があり、かつてここは板橋城だったのではないかと推定されている候補地のうちのひとつ。

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■田柄川 石神井川との合流地点
■石神井川 公開された茂呂遺跡(旧石器時代が日本に普遍的に広まっていたことを証明した遺跡・黒曜石製 茂呂型ナイフ形石器の発見)
■板橋区 栗原遺跡の竪穴住居跡と長嶋茂雄

■板橋区泉町 出井の泉跡(出井川)
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■板橋区 前野町地区の遺跡と前野町熊野北遺跡 常楽院収蔵の土器(前野町式土器<弥生土器>)

■板橋区東山町 板橋城跡 赤塚城跡(築城主は千葉自胤)

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2021 3/2 『宮仲(巣鴨村) 谷端川 上池袋支流(瓢箪池支流) 滝と呼ばれた洗い場跡 瓢箪池跡(山玉(やまたま)の池)』

豊島区郷土資料館紀要
<豊島区の湧き水をたずねて>から引用ーーーーー
小川跡:上池袋1-3付近から湧き出た清水は、小川となって北上し、上池袋1-14で直角に右に折れ、西巣鴨1-10の丹羽藤吉郎邸(のち山口玉造邸)内を通って谷端川に注いでいた。
途中の上池袋1-27には洗い場があり、小川の流れが急なため「滝」と呼ばれた。
現在は暗渠となり、洗い場跡も住宅が建ち面影は残っていない。

瓢箪池跡:上池袋1-3付近から湧き出た小川が、谷端川に流れ込む場所にかつて丹羽藤吉郎邸があり、瓢箪に似た形の大きな池があった。のち東京謄写堂社長の山口玉造邸となり、「山玉(やまたま)の池」と呼ばれた。
雉や鷲・兎などが巣を作っていたという。現在その一角に旭湯がある。

※現在、旭湯は廃業している。
※丹羽藤吉郎:明治-大正時代の薬学者。日本薬剤師会会長として医薬分業達成に尽力した「分業の父」。日本製薬協会会長。昭和5年死去。
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地図の南、山手線の線路付近にかつて湧き水があり、小川となって谷端川に流れ落ちていたという。

地図の赤い矢印が写真一枚目で、上流を撮ったもの。
その下は流れに沿って撮っていて、川跡にもお馴染みの大谷石の護岸が一部残っている。
上流は川幅(道幅)が非常に狭く、住宅が密集している。
途中に上池袋中央公園があり、防災用ポンプ(防災用井戸)も設置されていて防災公園としても機能している。
この公園の写真の下がかつてあった洗い場跡。
洗い場跡を過ぎしばらく流れて行くと、旧癌研通りと呼ばれていた道を越えるとその先は水色で囲った写真の瓢箪池跡になり谷端川に注ぐ。
また、合流部分の近くの谷端川跡沿いにも防災用ポンプが設置されている。
生活道路となっている上池袋支流は中流域から下流域にかけて人通りが多く、短い支流で暗渠になり道になったが、今でも川の痕跡、水の存在を見つけることが出来る。

瓢箪池があった付近の谷端川は昭和10年前後に暗渠工事が行なわれたので、昭和5年以降、山口玉造邸となってからしばらくして瓢箪池(山玉(やまたま)の池)も消滅したと思われる。

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