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2015 3/31
『本郷給水所公苑』

文京区の本郷に本郷給水所公苑と東京都水道歴史館が隣同士にある。

本郷給水所公苑のインフォサインから引用----------

徳川家康が入府した1590年頃の江戸は、広大な武蔵野台地の東端に位置する小さな村落であったといわれている。
神田上水は、家康の江戸入府にさいして、家臣 大久保藤五郎忠行が開削した小石川上水がその起源といわれている。
神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする神田川に善福寺川、妙正寺川の水路を合わせ、目白台下の大洗堰に至り、水戸藩邸を通って神田川を掛樋で渡し、神田、日本橋方面の飲み水などに利用していた江戸時代から明治時代はじめの水道である。

この石樋は昭和62年から平成元年にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復原したものである。
石樋の内部寸法は、上幅150cm、下幅120cm、石垣の高さ120〜150cmで、長さ約180cm、幅60cm、厚さ30cm 前後の蓋石がのせられている。

江戸水道から現在の東京水道に至る400年を記念し、また、江戸時代遺跡の保存活用を図ることを目的としてここに移築復原したものである。

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これは今でいうところの給水管ですね。
堅牢な造りで江戸の人々を生活を守っていたわけだ。
重そうな、というか、完全に重いフタを、足に落としたらペッタンコなるなと、ふと思った。当時はスティールトゥの安全靴どはもちろんないのだから...
最近になって文京5中跡地からも神田上水の遺構が発掘されたという。

昔も今もウォータービジネスがある。
衰退どころかこれから先、もっと大切なビジネスになるのだろう。

しかし暖かくなってきました。
嬉しいかぎりだ。
そういえば、夏場の公園の水飲み場、散歩してノドを潤すワンコ待ちで次に使うこともよくあるな。
ランニングでかいた大汗、ばっしゃばしゃ浴びて、ガブガブ飲んでるなぁ。
気持ちいいもんです。
水は大切に、だ。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2015 3/31
『モヒート風 』

最近よく作るモヒート風サワー。
ミントが手に入ったら、缶チューハイのシークワーサーサワーにミントをちぎって入れるだけ、
暑い時期以外は、冷えていないのが好きなので氷は入れていないけど、これからの季節には氷入れてがぶ飲みしてもいいでしょう。
きつめの8%の500mlとミント1袋、150円というお安さ。
ミント1袋で3杯くらいは作れて、なかなかおいしいです。

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2015 3/27
『自分のルーツ1 <鞆淵荘(鞆渕荘)和歌山県紀の川市[鞆淵八幡神社 国宝 沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)]〜大阪市都島区友渕町>』

自分のルーツを調べていくうちに、祖母方の先祖は土地に関わって村を管理、まとめていたと知った。武士の家系だったからだろうと思う。
今は亡き祖母から母へ言い伝えられてられていたのは、先祖は藤原鎌足だと幼い頃から聞かされていた。
芸能人の友近の先祖は藤原鎌足だと以前番組でやっていて、先祖が藤原鎌足に辿り着くことはよくあることだと、ルーツを調べる行政書士が言ってた。
祖母の家には立派な刀がたくさんあったが、180cm越えの大男で村一番の大酒飲みだった祖父の飲み代に全部化けたと。
昔、村には先祖の像もあったんだよとも言っていた。
残念ながら祖父の家系のことはほとんど分らず、父方の方もほとんど知らない。

今調べているのは父方の方で、今の自分の名字。
先日、京都府福知山に自分の名字である町と川があると知った。
京都、大阪、和歌山、と大昔に何か関係があったのだろうか。
近年になってたまたま同じ名になったのだろうか。
いずれにせよ、同じ呼び方をしているのには何か繋がりがあるように思う。
今では大阪と和歌山では交流を深めていると。
京都の方には明智光秀が臨戦時における陣城として使ったという東ノ古城跡、西ノ古城跡があるという。別名 友渕城。web web
城もあったりと、にしても、川の名になっているとは面白いものだ。
実際に自分は幼い頃から今も川にご縁がある。
育った家の裏には用水路がちょろちょろ流れていて、昔の人は名も無きの“どぶ川”と言ってたらしいが、この川は自分が生まれるずっと前、元々は千川上水から分水して今は消滅した中丸川につなげていたと最近知った。
田畑が広がるまだ汚れる前はきれいな上水がさらさら流れていたのだろう。

*母方、自分の故郷である大分県宇佐市にある宇佐神宮は八幡宮の総本社。八幡様は源氏の守護神、武士の守護神。
*和歌山 高野山 弘法大師....母方の曾祖母と祖母は大分にある弘法大師ゆかりの寺で修行をし村人を助けていた審神者(さにわ)だ。お役目なので無償。
*父方の和歌山の地区には鞆渕八幡神社があり、高野山がある。
・・・先祖や土地も違うがつながっている。

大分県宇佐市生まれの東京育ち、この西の3つの町をいつか訪れて実際に調べてみたいと思う。

【関連記事】
■自分のルーツ1 <鞆淵荘(鞆渕荘)和歌山県紀の川市[鞆淵八幡神社 国宝 沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)]〜大阪市都島区友渕町>
■自分のルーツ2 <武士の活躍と信仰 鞆淵動乱[鞆淵氏と神人・高野山]>
■自分のルーツ3 <京都府福知山市三和町友渕 友渕川と別名 友渕城(東ノ古城跡、西ノ古城跡)>

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2015 3/24
『歩くこと走ることとコミュニケーション』

日曜日の朝メシを〆た後、歩いて明治神宮へ行こうと、いそいそと出発。
少し走ったりも入れて、汗をかきながらテクテクと。
歩く時にはたくさん会話をする、高齢になった時にはよりよいですね。

男と女では会話の流れや着地点が異なるので、家に♀友達らが遊びに来て、女子だくさんの輪に居ると、ポンポン飛んでゆくその会話や内容にほぼついて行けない。
まだ話し終わっていないうちにどんどん違う内容をかぶせてバンバン話が変わってゆく。
よくもまぁそんなに内容が変わるもんかねと。話を聞いているとけっこう人の言っていることを聞き流していたりもする。
「ちょっちょっちょ!まだ話が終わってないんだけど」と話を戻そうすることがとても多い。
男は問題解決をするために話すというが、女にとって会話はちがうのだ。
中には女子の輪に入って饒舌に話をすることができる男友達もいるし、話についていけて、なんなら相談にまでのってというか、悩みやグチ的なことを聞いていたりする。すごいなと思う。

私たちホモ・サピエンスが登場する前に生きていた先輩であるホモ・エルガステルはアフリカを飛び出して、肉を求めて大陸を歩きに歩いて大移動して世界各地に散って生きたという。
しかし、絶滅してしまった....身振り手振り、ウホウホッ!とかはできていたのだろうが、会話ができなかったことも滅んでしまった理由だ。
長い時を経て、私たちホモ・サピエンスが登場してアフリカを出て、歩いて移動して、たくさん会話することで生き残れ、70億人にまで増殖して今に至る。

幕末の志士ら、当時の人々もたくさん歩いて人とコミュニケーションをとってた。
坂本龍馬は33歳の生涯を終えるまでに、長崎と江戸を何往復も歩きに歩いて、その距離は1250kmで歩くと30日もかかったという。生涯では地球一周分だと。
歩く人坂本龍馬はそう歩いて見識を深め見聞を広めたわけだ。
今はモーターやエンジンであっという間に目的地着く時代、便利な分、歩くことをあまりしなくなった。かつての自分もそうで、隣駅でも電車かバイクで移動してたし、歩く意味が分からなかった。
しかし、今こうしてよく歩いてRunningをしていると、まぁよく人に声をかけられるようになったし、知らない人と会話してコミュニケーションをとって、知らない人に挨拶もよくされる。昔の自分ではあり得ないようなことだ。
道を尋ねられることはしょっちゅうで、この2ヶ月半で7人だ。
この前は商店街で知らない青年に20分つかまって会話をして、ま面白かったんだけども、汗で冷えに冷えた。
どうやら声をかけやすい人に変身したようだ。

....いい汗かいて明治神宮 北参道に到着。
こちらから入るのが自分はとても好きだ。
広葉樹が長くつづく静かな参道はとても落ちつく。
外国人の参拝者がとても多い。
お参りして、来た参道を、代々木を抜けて新宿へ。
疲労で閉口する妻....ノーコミュニケーションだ。
伊勢丹でかつ丼を入手し、帰路はとっとと電車で。
13.28km 2:13'10'' 合計で4時間ほど街を散歩。
帰ってきて、自分はその足で近所を8kmランニング。

ずっしり重すぎのかつ丼とサワーで腹一杯だ。

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2015 3/24
『開花』

この一週間だったか、とても暖かい日が続いた。
窓は全開で気持ちよし。
朝に走るコースが桜並木が続いていて、それはそれは、つぼみから桜散る3週間くらい楽しめて、とっても幸せを感じる。

花粉症の症状が出始めて20数年が経つが、30歳前後の一時期は鼻水と目のかゆみで目が赤くてズルズルでなかなか辛かった時期もあった。
その年によるだけか??

ところが今から6年前、たばこ止めてランニングしはじめた頃から、以前のような花粉症の症状がそんなでもなく軽く感じられて今にいたる。
っても、 今でもくしゃみも連発するし、鼻水ズルズルッとするけども、辛い感じはなくて、薬も注射もマスクもしないでいらる。
走っている人でも、どえらく重い花粉症の人もいるし、ランニングと何か関係があるのかは分らないが。
発症したら治ることはないというけども、軽減出来ているような気がしないでもないような感じがする、どうなんだろうか。

ま、走っている時はくしゃみもほとんど出ず、目もかゆくないし、走ることによって体質が変わって微妙な変化があった。それは良いことだと思うようにしている。

しかし、今朝は寒かった。。

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2015 3/20
『私たちの先輩』

チンパンジーの祖先と分れて300万年後、私たちの祖先アウストラロピテクスは二足歩行をしていた。
身長は140cmでチンパンジーとあまり変わらず、長い腕もそのままで、木に登って果実をとって食べていて、人類はチンパンジーの祖先と分れたあとも以前とあまり変わらない生活を続けていた。

しかし200万年前、全くちがった2種類の人類が誕生した。

ひとつはパラントロプス・ロブストスで150cmでずんぐりとした体型。
もうひとつはホモ・エルガステルで身長が170cmですらりとした体型。
彼らは食料不足を生き抜くために、主食の果実に代わる新しい食料を求めて独自の進化をしたという。
パラントロプスは木の根が一年中手に入るためにそれを主食にしていたという草食で、咬むために顔の筋肉が発達してまん丸顔。
ホモ・エルガステルはヒョウなどが残した肉を主食とした肉食で、狩りの概念がまだなくて、草原を長く歩いていたからスラっとした体型になった。
2種類の人類が出現したのは多くの仲間を増やして絶滅を避け生き残るためだったと。

700万年の間に27種類もの人類の祖先が誕生したが、そのうちたったひとつを除いて絶滅した。

草食パラントロプスは突然絶滅し、肉食ホモ・エルガステルが偶然生き残った。
その当時の頂点に君臨するのはサーベルタイガーなどの猛獣で、ホモ・エルガステルはかっこうの餌食でばんばん食べられていた。
肉食という危険な道を選んだことでホモ・エルガステルは決定的な進化をした。
肉食によってもたらされたものは脳の巨大化で、肉を主食にした祖先だけがなぜか脳を巨大化させていって、先に絶滅した種よりも2倍の容量だったという。
脳は身体の中で最もエネルギーを必要とする器官で、そのエネルギーを補うのに肉という高カロリーな食料が役にたったのではと推測されている。
肉を確保するために知恵を絞って狩りをするようになり、それがさらなる脳の巨大がになった。
肉を食べて脳に肉付けをしたようなもので、肉食が私たちを“人”にしたのだ。

その後も新しい人類が誕生してそのたびに脳が大きくなっていく。

ホモ・エルガステルの次に現れたのは、ホモ・エレクトスでアフリカを出てアジアへ広がり、その子孫はジャワ原人となり、やがては中国に渡り北京原人となった。

そして、20万年前についに私たちホモ・サピエンスがアフリカ中央部で誕生し、脳はさらに巨大になっていった。
しかし、脳の大きさだけで人類が繁栄してきたわけではないという。
ホモ・サピエンスと全く同量の脳を持っていたのが30万年前に誕生してヨーロッパで繁栄したネアンデルタール人で、私たちホモ・サピエンスとネアンデルタール人は何千年もの間共存して、生きていくための基本的な能力は私たちとほとんど違いはなくて以外なほど似ていたという。
現代にネアンデルタール人が街を服着て歩いていたら違和感はないのではともいわれている。
ネアンデルタール人が4万年前に絶滅し、私たちホモ・サピエンスが生き残れたのはノドの長さが違うことだった。ネアンデルタール人は母音がうまく発せられずあまり複雑な言葉を話せなく、私たちの方はノドの違いから複雑な言葉を話せるようになっていったという。

つまり、話す能力に決定的な違いがあったということだ。

私たちは自らの経験を言葉で仲間や子供に伝えることができ、言葉を持って世代を超えてそれぞれの知識を共有することができたから生き残れ繁栄して今にいたる。
言葉が未来を予測する力となり、狩りの計画を立てることもでき、言葉だけではなく壁画(絵)など様々な形で、次の世代に知識を受け継いでいくようになった。

言葉を操る能力こそが新しい進化の原動力になったのだ。
言葉は進化を飛躍的に早め、人類の歴史は大きく変わった。

飛躍的に食料を得る力を増していったホモ・サピエンス、一方それはネアンデルタール人にはそれは叶わなかった。
長い間ホモ・サピエンスと共存していたネアンデルタール人はいつしか住みかを追われ、生きる術をなくしてひっそりと絶滅した。
1万年前、ずっと続いていた厳しい氷河期が終わり温暖な気候が訪れて、私たちホモ・サピエンスの繁栄が始まっていく。
その大繁栄の道のりには絶滅していった26種もの人類の存在があったわけだ。

世界各地に広がって繁栄してきたホモ・サピエンス、日本列島の最初の住人である縄文人、寒い地方からやってきたものと大陸や南からやってきた彼らの繁栄でもって今の日本人ができあがったと。

「肉大好きなんです、私」
脳みそのためにも生き残るためにも肉を喰え!だろうか。
そしてよく話せということだろう。

ホモ・サピエンスは大規模な火山の影響でかつては1万人まで減って絶滅の危機を経験したという。
それから7万年後、全世界の私たちホモ・サピエンスの数は1960年頃に30億人で、そこを境にして急速に増えていき、現在は72億人で爆発的に増えた。
この先の20万年後、ホモ・サピエンスから新しい種が誕生することもあるのだろうか?
壮大なスケール の人類の歴史、改めておもしろいなと思った。
※ 新たな発見、アップデートが著しい分野です。

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2015 3/19
『東京都水道歴史館』

文京区本郷にある東京都水道歴史館はその名もずばり水道の歴史を紹介している。

生活に必要な上水は江戸時代の人々が多摩川や神田川などから水を引っぱってきて、不足していた江戸の水を解消したものだ。

写真1枚目、当時使われていた木でできたパイプである木樋。
これを継ぎ木して江戸市中に網の目のように張り巡らせていた。
神田川に沿って水道橋という駅があるが、この付近でかつては神田川の上に木樋の橋をかけて上水を流していたから、水道の橋で水道橋と名付けられている。
余談だが、三田上水は代官山を通っていて、旧山手通り方面から流れて、代官山の大きな槍ヶ崎交差点の上を、水道橋と同じように木樋の橋をかけて上水を流していたという。その遺構は昭和の末まで交差点上空に存在していたと。

2枚目、上水を貯めた井戸。
飲み水である上水、そして生活排水である下水(汚水)と糞は上水に混じらないように厳重に管理していたという。疫病の発生は死につながるからだ。
溜まった糞は江戸市外から江戸市中へと野菜を運んで売っていた農家の人々に渡されて、行きは野菜、帰りは糞を運搬していたという。
坂道など転んだり滑ったりしてアクシデント発生にならないように慎重に運んでいたのだろう。
急な坂道では荷車の後ろを押す押屋という専用の職業の人もいたのだから、当時の人々にとっては土砂利の未舗装の坂道を通るのはとても大変なことだったのだ。

3−4枚目、当時の工事のようすを紹介しているアニメと劇。
上水の壮大なルートを真っ青なLEDで点灯し、非常にまぶしく神々しい。
真ん中の幹の玉川上水からいくつも分水されているのが分る。

凝った設備で水の歴史がよくわかるこの施設、太っ腹で無料だ。
それだけ大切な水のことを市民の皆に知って欲しいとのことだろう。
後楽園も良し、こちらの施設で遊ぶのもチビには良し。

もう今は役目を終えたかつて人々の生活を支えたいくつもの上水、とても貴重な遺構ゆえに一部は復活している。

世界的にも、蛇口をひねると飲める水が出てくるこの日本は上水の先進国だ。
かつての先人の恩恵だから、水は大切にしなければならない。

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2015 3/17
『玉川上水』

新宿御苑そばに玉川上水水番所跡、水道碑記、四谷大木戸跡碑がある。
写真1−2枚がそれで、現在は水道局がある。

徳川家康が入府し、江戸の人口は爆発的に増えていった。
川の水や井戸水などではもうまかなえなくなってしまい、まずはじめに神田上水を引き、多摩川の上流から江戸市中に水を引いて飲料水不足を解消したのが玉川上水だ。

玉川上水の工事当初、途中まで引いた水が土の中へと吸い込まれてしまったり、岩盤に当ったりと大変だったと。
そこで、水量が豊富なもっと上流の羽村から引くことに変更。
羽村から四谷大木戸までは43kmで標高差は100mゆえに、工事は困難を極めたという。
東京都の地図を思い浮かべると左手が標高が高くて右手の江戸(皇居)は低くい。
新宿を出発した中央線はずっと上り勾配を進んで突っ走っていることになり、上り電車はあまりアクセルを開けずにすーっと下って省エネ運転だということだ。

工事は順調に進むも大きな壁にぶち当たる。
それが立川断層だ。
東日本大震災の発生でリスクが高まったとして調査が行われたのも記憶に新しい。
当時の人々は活断層というものの存在は知らなかったかもしれない。
水は順調に低いところへ向って流れてきたが、この立川断層は標高数メートルあって、その先が高くなってしまっている。
当然水は高いところを乗り越えられない。
しかし乗り越えないと江戸へは水を送れない。
水の特性として、例えば100mの距離で高低差が1mmのほぼ平行でも進んで来た水は流れるので、断層に一部沿う形で平行に流し、距離をかせぎ断層の高さを乗り越えられる水の高さにして、無事に乗り越すことに成功したのだ。
それが写真3枚目で、赤ラインが立川断層、うす水色ラインが玉川上水。
水を真っすぐ流せないために、迂回させているのがわかる。
そしてまた元の経路に戻る。

その先、2つ目の壁にぶち当たるが、それが国分寺崖線だ。
写真4枚目、崖がはじまる立川で、図でいうと上の方は台地で下は多摩川が流れる低い土地になっていく。
下に経路をとると江戸までは水を送れないので、この崖がはじまる立川付近で上の台地へと経路をとる。

それからは順調にちょっとずつ低い方へ低い方へと経路をとって、無事に四谷大木戸に達成。
驚くことにこの難工事を約1年でやり遂げたというのだからすごいものだ。
四谷大木戸には水番所がおかれ、水番人が詰めてごみの除去などをおこない、余った水は穏田川(渋谷川)に流していて、その名は余水吐(よすいばき)という。
こちらの過去記事に少しふれている。
新選組 沖田総司 逝去の地

厳重に管理された上水はこの四谷大木戸からは木樋(木でつくられた筒状の今でいうパイプ)や石樋でフタをして地面に埋められて江戸の中心へと送られて、将軍、大名、市民の生活を守ったわけだ。

それからはいくつかの上水が引かれた。
千川上水は玉川上水の途中から分水して、小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺(徳川家の菩提寺)や浅草寺へ上水を送っていた。
過去記事 千川上水跡 に昭和30年代の写真がある。

一番下の新宿の地図だが、かつての甲州街道がL字型に曲がっているのがわかる。
本当は真っすぐに通したいけれども、これは玉川上水を少しでも低い方へと流さないとならないために、街道が玉川上水に道をゆずったのだ。
現在は、御苑のトンネルが甲州街道として真っすぐかつての玉川上水の下を通っている。

家の蛇口をひねれば飲める水が出てくる。
公園の蛇口はよくひねるので自分にとっては一年中大活躍だ。
約360年の壮大な歴史があっての恩恵です。

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2015 3/16
『上野』

日曜日の夕方ちょい前、ランニングしている時に上野に寄ってみた。
上野の山の入口は武蔵野台地の端っこで高低差があって、桜並木はゆるやかな坂になっている。
この時季の入口には早咲きの桜が花を咲かせている。
ソメイヨシノもあともうちょいだなと“春”を感じることができる。
無邪気にはしゃいで写真を撮っているいるのはコリアン、チャイニーズ、東南アジア系の人々が多い。
プレミアムモルツを片手にべろんべろんになってた東南アジア系の軍団は、スタンディング花見をしてめちゃめちゃ楽しそうだった。
この場所にいつもいるホームレスはこの時季の喧噪ゆえにか、どこかへと移動している。
ゆるやかな坂道の手前にはこれまたせっかちな桜が一部咲いて楽しませてくれている。
そんな賑やかな上野の山だけど、幕末は上野戦争で破れた彰義隊の亡がらがいたるところに放置されていたという。
日本で初めて開かれた駅伝大会は上野 不忍池で周回コースだったと。
かつては馬も走った競馬場でもあったと。
何回も続いた東京大空襲、3/10には一晩で10万人の命が犠牲となった。
家族を失った子供達が上野駅や上野の山にたくさんいたと生き残ったおじさんに聞いたことがある。

東日本大震災が発生した年のこの時季の上野は人があまりおらず、閑散としていたのを憶えている。
あれから4年が経ち、上野東京ラインも開通していつもの日曜日よりも賑やかだったように思う。
たくさんの出来事があった上野、東北新幹線が開通して、多くの特急電車が姿を消し、今ではブルートレインは消滅へと向い続けて風前の灯だ。
東北の玄関口という愛称ももうなくなるだろう。
上野を発って左側に見える車両基地、痛みが激しいブルートレインの客車に、あまり予算をかけられないのだろうなと車窓から寂しく眺めて、尾久駅に到着。
王子駅を右手に流して、モーター音をうならせて東十条駅付近を爆走し、あっという間に赤羽駅に到着、これから先は旅のような気持ちになったもんだ。
うなるモーター音、国鉄時代のあのオレンジと緑色の車両に乗るとなんだか嬉しかったな。
土浦の親戚の家に行く時に乗ったあずき色とクリームの常磐線、上げ下げ窓を開けて、呼吸がしづらいほどに強い夏の暑い風を顔面に浴びて、台に置いた冷凍みかんは母と姉と仲良く食べて旅を楽しんだものだ。

上野初の夜行列車降りた時から青森駅は雪の中
北へ帰る人の群れはだれも無口で海鳴りだけを聞いている
....どんだけ歌っただろうか。

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2015 3/13
『石神井川 中板橋のプールと水神宮、練馬城 住宅地にある堀』

豊島区周辺で育った人にはとても馴染みがあるとしまえん。
冬は遊園地に夏はプールと年に数回のハレの日のお楽しみ、これがホントにとても楽しかったのだ。
そのとしまえんは豊島氏の練馬城跡に造られた。
開園は昭和初期で大盛況だったと、そして上流にある三宝寺池もにぎわっていると石神井川下流の現 中板橋の住民は知り、じゃぁならって中板橋にもプールをと石神井川の水を引いた大きなプールを作ったそうだ。
その当時は東上線が開通したこともあって、石神井川に架かる橋からチビ達が石神井川にダイブする遊びがはやっていて、たびたび電車が止まることもあって、プールのために開業したのが中板橋駅だ。
今では痕跡はないが、地域の方によって今でも大切に水神宮が祀られている。
写真1枚目が水神宮で、2枚目が中板橋という橋からチビたちがダイブしまくっていた鉄橋をみた写真で、プールは左手にぐるっとあったという。

練馬区の江古田で、太田道灌との戦いに破れて豊島氏は滅亡し、石神井城と共に練馬城も落城したという。
城と言っても天守閣があるような城ではなく地形を活かした城で平屋の建物と冊などがあるような平山城。
本丸跡と言われているのが巨大なウォータースライダー“ハイドロポリス”が佇む小高い丘になっている場所だという。
園の開発によって城の遺構はほぼなくなっているというが、園の外の住宅街にその遺構をみることができる。
としまえんのまわりを歩くとわかるのだが、隣に向山庭園があり、谷になっている。写真3枚目、右が向山庭園でこの谷が練馬城の堀の跡だという。
この道の先、としまえんの外周をぐるっと歩くとまた谷が現れるが、それも堀の跡だろう。
写真4枚目を見て頂くとわかるが、上から谷底をみた写真で、高低差がなかなかあるのが分るだろう。
写真5枚目、堀の底から上をみる。現在の池、かつての濠もこうあったのだろう。
練馬城の北側は石神井川が守り、その他をこの堀が守っていたのだ。
何気ない坂道だが、地域史を知るとそこが大切な場所だとわかる。
デベロップされた園内よりも、外の住宅街の土地が歴史を記憶している。

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2015 3/12
『4年』

あの日から4年が経った。
3月11日、手を合わせて。

その時その瞬間のことははっきりと憶えているし、youtubeでもその時の映像を今もよくみている。

揺れがおさまって真っ先に母を助けに行った。
バイクを運転してたけど、途中でまた大きく揺さぶられたのも憶えている。
ひっちゃかめっちゃかの真っ暗な家でヘルメットを被って怖がって動揺している母...テレビからは想像を絶する映像が流れてきて、たくさんの命が奪われつつあると知った。
自分の家、ウイールがついたラックが30cm位移動していた。
バンカーズボックスの上に置いといた道具を入れたでっかいザックが2m位飛んでいた。あちこち片付けて掃除して、家族親族、お客さま、友らに連絡をとって無事を確認した。そして大渋滞する国道をぬってバイクで家族をピックアップしたのは夜11時頃だっただろうか。腹も減らぬ夜、動悸がおさまらない日々だった。

これからまだ経験するであろう災害に備えて。

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2015 3/10
『本郷 菊坂 樋口一葉旧居跡と井戸』

本郷通りと春日通りの交差点のそばに菊坂という坂があって、下った先は言門通りにつながる。
その菊坂が通る地域に小説家・歌人として明治期に活躍した樋口一葉がかつて住んでいたという。
24年間の短い生涯のうち、約10年間現在の文京区内に住んだようだ。
菊坂と平行に通っている坂があり、かつてそこは東大キャンパス内にある池を源泉とした東大下水(ひがしおおげすい)という川が流れていたと。
その川跡を進み、路地を入ると樋口一葉旧居跡と一葉もかつて使った井戸がある。
井戸をはさんで左手に最初住んでいて、部屋数が多い右手の家に移ったという。
と、なんともいい雰囲気を今でも見ることができる。

一葉、晩年は生活が貧窮し、明治29年に24歳で亡くなる間際まで伊勢屋質店に通ったことが日記に記されていて、その伊勢屋は菊坂に今も保存されている。
しかし今、解体の危機にあるという。
所有者が固定資産税などの負担を理由に、「これ以上の維持は困難」と区に土地の借り上げを要請。
区は当初、近隣の大学に打診し、平日は授業などに利用し、休日には一般開放できるよう関係者で協議を進めたが、まとまらず、親族は最近になって更地にして売却する意向を示したという。
現在、区の担当者は「大学と区民に協力していただき、保全活用できるよう努力し、所有者側に理解を求めていく」としている。web

坂道の町文京区。

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2015 3/9
『わからない』

外資系レストランで¥1000で提供されているというM寸ピザ。
トマトソース的な色合いがしないから何味だろうかと思って、食べたけどまったく何味かわからないという....クミン的な香辛料の風味がするけど知らない味。
とてもおいしいけどまったくわからない味。
もう一枚あったので、パッサータ(濃縮裏ごしトマト)とウインナーでカスタムして、知った味に変身。

おじいもおばあもチビもみんな大好きピザ。
高校生の頃はLサイズ一枚じゃ足らなかったもんなぁ....シェイキーズにもちょくちょく言ったな。“ピザーラおとどけ!!―PIZZA‐LAはなぜ成功したのか”、この本はとてもおもしろくて、何だか負けじ魂や勇気をもらったなぁ。
・・・朝のM寸ピザはいいもんです。

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2015 3/6
『豊島区の100年 弦巻川 丸池跡』

明治・大正・昭和、激動の一世紀を写真で語っている写真集。
お値段約1万円の高価だけど、人気のある写真集だ。
珍しい写真オンパレード、馴染みのある地域ゆえにあそこだとすぐ分るから一層おもしろい。
池袋駅近辺は比較的新しく開発された場所....グリーン大通りを走る都電、トロリーバスやサンシャイン建設、百貨店ができあがる近代風景の隣にはバラックが。
歴史のある高田、雑司が谷、長崎の昔もとても興味深いものばかり。
その中でも、池袋の真ん中、現 メトロポリタンホテル付近にかつてこんこんと水が湧きだして雑司が谷・護国寺へと流れていた今は無き弦巻川の源泉である丸池の姿を初めて見ることができた。江戸時代〜明治初期の丸池は300坪とも600坪ともいわれる大きさを誇ったという。競技用50mプール2つくらいだろうか。
丸池周辺はかつては成蹊学園の敷地で、生徒が寒中水泳をやったり自主的に池を整備して湧き水をすごく楽しんでいる様子は、池が噴水に変わった今も変わらない。
弦巻川は昭和初期に暗渠化されて川は下水道となった。
その後の丸池は元池袋公園の一部にフェンスで囲まれ、昭和63年に丸池跡は現 史跡公園として整備され開園にいたったと。
ここら辺は自分がスケートボードをよくしに来てた場所で、雑司が谷のスケーターともよく滑ったし、あちこちまだ開発していたのを憶えている。
その時にはまだ丸池は完全には埋め立てられておらず(水は無い)、その姿を残していたのだから、そんな昔のことでもないし感慨深い。
下の写真は現在の丸池跡、ここにドでかい池があったとは今の姿からは想像がつかない。“丸池 池袋”でネット検索しても丸池の写真はほとんど出てこない。地域の方が後世のためにと撮って保管していた写真を掲載したのだろう。語り部、とても大切ですね。
写真集の隣の本は“わたしの豊島紀行”で、豊島区のそれぞれの地域に住まわれている方々が、彼らが過して見てきたできごと、歴史を語っている。
写真集と共に読み進めると、またさらに地域史がわかっておもしろい。

郷土愛が....って、住んだこともない豊島区だけど。

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2015 3/3
『水を得た魚』

魚卵のなかでも“いくら”があまり得意ではなかった。
プチプチでどろっとしたのが出てくる感じ、あれがで。
折詰め鮨でも、入ってたら他のイカとかとトレード依頼で逆に喜ばれて。
しかし、この5年くらいだろうか、好きになったのは。
もうひとつの実家で、毎年正月に“いくら丼”が登場するので、食べるようになっていって、ようやくその美味しさが分ったわけだ。

先日、大盛りご飯に多めの海苔にいくらをたっぷりかけた。
もう1丼いけるほどだった。
丼に合わせてふっくらエボダイと大根半分すった大量のおろしも。
海苔もわさびもおろしも多めがいい塩梅だ。

街を走っていると、あちこちで鯛焼店をみかける。
子供の頃は何匹食べたかわからないですね、みんな。
そんな中でも、女友達が美味しいYOと言ってた高田馬場にある鳴門鯛焼本舗、通るたびに何人か並んでいたりして、スルー。
日曜日の朝ランしてたら、だれも並んでないのでお土産に。
寒さでぜんぜん動かない指先は困ったもんだ...

おっ!と美味しそうなのや良い製品を見かけるとだいたい買うので、何かしら手に持って走っていることが多々ある。
ランニングジャケットのパーカーに大きなメンチカツをしまい込んで走ることも、まぁよくある。意外と揺れにくかったりする。
ランニングベストにウインナーフライを突っ込んだり。
うまいバゲット握って帰路を。
この前の土曜日は、お土産にうまい折詰め寿司をうまいこと揺らして片手に帰路3kmを。
と、そんなのを片手に走っていたら先日、こんなとこでこんな友にって遭遇してびっくりし、「手に持っているの何?」...答えるとその彼は薄い笑いで夜の街へと消えて行った。それも一興。
その遭遇した友、彼の邸宅で行われた忘年会へは12km、一升瓶をショルダーに入れてウォーキングで向った。思ったよりも時間がかかったので、途中で少しゆっくり走ったけど、2時間ちょいかかったかな。「えっ?歩いて来たの??」と、それも一興。だんだん暗くなって表情が変わる町並みや景色を見て、また新しい発見があって楽しくて、それが“歩く走る”のいいところの一つです。
.... とまぁ、歩くの走るのは本当に気持ちがいいものです。

クラッシュしないように持って帰ってきたこの鯛焼き、まるで竜田揚げのような色あいで、サクサクでとても美味しかった。
ぎっしりツナ鯛焼きやチーズウインナー鯛焼きなんか見かけたらやっぱり買ってしまうだろう。
どうしょもない内容におつきあいいただきありがとうございました。