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2021 8/16 『今宮神社駐車場の湧水 (水窪川 小日向台の崖線) 映像追加』

地図の赤丸部分に今宮神社がある。
小日向台の崖線下にはかつて水窪川が流れていた。
今では暗渠になってしまったが、崖からは水が湧き出している。

【関連記事】■今宮神社駐車場の湧水 (水窪川 小日向台の崖線)

上記の記事に映像を追加。

【関連記事】
■水窪川の擁壁 小日向台の崖線から滲み出す水 八幡坂 江戸切絵図より
■水窪川が削った深い谷と階段 旧大塚坂下町(大塚五丁目)
■巣鴨プリズンの遺構 水窪川<排水口> イケ・サンパークに移設・復元)
■複合遺跡 東池袋遺跡 旗本中西家の屋敷地と御鷹方御役屋敷

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 8/13 『新宿区 花園神社 内藤新宿<下宿茶屋中>の石碑』

地図の黒丸部分に花園神社がある。
境内に<下宿茶屋中?>の石碑があり、石柱の間に回転させることができる円盤が挟まっているのだが、これが何であるのか、知識が乏しいのでわからず。
“温故知しん!じゅく散歩  新宿文化観光資源案内サイト”には、<明治2年(1869)11月に内藤新宿下宿(町か)茶屋中が奉納。お百度参りなどで使用する車輪石を取り付けたものか。>と概要欄に書かれている。

下から二枚目<復元江戸情報地図から引用>の内藤新宿上宿という文字が見え、その隣の江戸側には仲町という文字も見える。画像には無いが、江戸に近い方から下・中・上となるので、上記のように、この上宿の茶屋の人が奉納したと思われる。
この付近、内藤新宿では玉川上水へ身投げする身寄りの無い遊女も多かったそうで、近くの寺で供養されている。それぞれ事情があっただろうが、江戸へ送られる上水が汚染されてしまうので、水を管理する方は大変だっただろう。

内藤新宿は日本橋から出発した際の最初の宿場町で、浅草阿部川町の名主であった高松喜六が発起人となり、浅草商人がこの地に移り住み開発した。
宿場は一度廃止されたが、その後再開され、妓楼も立ち賑わったという。
時を知らせる当時の鐘は天龍寺に現存している。
その当時の様子は歌川広重の“名所江戸百景”『四ツ谷内藤新宿』に描かれていて、馬糞があちこちに散らばっていて、臭いもして不衛生だったように思われる。
町の中心は移動したが、今の歌舞伎町が宿場町の“匂い”をどことなく帯びているように感じる。

花園神社縁起より引用ーーーーーーーーーー
花園神社は、徳川家康の江戸開府(1603)以前から新宿の総鎮守として重要な位置を占めていました。徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。
花園神社は寛永年代(1624〜1644)までは現在の場所より約250メートル南、今の伊勢丹デパートの付近にありました。しかし、寛政年代に朝倉筑後守という旗本がこの周辺に下屋敷を拝領したため、社地は朝倉氏の下屋敷の中に囲い込まれてしまったのです。そこで幕府に訴えたところ、現在の場所を拝領することになりました。その場所は、徳川御三家(将軍家に次いで格の高い尾張藩・紀州藩・水戸藩)筆頭の尾張藩下屋敷の庭の一部で、たくさんの花が咲き乱れていたそうです。この美しい花園の跡に移転したので花園稲荷神社と呼ばれたのが社名の由来とされています。
初めて史料に花園神社の名が登場するのは、享和3年(1803)のこと。大火に遭った社殿復興を願って内藤新宿町より奉納された額面に「花園社」と記されていました。「花園」という名称が正式なものになるのはずっと後代のことで、稲荷神社または三光院稲荷とも呼ばれ、さらに江戸時代には地名にちなんで四谷追分稲荷とも呼ばれていたようです。
三光院稲荷と呼ばれたのは、明治維新以前には神仏習合により神社と仏教寺院が同時に祀られることが多く、花園神社も真義真言宗豊山派愛染院の別院である三光院が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったためであるといわれています。
しかし、その三光院は明治元年 (1868)3月に維新政府が祭政一致の方針に基づき神仏分離令を発布し、廃仏毀釈が進む中で花園神社と分離され、本尊は愛染院に納めて廃絶となりました。
明治に入ると、「村社稲荷神社」が正式名称とされました。これは神名帳を提出した際に、誤って花園の文字を書き漏らし、「稲荷神社」で届出をしてしまったからだそうです。
しかし、江戸時代から当神社は「花園社」と呼ばれており、単に「稲荷神社」といえば総本山である伏見稲荷神社を指すのが一般的で紛らわしいことから、大正5年1月25日、当時の社掌・鳥居成功と氏子総代・坂田寅三郎ら13人が東京府知事に対し社号の改名願を提出しました。この社号改名願は同年2月26日に許可され、「花園稲荷神社」となったのです。
さらに昭和40年に、それまで末社だった大鳥神社を御社殿建替えと共に本社に合祀したことから、ようやく「花園神社」が正式名称となりました。
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【関連記事】
■玉川上水
■新選組 沖田総司 逝去の地と玉川上水余水吐
■玉川上水 旭橋の石柱と下水用石樋
■明治神宮 穩田川(渋谷川)の支流
■内藤新宿 天龍寺の時の鐘 かつて境内にあった池は穩田川(渋谷川)の源流のうちのひとつ
■新宿区 花園神社 復活した井戸

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2021 8/11 『石神井川 板橋東いこいの森の水の流れ』

板橋駅を出た埼京線(赤羽線)が御代の台の切通しを通って石神井川を渡るところに、江戸時代から湧いていた水(清水)があったという。

【関連記事】
■石神井川 板橋東いこいの森
■石神井川 赤羽線(埼京線)際 板橋四丁目の湧水

■石神井川 音無こぶし緑地の湧水
■石神井川 音無こぶし緑地の豊富な湧水 カラッカラ乾燥の都内
■石神井川 2021年3月末 音無こぶし緑地の豊富な湧水
■石神井川 染井吉野の桜並木と谷端川下水道幹線<千川上水の放流(停止)>の吐口

■石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
■石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
■石神井川 割烹音無川<音無川温泉> 音無さくら緑地

■板橋区・北区 御代の台

今は枯れたしまったが、雨量が豊富な日があると、時折勢い良く石神井川に落ちているのを見ることができる。
この周辺は研究所、自衛隊、学校や公園など大規模な未舗装な敷地があるので、水が滲み出しやすいのだろうと思う。

※ 石神井川に落ちる板橋いこいの森の水の映像はこちら(mp4、38.5MB、720×1280)
この水の流れの向こう岸には谷端川下水幹線(千川上水の放流吐口)がある。
■石神井川 染井吉野の桜並木と谷端川下水道幹線<千川上水の放流(停止)>の吐口

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2021 8/6 『ナイキ リニューランとTokyo Aleworks Taproom Itabashi 東京エールワークスの肉々しいおいしいハンバーガー』

2か月前に買ったNIKEのクッション性に優れたふっかふかのシューズ、これ気になる箇所もあるけど、なかなか走りやすいシューズ。
くるぶし部分のRのカットが緩やかなので、くるぶしに当るのが気になるのと、つま先のアッパーの裏の異素材が重なる生地部分が親指の爪に当るところが気になる。長い距離、長い時間を走っていないが、痛くなるような気がするが、日々軽く走るぶんにはまだ痛くなっていない。
ver2ではくるぶしのRのカットは改善されているように見えるので、このモデルはそれほど売れなかったように思われる。
でも、10kmくらいちょこちょこ走るような人で、厚底が好きな人には良いモデルだと思う。普段履きでも脚にとても優しいので、よく歩く人にもいいんではないかと思う。
ヤフーのヒマラヤPayPayモール店でまだ安く売り出し中。

さて、気づいたら半端なく暑くなってきて、あまり走れない日々が続いているが、夜の帳が降りたら、暑いけど走りやすい。(自分は暑さには弱くないので)ただ、火照ってぜんぜん汗がひかずに寝られないけど。。
酷い暑さがもう少し弱くなりますように。

そう、この前ウーバー好きな家族がいわゆる高級バーガーを食べたいっていうので、おいしいと人気があるというTokyo Aleworks Taproomを配達してもらった。ひとつ¥1400位だったかな。ジューシーで半分ちょい食べてお腹いっぱいになった。写真には写っていないが、たくさんはいっていて¥500位だったフライドポテトもかなりおいしかった。
ランニング後にビールをグビグビあおって、バーガーをがっつり食べるのもいいものですね。

食ったら走れ。

新型コロナウイルス感染症の変異株がえらいことになってきていますね。
罹患者とすれ違っただけで感染するという....だれも守ってくれないので、自分でしっかりとディフェンスを。
緊急性の低い手術は一時停止要請の神奈川県....東京都もそうなるのだろうか。。非常に困りますねこれは。

酷い暑さに台風襲来に変異株の猛威、ご自愛ください。

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2021 8/3 『東京第二陸軍造幣廠(板橋火薬製造所)と陸軍兵器補給廠を結ぶ軍用トロッコが環七(富士見通り)をくぐっていたトンネルの遺構』

上から2枚目の地図の赤丸部分に、環七(富士見通り)の下をくぐって陸軍兵器補給廠へと敷設されていた軍用トロッコ軌道のトンネル跡(遺構)がある。
それが、地図の下のH形鋼とL形アングルだという。H形鋼は約300×300ほどで、この地面の下には数メートル以上は埋まっていると思われる。
地域住民は、この遺物を完全に塞ぐか地下横断通路にするように陳情し、昭和38年(1963年)に北区役所がこのトンネルを塞いだという記録が残っている。
トロッコ車両の線路幅(車輪幅)は約750mmだというので、この2つのH形鋼のスパンからすると、車幅ギリギリのトンネルだったように思われる。
また、地図と写真の青丸部分から、稲付川に架かる橋から環七(富士見通り)まではそれほど距離がないので、鉄道にとって弱点である勾配は比較的急だったように思われる。

地図一番上、この軍用トロッコ軌道は赤羽根火薬庫道とも言われていて、江戸時代にはこの場所は交通の要衝でもあった。
その後も時を経て、かつては自衛隊十条駐屯地もあり、入国管理局がありたくさんの外国人がいたり、その後はナショナルトレーニングセンター、味の素フィールド西が丘も建てられた。この地域は選手への応援を込めた大盛りを提供するの飲食店も多い。

暗渠になったところやこういう遺構があったところも共通して不自然な幅員や場所持つ道であることが多い。

 

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■旧松澤家住宅 附 倉屋 #1
■旧松澤家住宅 附 倉屋 #2 徳丸ヶ原(西台、高島平)の思い出

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