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2017 9/29 『千川上水 水神様 <大山西町発展史>』

---------------案内板より
この水神様の下には千川上水が流れています。

割愛....『千川上水 喜内古屋水車跡』を参照。

昭和に入り、岸辺に家が建ち始め、上水に人が落ちたり、子供がおぼれて亡くなったりと水難事故が起きて、直径六尺(1.8m)のコンクリート管で暗渠化し、住民は喜びました。
当時、水難事故供養の為、自然の恵みと上水の安全を祈り、水神様が祭られました。
平成19年5月30日水神様が修復され、地域の人々の安心と幸せを見守り下さっています。平素の水神様御参拝に御礼申し上げ、これからも地域の文化財を後世に伝えて行きたいと思います。
平成19年7月 吉日 千川上水水神様世話人一同
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川越街道の田崎病院がある交差点を大谷口方面へ少し行くと、左手にこの水神様が祭られている。
祭られているこの道は、かつて大山西銀座商店街というこじんまりとした商店街だったのだが、補助第26号線の事業によって、事実上消滅してしまった。
道路が拡幅されて相互通行になり、交通上はとても便利になったが寂しい限り....子供の頃はこの商店街を走りまくって遊んでいたから。

会長で区議会議院であった鈴木氏が出版した“大山西町発展史”を読んだところ、千川上水で亡くなられた子供がどこに住まわれていたかも書かれていた。
昭和27−28年頃、水神様が祀られているこの場所で引き上げられたが、すでに亡くなっていたという。そういう経緯があったのだと、大山西町発展史で知った。
千川上水は、年に一度、水を止めて掃除をしてたというが、その時に水たまりや側面の穴のようなところにフナやナマズのような種々の魚がバケツ一杯位、手づかみで獲れたという。
また、大山西町区域を流れていたところは、高台の為、工場の道路より水面のところまで、2.3m位あり、深さは二尺(約60cm)位だったが、流れが早く、深いところで落ちたら上るのには大変だったという。
幼少期、8年ほど住んだ大山西町、この本を読んで感慨深いものがあった。

今では千川上水は地中に消えたが、地域の人々の想いや願いは今もなお、こうして手厚く守られ引き継がれている。

(写真は約3年前のもの)

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2017 9/26 『千川上水 喜内古屋水車跡』

千川上水とは....
1696年に将軍 徳川綱吉により上水開削が命じられる。
公の目的は、小石川御殿(綱吉の別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕府祈願所)等への給水だが、六義園(綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷)内の池へも大量に引水された。
明治以降は、工業用水として王子製紙や大蔵省紙幣寮抄紙局などにも利用されていた。
飲料用水としては、明治13年に岩崎弥太郎が設立した「千川水道会社」により開始されたが、東京市の改良水道の普及で明治41年に千川水道会社は解散した。
その後、千川上水の氾濫、幼児の水死事故、および都市計画樹立の障害を主たる事由として暗渠化が求められ、練馬区・豊島区・板橋区内では、昭和40年代前半には暗渠化が完了し、昭和46年には大蔵省印刷局抄紙部への給水を止め、千川上水は上水としての使命を終えた。

板橋区の板橋区役所付近、地図の青い線が千川上水跡で、かつて左から右下へと流れていた。

------------- 第60号 ねりまの文化財(千川上水特集号)より引用
水路の本流は山手通りを渡り、板橋区役所を右手に見て、国道17号を横断します。
ガソリンスタンドの先の旧道を左に入り、半円状に迂回しながら(地図の青丸で囲った部分)再び17号に戻ります。
この迂回地点のちょうど中ほど、駐車場になっている場所が、料亭文豪屋敷跡であり、その前が喜内古屋水車跡だそうです。
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写真1枚目、奥が国道17号の板橋区役所前の交差点で、千川上水の流れは奥から手前へ。この付近に喜内古屋水車があったのだろう。その後大正10年頃までは存在していたと記録にある。

写真2−4枚目、地図の青丸で囲った部分の半円状になっている場所で、奥が駐車場になっていて、立派な広葉樹が2本そびえている。終車場のさらに奥が旧中山道。

写真一番下、道(千川上水跡)が半円状になっているのが分るかと思う。
大山西町付近の千川上水の深さは2m位あったと記録に残っているが、この喜内古屋水車跡付近ではどのくらいだったのだろうか。
この先西巣鴨まで、千川上水は旧中山道とほぼ平行に流れている。

千川上水にはこの他にもいくつもの水車があったと記録に残っている。

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2017 9/26 『徳川慶喜家にようこそ』

最後の将軍 徳川慶喜公のひ孫にあたる徳川慶朝さんが亡くなったというニュースが。
何年か前に、彼が書いた本を読んだことがあった。
慶喜公が構えた巣鴨や小日向の屋敷の写真や見取り図(平面図)などたいへん興味深い写真が多数あった。
中でも、靖国神社にある大村益次郎像を慶喜公が写真に収めているのが何とも言えなく印象的だった。
また、慶喜公は板橋も好きだったようで、板橋区大和町にある日曜寺や、付近を流れる石神井川と架かる橋、滝野川の紅葉橋などいくつも写真に収めている。

そんな慶喜公のひ孫の徳川慶朝さんの存在を知ったのは、谷中霊園にある慶喜公のお墓の前で、徳川慶喜公の生い立ちを個人的にガイドしているおじさんから聞いたのが初めてだった。

慶朝さんの死去により、徳川慶喜家は途絶えてしまうのだろうか。

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2017 9/20 『板橋遊郭 新藤楼』

かつて板橋宿(上宿・中宿・平尾宿と3つで構成されていた)には遊郭があり、その中で最大規模を誇った新藤楼の玄関が、郷土資料館に保存されている。
社寺建築に用いられている、唐破風造りを取り入れた豪華なつくりとなっている。

詳しくは下記を.......板橋の史跡探訪、板橋の街道めぐりより。

板橋宿が中山道の首駅として繁栄していた時代、宿場の中核をなした旅籠には、ほとんどっていってよいくらい飯盛女をおいて、往還の客に娼を売らせていた。俗に宿場女郎と呼ばれ、宿場繁栄の重要な役割を果たしていた。

江戸から明治へと時代が移っても行客のある間は繁昌していたようである。
ある記録に明治維新後には32軒の飯盛宿があったという。
しかし、これも明治17年の板橋大火によりことごとく焼失し、しかもこの前年の16年には、板橋宿で通過反対を続けていた日本鉄道会社の汽車が、王子・赤羽を通って熊谷まで走るこにとなって、中山道の徒歩客は皆無の有様となった直後の出来事だけに、宿場は再起不能の最悪の事態を招来した。
明治19年、豊島郡役所が現在の板橋3−5に新築、移転することとなり、加えて、その前年の18年3月には山手線が開通し、板橋停車場が開業したことも理由のひとつであろうが、焼け出されて苦境にあえぐ業者が、郡区役所周辺に集り旅客相手の旅籠から、遊客相手の遊郭に業態を変更して営業を開始することとなった。
明治18年8月の時事新報の記事をみると、板橋には妓楼15軒、娼妓103人、1軒あたり7人半とある。明治20年には16軒、大正3年には12軒が軒をならべ、その料理の仕出屋として料亭きなこ家なども中宿から移転したと伝えられている。なお主な遊客は川口の鋳物師と赤羽工兵隊の兵士であった。

新藤楼は明治30年頃には31人の遊女を抱え、板橋遊郭中最大を誇っていた。(地図の赤く塗ったところ)
この店は昭和19年、戦争が激しくなるまで営業していたが、寄宿舎や都病院(写真下から2枚目)と姿を変えて、旧遊郭唯一の遺構として昭和40年代後期までその偉姿を誇っていたが、取り壊され、玄関部分が郷土資料館に移築保存されている。

写真が2枚ならんだ箇所、左は大正初期の中宿の妓楼で、手前から藤本楼(抱娼妓12人)、中は藤万楼(同25人)、先が金泉楼(同10人)で、昭和30年代に取り壊された。
右は遊郭遺影で、昭和27年の遺構で、手前が金泉楼(引揚者寄宿舎 啓明寮)、その先が藤万楼(鉄道寮)

新藤楼があった場所は、現在集合住宅となっており、玄関部分の意匠が唐破風造りを踏襲しているようにも思える。
右の店舗の屋号はミヤコフォートとなっているが、前に営業していた都病院(写真下から2枚目)と同じ一族の方が経営しているのだろうか。
新藤楼は約40年数年前まで残っていたというが、その当時の不動通り(旧中山道のこのあたり)や中宿・上宿もずいぶんと姿を変えたのだろう。
自分が8年ほど育った大山(板橋町と大山町は隣みたいなもので、仲町や大山あたりを昔は山中という町名だった)も40年ほど前は、クラシックなエ◯映画館などがあったのが懐かしい。母には目をそらせとよく言われたもので。
母と姉と小さい自分が、日曜日には笑顔が絶えない楽しい買い物のことなどを思いだす。
商店街にはサトウキビ売りや孔雀の羽売りなども来ていて、今でもよく憶えている。

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2017 9/14 『板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿』

志村坂上交差点の交番横にのびる道が旧中山道で、地図の赤いライン。
清水坂は武蔵野台地から低地へと一気に下る坂で、地図で急カーブになっている場所で、写真1枚目から分るように、十数メートルの高低差がある。
坂を下った先は、三田線が地下から飛び出してくるのが見える。

日本橋を旅立つと旧中山道で最初の難所。
隠岐殿坂、地蔵坂、清水坂と、時とともにその呼び名を変えてきた。
この坂は急で途中大きく曲がっており、中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所であったという。
坂の下には(地図の青丸で囲ったあたり)板橋・蕨両宿をつなぐ合の宿があり、昭和40年代まで茅葺きの二階建ての茶屋が建っており、旅人が休憩をとったり、食事をとったりしていた。
合の宿は休憩を目的とした場所で宿泊の施設ではなく、戸田の渡しが増水で利用出来ない時の控えの場所でもあった。
この辺りは昭和30年代頃まで、旧街道の面影を残していたが、地下鉄三田線の開通などの都市化の波によってその姿を変えた。
また明治40年まで、志村の名主大野藤左衛門の屋敷があり(地図の青丸で囲ったあたり)、大名や公家などの身分が高い者が昼食などの休憩をとった。
明治元年と同3年の二度明治天皇が大宮氷川神社に行幸した際、大野家で休憩をとっている。
(いたばしの史跡探訪から引用)

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2017 9/6 『原色日本刺青大鑑』

品揃えが好きでたまに立ち寄る、南池袋の古書 往来座で見かけた原色日本刺青大鑑、プレミアがついてお値段¥38000。
約40年前に発売されて、刺青に携わる方々には有名な本だという。
わりかし早くに売りきれたので、人気があるんですね。

この本の監修は劇作家の飯沢匡、そして刺青博士とも言われる福士政一で、病理学者・教授で文身の研究でも知られ、収集したコレクションは東京大学医学部標本室に収蔵されているんだと。
読んでみたかったので地域の図書館で検索しても出てこず....もちろん国会図書館にはあるが。
そういえば、アメリカのポリスなどは和彫りを背負っている人には異常に警戒すると聞いたことがある。
だいぶ前だが、ダウンタウンの松ちゃんがラジオで、刺青を入れたいと言っていた。で、おじいちゃんは二の腕に妻ではない女の人の名前が刺青として入っていたという。

刺青を彫る行為は医業であるとして医師法に抵触するということから、現在彫師の摘発が相次いでいる。
日本伝統刺青は評価がとても高いと言われるが、彫師であるならば医師免許が必要ということになれば、日本伝統刺青は日本からほぼ消えてしまうだろう。

しかしまぁ、飛脚が走り回っているのを見てみたい。
時代が時代なら、職業を飛脚にしていたかもなと、ふと思ったりする。

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2017 9/4 『旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍と加賀藩下屋敷の裏御門だった山門』

板橋宿、旧中山道に室町時代の創建と伝わる真言宗寺院の観明寺がある。
加賀藩下屋敷の通用門だった赤門が目を引く。
そして、加賀藩下屋敷から遷されたといわれる豊川出世稲荷社があり、龍の彫刻は名人 左甚五郎の作品だと言われている。
彫刻は網で覆われているので、写真だとよく見えないのが残念。
---------------------引用
日光東照宮の眠り猫をはじめ、甚五郎作といわれる彫り物は全国各地に100ヶ所近くある。しかし、その製作年間は安土桃山時代〜江戸時代後期まで300年にも及び、出身地もさまざまであるので、左甚五郎とは一人ではなく各地で腕をふるった工匠たちの代名詞としても使われたようである。
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この付近の旧中山道は不動通りと呼ばれている。
明治6年、当時の住職が町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請したことに由来し、縁日はとても賑わったそうだ。
規模は小さくなったが、今でも朝市やお祭りなどを行なっていて、賑わっている。

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2017 9/1 『走る?』

去年の8月は137kmで、今年の8月は30kmしか走れなかった。
暑さには強いけど、この夏は身体に熱がこもって、気持ちが悪くなるのが原因。なのでムリせずウォーキングを。

一気に夏が過ぎて行ったように感じるが、去年の11月から今がとにかく一気に過ぎて行っている、そう感じている。
そんな酷い暑さも落ち着き、8月最後の日は涼しい一日となった。
久しぶりに走ってみるかと、シューズを履き、ゆっくりと脚を進めた。
1km、2km、3km....体も大丈夫だったから、4km、5kmと距離をのばしていった。
熱もこもらず、じゃぁ久しぶりに10kmにトライ。
NIKEのアプリは、10kmほど走ると誤差がなかなかあるので、11kmと計測されているけど、たぶん10kmちょいだと思う。
ほどよい脚の疲労が心地よい....やっぱり走れるのって心身共にとても気持ちがいい。
公園で夜風に当たりながら体を冷やし、一杯ひっかけて帰宅。
ちょっと寒いくらいだった。
夏生まれなので、夏が終わるのは少し寂しいけど、もう少し涼しくなってほしい。

そんな走れない間に、文春文庫の様々な作家による短編集“走る?”を。
人生は走ることに似て、走ることは人生に似ている......走るというキーワードを元にした短編集で、特に恒川光太郎の“リスタート”と、桜井鈴茂木の“誰にだって言いぶんはある”がおもしろかった。
走らない人でも楽しめる作品だと思う。

走りはじめて8年になるが、疲れにくい身体になったことが一番の収穫。
今日は久しぶりにハムストリングス(太もも裏)がほんのわずかに筋肉痛を感じるのがそれも心地がいい。
今晩も涼しいようなので走ろう。