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2017 12/29 『良いお年をお迎えください』

今まで生きてきて、この1年は1−2を争うくらい早く感じ、1週間々がとても大変だった。
まぁ人生の中でそれも一興なのだろう。
12月はスケートしようと思っていたが、ムリそうなので、大晦日の昼に天気が良かったらランニングをしよう。

良いお年をお迎えください。

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2017 12/26 『旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎』

旧中山道、環七と石神井川の中間あたりに史跡の縁切榎がある。地図の赤丸のところが縁切榎。
かつては中山道をはさんだ向いに縁切榎があったそうだが、移設されて現在の位置にあるという。
縁切榎の向いにそば屋があって、そこで絵馬を購入することができ、奉納をすることができる。
写真を撮ったのは朝だが、女性2人が悪縁を断ち切りたい絵馬を熱心に読んでいた。
個人情報なので触れることは出来ないが、絵馬には悪縁を切りたい人の生年月日や氏名が書かれ、◯◯◯◯は何年何月までに死しますように....など、どきっとする言葉が綴られている。本当に辛いことを経験されて、どうしても許せないのだろう、そういう念が伝わってくる。絵馬を奉納する多くの方は女性だという印象を受ける。
とにもかくにも、絵馬を読むと、当たり前だが、人を(人の思い)大切にして生きたいものだと改めて思う、そんなことを考えさせる縁切榎(神社)である。
人を大切に....その他にも、男の嫉妬ほど怖いものはないとも聞いたことがある。
今では難病との縁切や良縁を結ぶという信仰が生まれているとのこと。自分にとって様々な悪縁を切る、時代の変化にともなっているんですね。

----------------------- 案内板から引用
江戸時代には、この場所の道をはさんだ向かい側に旗本近藤登之助の抱屋敷がありました。
その垣根の際には榎と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃から縁切榎と呼ばれるようになりました。
そして、嫁入りの際には、縁が短くなることをおそれ、その下を通らなかったといいます。
板橋宿中宿の名主であった飯田家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮下向の際には、五十宮などの姫君下向の例にならい、榎をさけるための迂回路がつくられています。
そのルートは、中山道が現在の環状七号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る約1キロメートルの道のりでした。
なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆うことと命じた触書(ふれがき)の内容が伝わったものと考えられます。
男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮を削ぎとり煎じ、ひそかに飲ませるとその願いが成就するとされ、霊験あらかたな神木として庶民の信仰を集めました。
また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれています。
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【過去記事】
縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
皇女 和宮一行が降嫁の際に通った迂回路にある出桁造りとそれを見守った清水稲荷神社の御神木のイチョウ

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2017 12/19 『文京区 大円寺 ほうろく地蔵と吉祥寺の比翼塚』

------------------------ 案内板から引用
ほうろく地蔵
“八百屋お七” にちなむ地蔵尊。
天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小性恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熟した焙烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら集熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。
享保四年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。
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天和の大火で焼け出されたお七一家が身を寄せたお寺は諸説あるようで、この大円寺の近くにある吉祥寺ではないか?という設もあるようで、吉祥寺の境内には“吉三郎 お七 比翼塚”が建てられている。(写真一番下)
*比翼塚(ひよくづか)は、愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚のこと。

地蔵願王尊 心願成就 病魔退散......参拝者それぞれの思いが綴って奉納されているこの器が焙烙(ほうろく)というもの。
お参りしている方々にとても大切にされているのがよく分かる。
大円寺は、かの有名な幕末の砲術家 高島秋帆や、樋口一葉を終生助けた斉藤緑雨のお墓がある。

今も昔も火を放つことは大きな罪であることに変わりはない。

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2017 12/18 『10kmジョグ』

風が強く寒い日曜日のAM、玄関を出てGPSをONにして、少し歩いていると、ひとりのたぶん在日コリアン女性に道を尋ねられた。ものすごく分りやすい地図を持っていて、ココに行きたいのと言う。ブルブル震える体をおさえながら教えて、わかってもらえた。方向が全くわからない女性に、道を教えるのはなかなか大変な作業なんです。
順調に脚を運んで、氏神様へお参りに。
そこから3kmほど進んでいくと、また女性に道を尋ねられる。こちらも無事に解決して、ちょい先の折り返しである公園へ。
あまりに寒いので、休憩もせずに引き返す....走って汗もかくけど、すぐ冷えるので寒い寒い。帰りはストア2つに寄って買い物を。
最近はロング走もできていないけど、10kmで十分。
走った直後の“のどごし生”が実においしい。

早いものでもうすぐ正月....
寒さや風邪やインフルなど、お気をつけください。

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2017 12/14 『北区中十条3丁目 出桁造りを改装したセブンイレブン』

東十条駅下の低地から、駅のコンコースを出た台地の日光御成街沿いのセブンイレブンが、出桁造りの商家だったと最近気づいた。
だいぶ姿が変わっているが、見上げると分る。
ただ残念ながら、日光御成街道(岩槻街道)の道幅がとても狭いので、数年前から拡幅工事が始まっていて、立ち退きやセットバックをしていて、今後は幅員約7メートルの道路を幅員20〜30メートルに拡幅整備され、このセブンイレブン商家も立ち退きの対象になり、姿を消すことになるだろう。

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2017 12/12 『北区赤羽西 真正寺坂』

---------------案内板から引用
岩槻街道沿いの赤羽西派出所から西へ登る坂です。
坂の北側(赤羽西2-14-6付近)に普門院末の真正寺がありましたが、廃寺となり坂名だけが残りました。
坂の登り口南側にある明和6年(1769)11月造立の庚申塔に「これよりいたはしみち」と刻まれていて、日光御成道(*1)(岩槻街道)と中山道を結ぶ道筋にあたっていたことがわかります。
かつて稲付の人びとは縁起をかついで「しんしょう昇る」といって登ったそうです。
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庚申塔が建てられている場所は、道を占有していることから、大切にされていることが分る。
案内板からも庚申塔には「これよりいたはしみち」と刻まれているが、庚申塔の向いに交番があることからも、この道の真正寺坂は古道ということも分る。(古道沿いには交番があることが多い)
この道を上がって進んでいくと、味の素フィールド西が丘や赤羽商業高等学校があり、その先は中山道につながる。
(写真は3年くらい前の物)

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2017 12/8 『縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道』

飛鳥山博物館のホールでやっている企画展へ。(入場無料、会期は12/10まで)
西ヶ原貝塚は地図の赤丸(飛鳥中学校)を中心として幅広く分布していたそうだ。出土したものは人骨、土偶、動物の骨など様々だったという。
縄文人の全身骨格も展示されていた。
西ヶ原貝塚の向い、緑色の丸部分は御殿前遺跡で先土器時代から近世にわたる複合する遺跡として有名。
-------------引用
なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の郡が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。
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地図の灰色の線は鎌倉街道の一部で、武蔵国豊島郡の郡衙(ぐんが)と地方を結ぶ重要な古道。
すぐ近くの台地の下はかつては海で、中里貝塚は最大約4.5メートルの厚さの貝層をもち、長さ約1キロメートル、幅約70〜100メートルにわたる日本最大級の貝塚で、国指定史跡として指定された。via
飛鳥山博物館あたりには昔、幕臣から実業家になった渋沢栄一も邸宅を構えていて、何千年に渡り、一等地であるとも言える。
最後の将軍 徳川慶喜が撮った飛鳥山渋沢邸の庭や浅野家西ヶ原別邸からの眺望はとてもよく、良い土地だとわかる。
なかなかボリュームがある展示会だった。有料の博物館も合わせて見ると、この付近の成り立ちがよく分るのでおすすめ。縄文人が樹木をくり抜いて作った舟も見事なんですよ。

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2017 12/7 『シューズと虫眼鏡』

銀杏の葉が舞う氏神様へ。
毎年この時季は特に綺麗で。
最近はadidasのboost(反発力が大きい)を使ったシューズが脚に良くて、もっぱらこのシューズを履いてジョグをしている。ゆっくりペースで走る人にはいいのだと思う。

ところで、yamada電気でみかけたこの虫眼鏡眼鏡を掛けてみたところ、えらいことスモールフォントが大きく見えてビックリした。
近眼で眼鏡を外して細かい字を書く母には、コレは良いかもなぁと。
売れているみたいですね、この眼鏡型虫眼鏡。

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2017 12/5 『文京区西片 菊坂下 言問通りと北区滝野川 飛鳥山 本郷通りの出桁造り』

歴史のある道沿いにはまだクラシカルな商家が現存している。
写真一枚目、文京区西片の言問通り沿いにある石井いり豆店は、創業は明治20年(1887)で、建物は昭和になって建替えられたそうだ。via
比較的新しいのはそのことや手入れが行き届いているためだろう。
当時の雰囲気を残しつつ、綺麗な商家ですね....30年近くしょっちゅう通っているが、最近気がついた。
写真二枚目、これは都電荒川線と本郷通りが併用軌道になる北区の飛鳥山の向いにある清水質店の出桁造り。この隣だっただろうか、メンズファッション屋の建物も、出桁造りだったような記憶があるが、失念。
時代の流れで建替えられて、タイル貼りの集合住宅に姿を変えることが多いが、末永く威風堂々とした佇まいが残って欲しいですね。
100年後の街道沿いのクラシカルな建物はタイル貼りとなるのだろうか。

江戸橋通り 出桁造り
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
北区十条四軒道路にある出桁造り
目白通りにある出桁造り

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