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2020 4/13 『滝乃川学園跡』

地図の赤丸部分、明治通り沿いに滝乃川学園跡の案内板がある。
明治初期から明治39年のことなので、当時の面影を見つけることは出来ない。

案内板から引用---------------------
滝乃川学園跡 滝野川1-90地先

滝乃川学園は、日本で初めての知的障がい児のための教育福祉施設として滝野川四七三番地に設立されました。
学園創立者の石井亮一は、キリスト教精神に基づく知的障がい児の教育・研究に生涯をささげた教育者で、アメリカで知的障がい児教育の見分を広め、こうした成果を自らの学園で実践し、妻の筆子と共に我が国の障がい児教育と福祉・女子教育に大きな足跡を残しました。
学園の起こりは、明治二四(一八九一)年に発生した濃尾地震で孤児となった女児たちを引き取り、「孤女学院」を設立したことに始まります。
この児童の中に知的障がいの子供がいたことから、障がい児の教育と福祉に力を注ぐことを決意したのです。
翌年、滝野川の地に園舍を建て、明治三〇(一八九七)年に「滝乃川学園」と改称しました。「滝乃川学園」となってからは、従来からの孤女への教育と障がい児への教育を行う二つの教育部が設けられ、教員保母の養成も行われました。
七・八百坪とされる敷地内には、生徒の居室にあたる建物や教育、祈りをささげる礼拝堂などが所在しました。
その後、園児の増加や設備の増設などの必要から明治三九(一九〇六)年、隣接する巣鴨村に約四二〇〇坪の敷地を確保し移転しました。
昭和三(一九二八)年にはさらに、現在の学園の所在する国立市谷保へと移転をしています。

平成二十五年三月
東京都北区教育委員会
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皇室とも深い繋がりがある。
渋沢栄一は三代目理事長に就任。

滝乃川学園wiki

【過去記事】
国指定重要文化財(建造物) 旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫) 北区西ヶ原二-十六-一
国指定史跡(大正十一年三月八日指定) 西ヶ原一里塚 北区西ヶ原二ー十三・四先
板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一

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2020 4/9 『石神井川 音無こぶし緑地の湧水』

地図の黒丸部分、かつての石神井川の流れを直線化して残った旧河道を整備したのが音無こぶし緑地。
崖を背負ったように集合住宅が建っていて、石積みの壁からパイプが出ていて、湧水がトクトクと流れ出している。
常時流れ出していて、水量も豊富。
かつては直接石神井川へ注いでいたのだろう。
今はどうか分らないが、朝は高齢者の方々が楽しくゲートボールをやっていて、のんびりし風景が素敵な緑地。
“東京湧水巡礼”さんブログの記事に書いてあるように、十条台一帯にはかつての東京第一陸軍造があり、北区立中央公園には本部の建物がそのまま残されていて、広大な運動場もある。
そして、陸上自衛隊十条駐屯地もあり、未舗装の土地が広がっているために、染み込んだ水が湧き出してきているのだろうと。

ちなみに、陸上自衛隊十条駐屯地の敷地には、消滅した鎌倉街道が通っていて、前面道路から現れる鎌倉街道が現存している。(地図のグレーの線と点線)
さらに余談だが、学生時代にこの駐屯地で仕事をしたことがある。

※ 湧水の映像はこちら(mp4、24.6MB、720×1280)

【過去記事】
■石神井川 音無こぶし緑地の湧水
■石神井川 音無こぶし緑地の豊富な湧水 カラッカラ乾燥の都内
■石神井川 2021年3月末 音無こぶし緑地の豊富な湧水
■石神井川 2024年2月末 枯渇した音無こぶし緑地の湧水
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
旧鎌倉街道 中道編
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道
鎌倉街道 中道 並木橋
板橋区赤塚 鎌倉古道

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2020 4/8 『江古田川 不動橋と垢離取不動尊』

江古田川の不動端は地図の黒丸部分に架かっている。

案内板から引用---------------
不動橋 橋の完成昭和36年3月、高欄の完成平成3年3月
橋の横に垢離取不動尊(こりとりふどうそん)があり、江古田村には大正時代の初期頃まで、毎年6月
に行われた不動尊のお祭りの日に「万垢離(まんごり)」という行事がありました。
この日は、不動尊の前に5色の幣束を飾り付けた梵天が立ち、大山や富士山に代参する村人達が裸で川に入り、体や3mほどの木の太刀を洗い清めました。水ごりの後、梵天を先頭に洗い清めた太刀をかつぎ、かけ念仏も賑やかに行列をし、氷川神社に向かい五穀豊穣、家内安全を祈願しました。

中野区
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江古田川は妙正寺川に合流する、普段はとても細い流れの川だが、大雨が降ると一気に水嵩が増す。
【過去記事】
江古田古戦場(江古田・沼袋原の戦い 江古田原合戦)

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2020 4/7 『豊島区南池袋(雑司が谷) 法明寺 豊島氏の墓』

地図の黒丸部分、豊島区南池袋(雑司が谷)に法明寺があり、飛地境内に鬼子母神堂がある。

案内板から引用---------------
豊島氏の墓
豊島氏は、平安末期から鎌倉、室町時代にかけて、武蔵国のほとんどを勢力下にもっていた在地領主であるが、文明十(一四七八)年、太田道灌に攻め落された。
その後裔を称し、江戸幕府の旗本となった一族の墓である。
八丈島代官をつとめた豊島忠次(寛永二十<一六四三>年没)をはじめ、豊島氏系図を作成した泰盈(やすみつ)(享保十二<一七二七>年没)の系統を中心とする。
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他には、老女華嶋の墓・楠木正成息女の墓、四代目橘家円喬の墓、小幡景憲の墓などがあるという。(墓地・墓石の写真はなし)
【過去記事】
雑司ヶ谷霊園 ジョン万次郎墓
雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
雑司ヶ谷 宣教師 マッケーレブ邸
雑司ヶ谷 御鷹方御組屋敷道
池袋 四面塔尊 辻斬残骸 無縁仏の供養
池袋の川 弦巻川
豊島区の100年 弦巻川 丸池跡
豊島区の湧き水と池
池袋の川 水窪川 暗渠をぬけて
今宮神社駐車場の湧水 (水窪川の崖)
東池袋遺跡
豊島区 のぞき坂
豊島区 法明寺 威光稲荷堂
江古田古戦場(江古田・沼袋原の戦い 江古田原合戦)

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2020 4/6 『石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水』

石神井川の下流、地図の黒丸部分に“音無さくら緑地”がある。
この緑地は旧石神井川の流れを保存し、かつての石神井川の姿にあった露頭もそのまま保存されている。
攻撃斜面(川の流れがはやいと崖が削られ、急斜面になる)は、そのまま保存されていて、ほぼ常時、崖から水がポタポタと染み出して(湧水)いる。
写真の青丸部分の苔からポタポタと染み出しているVのリンクを下記に載せている。
そして、下から2番目の写真、斜面の口から人工の流れか自然湧水かは分らないが、ここからも水が湧きだしている。
この露頭は都内ではとても貴重であるので、多くの方が訪れる。

案内板から引用---------------

石神井川は、東京都小平市花小金井南町付近を源として北区内で隅田川に合流するまでの延長25.2キロメートルの河川です。
一般には、石神井川の水源としては、石神井公園の三宝寺ヶ池が有名ですが、周辺の市街地化により湧水が減少したため水量は、一般家庭からの排水も少なくありません。
石神井川は大部分が台地上を流れているため、ゆるやかな流れの区間が多いのですが、板橋区加賀から下流になると渓谷状となり、水流もかなり急になります。そのため、昔はこの一帯の石神井川は滝野川とその名を変えて呼ばれ、飛鳥山のあたりでは、この地を愛した徳川吉宗のふるさとにちなみ、音無川とさらに名を変えて呼ばれていました。
ごうごうと音をたて、流れる川を音無川と読んだところに、この地と将軍吉宗との深い関係が読み取れます。
吉宗は「春は花、秋は紅葉」の例にならい、飛鳥山に桜を植えさせる一方で、石神井川の両岸に紅葉を植えさせました。
文化分政の頃には、滝野川の紅葉は江戸中に知られ、江戸名所図絵にも「楓樹の名所として其の名遠近に高し」と述べられています。
この紅葉は維新のころ、薪にして売られるところでしたが、羽鳥了甫という人がたまたま来あわせ、これを惜しんで残らず買い取り、そのまま保存することになり、明治大正にかけても滝野川の地は東京市民の遊覧の地として賑わいました。
現在でも、この音無さくら緑地では、当時の音無渓谷の姿をかいま見ることができます。

この場所に緑の吊橋が初めて架けられたのは、昭和29年のことでした。
その後台風により崩壊し、昭和55年に新橋に変わりましたが、平成6年には緑地として調和した、現在の吊橋となりました。

記念碑から引用---------------

石神井川は、昔から両岸に樹木がうつそうと茂り、深山幽谷の趣きがあつたが、昭和四十年頃からの改修工事によつて、美しい自然がつぎつぎと消えていくのを惜しみ、◯岸の自治会、商店街の各代表、神社佛閣の当主が、昭和四十九年に「石神井川の自然を守る会」を結成、東京都、北区なその関係当局に哀情を訴え、ここに◯川を利用して昔の面影の一部をとどめることに成功した。
よつて記念碑をつくり、これを末代に伝えるものである。
昭和五十五年十月
石神井川の自然を守る會
東京都北区民小林山子代◯書

(◯部分は読めず。)

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※ 攻撃斜面からの湧水の映像はこちら(mp4、61.4MB、720×1280 真ん中の苔部分からポタポタと湧水が落ちていくのが分ります)
※ 攻撃斜面からの湧水の映像2はこちら(mp4、16.8MB、1280×720 こちらはとても見づらいですが、真ん中あたりからポタポタと)
※ 攻撃斜面からの湧水の映像3はこちら(mp4、19MB、720×1280 こちらは2の縦位置で、とても見づらいですが、真ん中あたりからポタポタと)

※ 攻撃斜面からの湧水の映像4はこちら(mp4、18.3MB、720×1280 こちらは見やすいです。2020年6年22日追加)
※ 攻撃斜面からの湧水の映像5はこちら(mp4、22.9MB、720×1280 こちらは見やすいです。2020年6年22日追加)

【関連記事】
■石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
■石神井川 割烹音無川<音無川温泉> 音無さくら緑地
■石神井川 音無さくら緑地 石神井川沿いにあった紅葉園(滝野川園と楓楽園)

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2020 4/2 『北区赤羽西 かなくさ坂と湧水 隣接する赤羽自然公園の湧水』

地図と地形図の黒丸部分に“かなくさ坂”がある。
地形図を見ると、この付近は低くなっていることもわかる。

案内板から引用---------------

この坂は、島下公園(赤羽西六ノ十〇ノ十二)の北側を東の方へ登る坂です。
名前の由来については定かではありませんが、鉄分を多く含む湧水の影響で池土が赤褐色に染まったことを、かなくさ(金属の匂いや味がすることを金臭いといいます)と表現したのではないかという説が知られています。

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湧水は確認出来なかった。
道をはさんで隣にある“赤羽自然観察公園(赤羽スポーツの森公園”は、かつて陸上自衛隊十条駐屯地があったが、これらの公園として整備されて、赤羽自然観察公園には湧水がある。
写真下三枚が湧水で4年前に撮影したもので、とても綺麗な湧水ということがわかる。まるで都内ではないような景色が広がっており、とても驚くが、これは駐屯地という特殊でクローズドの守られた環境だった故に、湧水も守られたのではないだろうか。
綺麗な湧水は“金臭い(かなくさい)”ことも、赤褐色でもなかったように思う。
もちろん飲んでもいないので、実際は金属っぽい味がするかもしれないが。
道(尾根)をはさんで、湧水の種類が違うのだろうか。それとも同じ湧水だろうか。
素敵な公園なので、おすすめです。

【過去記事】
赤羽自然観察公園の湧水
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標
■急傾斜地 板橋区小豆沢・北区赤羽西・新宿区赤城元町
北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
北区赤羽西 真正寺坂
赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
散歩RUN 志村一里塚〜桐ヶ丘団地〜赤羽八幡神社

【過去記事】
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
JR貨物北王子線と廃線跡

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2020 4/1 『石神井川 板橋東いこいの森』

地図の黒丸部分、埼京線(赤羽線)の隣に、板橋いこいの森という公園がある。
下流域にあたるこの付近の石神井川はかつて大きく蛇行していた。
そして、加賀藩下屋敷に接する場所であり、その後は東京第一陸軍造兵廠があったことも関係しているのだろうか、アプリ“重ね地図”や“昔の航空写真地図”を見てみると、手つかずのままだったことがわかる。
どの書籍だったかは忘れたが、この付近もかつては(今もか?)湧水があったという。
石神井川の歩道から森を上ってみると、灯籠や湧水を模しているかのような噴水や、人工の川の流れがある...水の“におい”を感じる森だが。

【過去記事】
陸軍板橋火薬製造所跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

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