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2020 6/19 『石神井川 不動の滝跡(瀧不動の碑)付近の調査(2014年11月28日 9時頃)』

石神井川沿いの正受院は不動の滝跡で知られている。
写真上から2−3−4枚目は2014年11月に撮影したのもで、不動の滝がかってあった付近を東京都建設局の職員だろうか、何かの調査で護岸に上陸していた。
滝とは関係がないのだろうが、不動の滝の跡あたりで場所が場所なだけに少し気になった。

案内板より引用ーーーーーーーーー

王子七滝の一つ、「不動の滝」は、泉流(せんりゅう)の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下った所にありました。
『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。

正受院の本堂の後、坂路(はんろ)を廻(めぐ)り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々(とうとつ)として峭壁(しょうへき)に趨(はし)る、此境(このち)は常に蒼樹蓊鬱(おううつ)として白日をさゝへ、青苔(せいたい)露なめらかにして人跡稀(まれ)なり

室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷(きとう)を修行する僧がいた。
ある時、霊夢見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。
この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。
学仙坊は、これを不動尊修法を感得した証しと喜び、滝の傍らに安置した、と伝えられます。
江戸時代には、病気治癒祈願や涼をもとめる人で賑わいました。

初代歌川広重(安政四年)“名所江戸百景 王子不動之瀧”

令和二年三月
東京都北区教育委員会

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【過去記事】
石神井川 正受院 不動の滝跡(瀧不動の碑)

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2020 6/18 『谷端川跡 昔の粟島神社と祥雲寺坂下の洗い場』

地図1枚目、青い線が今は消滅した谷端川で、黒丸部分に谷端川跡の説明板が建っている。
写真2枚目、説明板が建っている目の前の曲がった道が谷橋川跡。
北大塚三丁目交差点あたりで都道436号線に合流するが、かつては癌研究病院があり、癌研通りと呼ばれていた。

説明板から引用ーーーーーーーーーーー
谷端川跡
所在地 豊島区西巣鴨一ノ十七

この道路はむかし、谷端川という川でした。
谷端川は、粟島神社(要町二ノ十四)境内の湧泉(弁天池)を水源とし、周辺の湧き水を集めながら、長崎村、池袋村、中丸村(板橋区)、滝野川村(北区)、巣鴨村を経て、小石川村(文京区)に至り神田川に注ぐ、区内最大の流域をもつ川でした(全長約十一キロメートル)。
川の名称は、豊島・北・板橋区内では谷端川、文京区では小石川(礫川)と呼ばれ、元禄九(一六九六)年に千川上水が完成した後、上水の水を川に引き入れたため千川分水とも呼ばれました。
その後、近郊農業の発展とともに、谷端川は流域の人々の暮らしと密接に関わってきました。
かつて弁天池では農作祈願の雨乞いが行なわれ、流域の各所に大根などの野菜の洗い場や水車があり、夏は蛍が飛び交い、子供たちは水泳や蜆(しじみ)・鮒(ふな)・鯉(こい)・鰻(うなぎ)・ドジョウなどを採って楽しんだといいます。
またこの付近には、木綿の晒工場や染物屋があり、きれいな水が流れていた様子がうかがえます。(巣鴨のむかしを語り合う会編『聞き書き帖 谷端川』)。
大正期に入ると都市化が進み、昭和初年から谷端川の改修と暗渠工事が始まりました。
JR板橋駅より下流のこの地は、昭和十年前後に暗渠となり、上流域は昭和二十四年から改修・暗渠工事が行なわれ、昭和三十九年に谷端川は全域が暗渠となりました。

平成十六年(二〇〇四)年八月
豊島区教育委員会

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写真3枚目、昔の粟島神社。

この黒丸地点よりも下流には共同印刷があり、その先の小石川町付近に染物工場が今もある。
これは水を使う仕事のために川沿いに建てられ、その名残だろうと思う。

地図2枚目の赤丸部分に現在は谷端川親水公園があり、かつては祥雲寺坂下の洗い場があったそうで、その名残で親水公園が造られたのだろう。

(生活と文化豊島区の湧き水をたずねてから引用)

【過去記事】
豊島区の湧き水と池

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2020 6/17 『北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)』

武蔵野台地東側から北側にかけての際、地図の黒丸部分に稲成の坂がある。
上から三枚目、遺跡分布図の右側の稲成の坂の周辺には古墳時代後期に造られた15基の古墳群があったことでもよく知られている。
かつては眼下に海が広がっていて、潤沢な海の幸が手に入り、眺望が抜群の一等地だったところで、その後の古墳時代に入り権力者らが支配していた場所だった。

【過去記事】
赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室

北区飛鳥山博物館 図録“赤羽台古墳群に眠る人々”に赤羽台古墳群や近くに分布している古墳の存在など、詳しく書かれていて大変おもしろい。

北区内では、赤羽台古墳群・十条台古墳群・飛鳥山古墳群・田端西台通遺跡の4遺跡で古墳群が確認されている。いずれも直径20〜30mの円墳が一定の範囲内に複数まとまって築かれた群集墳と呼ばれる。
また区内では、その他に8ヶ所で古墳の可能性が指摘されている。

下から5枚目、古くから知られていた赤羽台1号古墳(直径約10m)は現存しているが、星美学園敷地内にあるために、見学は出来ないとのこと。

案内板から引用ーーーーーーーーー
稲成の坂

この坂道は、赤羽北1-3・4地先から赤羽台4丁目公園付近まで続きます。
道筋としては赤羽根村と岩淵宿の境付近で日光御成道(岩槻街道)と分かれ、袋村を経て小豆沢村へと向かう鎌倉道でもありました。
昔は坂を登りきると正面に富士山を望むことができたそうです。
坂の名称は特にありませんでしたが、坂の途中にある稲荷社にちなんで稲荷の坂ともよばれるようになりました。

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ここにも鎌倉道(鎌倉街道)が走っていたようだ。

『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』には紹介されていなかったので、坂として特徴や歴史があるのではなく、鎌倉道としての歴史があるので、古代人も日常に使った坂だったことも考えられる。

【過去記事】
赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
散歩RUN 志村一里塚〜桐ヶ丘団地〜赤羽八幡神社

北区 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)
旧鎌倉街道 中道編
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道
鎌倉街道 中道 並木橋
板橋区赤塚 鎌倉古道
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し

渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
駒込富士神社と古墳群

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2020 6/15 『2020.0614のこと』

日常生活にランニングをとり入れて、来月7月で11年が経つ。
ハムストリングスと第二の心臓だというふくらはぎが大きくなった。
日常生活であれこれ動きまわっても疲れにくくなった。
7年くらい前だっただろうか、ペン字も今もずっと続けている。
高齢者の身の回り世話もあり、怪我をすることは出来なので、スケートボードは3年くらい休止しているが、33年間ずっと続けている。

これから身体もどんどん動かなくなるので、続けられる運動は貴重だ。

さて、ぐーっと暑くなってきて、ぶっかけうどんや素麺がめちゃくちゃおいしくなってきた。
豚しゃぶ肉の具沢山そうめん....これがなかなかおいしいんです。
出汁入り炒り卵、大葉と長ねぎ、大量のすりごま(すっているのがポイントで、ゴマの栄養をごっそりいただける)と大目のワサビに海苔をばっこーんと麺つゆにインして。
疲労回復そうめん、しばらくはまりそうだ。
豚肉をごま油で炒めて、チンした玉ねぎを合わせて、舞茸ごっそり入れた味噌汁にインして、素麺入りのキノコ味噌汁もめちゃくちゃおいしい。

これから激暑な夏がやってくる。
ランニング時のマスクがどうにもこうにもしんどいが、マナーなのでしかたなし。
でも、日曜日の一時的な雨上がりの時にすれ違った多くのランナーははなから付けていないノーマスクの人が多かった。マスクをする気がないんでしょうね、もう。
最低でもマスクはして....人がいない場所ではずらしてもいいけど、他者に近づく時やすれ違う時はマスクはした方が良いと思うが。

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2020 6/13 『アパレルとしてのマスク』

前の記事『台東区東上野五丁目 永昌寺 講道館柔道発祥の地』の下に書いてあるウイルス.....まったくマスクをしなかった世界の人々にも、日常で元気でもマスク着用が当たり前になった。
どこか失念したが、航空会社では機内ではマスク着用が義務になった。
町を歩いて、ショップに入るにもマスク着用は必須になり、入店できないところばかりとなった。
少し前にはまったく考えられなかったことが、一気にやってきて、今までの日常がガラッと変わってしまった。だれが想像出来ただろうか。
ソーシャルディスタンスィングゆえに、ショップの前は列になって皆並んでいる....並ぶのが嫌なので、自分は今まで行っていたお店にもあまり行かなくなってしまった。

ランニング時でもマスク着用がマナーとなり、こんなことも考えられなかったが....(ひどい花粉症のランナーには普通だったようで、前にもよく見かけた)各スポーツメーカーからマナー、そして服飾としてのマスクが発売されるようになった。adidas、アンダーアーマー、ミズノ、ニューバランスなどなど。
普段はほぼニューバランスのシューズをはいているので、やはりメーカーを合わせたくなるもので、はやくNBジャパンからも発売して欲しいところ。
ランニングの時は、最近adidasとNIKEが多いので、こちらも日本での取り扱いが始まってほしい。

と思うも、ランニングの時にノーマスクというかつてが戻って欲しいと思うが、それはもうマナーとして難しいのかもしれない。
ただ、ワクチンが開発されたら、戻れるかもしれないが、どうだろう。

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2020 6/12 『中山道 日本橋から三番目 不動の志村一里塚』

都営三田線の志村坂上駅そば、国道17号線新中山道沿いに、道を挟み向かい合った二基の国の史跡に指定されている一里塚がある。
中山道をよく通る人にはお馴染みの一里塚だが、歴史などに興味がない人にとっては、単なる街路樹の緑的な風に写っているかもしれない。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
志村一里塚

江戸を幕府に開いた徳川家康は、街道整備のために、慶長九年(一六〇四)二月に諸国の街道に一里塚の設置を命じました。
これにより、五間(約九m)四方、高さ一丈(約三m)の塚が江戸日本橋を基点として一里(四m弱)ごとに、道を挟んで二基ずつ築かれました。
志村の一里塚は、本郷森川宿。板橋宿平尾宿に続く中山道の第三番目の一里塚として築かれたもので、天保元年(一八三〇)の『新編武蔵風土記稿』では「中山道往還の左右にあり」と紹介されています。
幕末以降、十分な管理が行き届かなくなり。さらに明治九年(一八七六)に廃毀を命じた法が下されるに及び多くの一里塚が消滅していきましたが、志村の一里塚は昭和八年から行われた新中山道の工事の際に、周囲に石積みがなされて土砂の流出をふせぐ工事が施されて保全され、現在に至っています。
今日、現存する一里塚は全国的にも非常に希なもので、都内では北区西ヶ原と志村の二ヶ所だけです。
そのため交通史上の重要な遺跡として、大正十一年(一九二二)に国の史跡に指定され、昭和五十九年に板橋区の史跡に登録されました。

平成十七年三月
板橋区教育委員会
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新中山道の拡幅工事の整備の際に、志村一里塚は移動されて、一部が切り欠かれたと、歴史や文化財の本に記されているものが多々あるが、昭和十年十月の現況に合わせて指定範囲の一部追加と解除が行われて、実際は移動も削られてもいないことが判明している。
一里塚は元々、中山道(旧中山道)からやや離れた位置に築かれていたために、難を逃れ、四百年を超える時、ずっとそのままその場所に存在している。

時代を紡ぐ 「志村一里塚は動かなかった!

写真上から四枚目、志村一里塚の隣に『齋藤商店』があり、昭和八年(一九三三)の中山道(現:国道十七号線)の拡張工事に伴って新築されたもので、築八十七年の堂々たる姿で佇んでいる。

今はスマホやランニングウオッチにはGPSがついているので、距離はすぐにわかる。
ずっとランニングをしている人なら、大体の距離は感覚で分るようになったりするが、約4kmごとに築かれていた一里塚があちこちに現存していれば、手ぶらで走っていたら結構便利だと思ったりもする。

【過去記事】
板橋区志村一里塚隣り 中山道 齋藤商店
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
国指定史跡(大正十一年三月八日指定) 西ヶ原一里塚 北区西ヶ原二ー十三・四先
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚跡
本郷追分と追分一里塚跡
根津神社の塞の大神碑と追分一里塚跡

旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
中仙道か中山道か

板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集

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2020 6/11 『台東区東上野五丁目 永昌寺 講道館柔道発祥の地)』

地図の黒丸部分、営団、もとい東京メトロ銀座線の稲荷町駅前に永昌寺がある。
ここは講道館柔道発祥の地として知られている。

案内板より引用ーーーーーーーーーーー
明治十五年(一八八二)、講道館柔道の創設者嘉納治五郎(一八六〇〜一九三八)が友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永昌寺の書院であった。
これが今日、世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは十二畳、初年の門弟は九人であった。
同年夏、当時の住職朝舜法(一八三七〜一九一四)の協力を得て、玄関脇の空地に、十二畳のバラックを建て道場を新築したが、翌十六年(一八八三)神田に移った。
永昌寺は、浄土宗で永禄元年(一五五八)下谷長者町に創建、寛永十四年(一六三七)現在地に移転した。大正十二年の大震災により当時の建物は焼失している。
境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、昭和四十三年十月、嘉納治五郎没後三十周年を記念し、講道館が建立した。

平成十三年三月
台東区教育委員会
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もうずいぶんと前だが、母校都立文京高校にかつて柔道部があったという。
自分が高校2年になった年に、五段の先生が病気から復職され、黒帯の先輩2人と黒帯の後輩1人と、未経験者の自分と同級生2人を誘って、柔道部を再び設立させた。
女子2人も入部し、道場と体育館の舞台に畳を敷いて練習をした。
一年後の春に、後輩がたくさん入部してきて、とても嬉しかったのを憶えている。
しかし、高校三年生の自分は、引退というか、大学入試の勉強を優先させるために柔道部にあまり行くことが出来なくなった。
その当時、偏差値が思うようにのびず、大学進学は難しい状況だった...その後、一浪して志望校に入学ができたが。
それはさておき、柔道部をつくり、短期間ながら初めての楽しい経験をさせてもらったことが、何ものにも代え難いものになった。

新型コロナウイルスは柔道界にも大きな影響をおよぼしている。
もう何年も前から、家族には「オリンピックは開催されるとは思えない」と何度も言ってきた。
天変地異的な出来事が襲ってくるような気がしてならなかったのと、ザハ案の撤回やその他のごたごた事、適切ではないような会場選定、膨大な費用、色々ありすぎてきれいに物事が進まず、これはうまくいかないのではないかと同時に思っていたから。
来年の東京オリンピックパラリンピックは開催されるのか、現在の世界情勢を考えても厳しい状況だと、個人的には思っているが、もし無事に開催されたならば、強い日本の柔道に期待したい。

今年の1月から、新型コロナウイルスの猛威を感じて恐ろしくなっていたので、マスクや除菌シートなどはやくに用意していた。
それはいくつも病を抱えている高齢の親のことが心配で々ならなかったから。
去年の12月、自分の周辺で酷く咳き込んで高熱を出して、ひどく長く寝込んでなかなか復帰できなかった人が多かった。
診察ではインフルエンザではないとのことで、なんなんだろうかと不思議に思ったのをよく憶えている。
少し前にもニュースになったが、もしかしたらこの新型コロナウイルスに罹患して、去年の12月頃には日本に上陸して広まっていたことも十分に考えられるのではないか。

人類史の本をいくつも読んできたが、ヒトはウイルスとの闘いだということをよく目にした。
ウィズコロナとかどうかと思うが、これからは共存の時代。
しかし、横文字の多用は非常に分りにくくて辟易する。
そして今日のニュース...うつ病の発症に、多くの人が幼い頃に感染する「ヘルペスウイルス」が関係している可能性が分ったという。これまで、うつ病の原因ははっきりと特定されていなかったとのことで、新薬の開発につながると。
うつ病で先に逝った親友もいるし、苦しんでいる友も何人もいるので、身体に優しい副作用が酷くない新薬に期待したい。

日の丸がたくさん揚がって国民が喜ぶ姿が来年目にできますように。

【過去記事】
台東区元浅草 誓教寺 葛飾北斎墓

新宿に縄文人現る
日本人のルーツ
縄文人の核DNA解析

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