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2021 5/15 『北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚』

甚兵衛堀の主<ヌシ>について...
甚兵衛堀の工事に際して、降雨によって水が出て堀に水がたまって工事が中断すると大変困ったことによって、工事の親方がおがんでもらったところ、主の大蛇が出て、主の居場所が荒らされて無くなることから、北本通りと庚申通り商店会の交差点に現在ある<庚申さま>に祭りこんでもらったところ、それ以降、工事は順調に進んだと言い伝えられている。
主である大蛇の祟りで工事が進まなかったというふうに信じられたと。日本でいたるところにあるいわゆる大蛇伝説のひとつであろうと思われ、近代である明治末の東京という土地にもあったということが大変興味深いという。

庚申さまへ続く。

ーーーーーーーー続き 庚申さま↓

北区の庚申から引用ーーーーーーーーーーー

王子五丁目の庚申通り商店会入口の祠の中にある寛文五年(一六六五)の板碑型の塔で、「武州豊島郡馬場村」の講中によって造立された。
この地に住んでいた有徳の尼を弔う為に造立されたとの伝説があり、前記の和講を伝える武州とは武蔵国(東京都・埼玉県に神奈川県の東部)の略称である。
祠の前には種々な容器で水が供えられていて信仰の厚さを物語っている。

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旧豊島村馬場の庚申(王子五丁目所在)
庚申様の御詠歌 故 倉木鶴吉氏採録

 もろびとの なやみをすくう こうしんの
 ごりやくうくる みこそうれしき
  なむこうしんそん なむこうしんそん
庚申様の御真言
 オンデバーヤ キシャバンダ、バンダ
 カーカーカーカー ソワカ
和讃
きィみょうォちょうォらいかみやばしィィ
帰 命   頂 礼 神 谷 橋
こうしんぶゥつの ごえんぎはァ
庚 申 仏    御 縁 起
こうろはにんのォ ごじゅうだいィ
頃  人 皇    五 十 代 
かんむのみかどの あきなかばァ
桓武 帝    秋
六十路あまりの尼法師  来りて結ぶ草の庵
五欲を離れ朝夕に  仏にすがり里人の
無病息災をひたすらに 念仏となえて祈りけり
されど此の世の有様は 老いも若きもおしなべて
われ亡き後も人々の 胸の水だに濁らずば
月の光の宿るごと 仏の慈悲を仰ぎなん
われも共々救わんと 誓いて往生なしたもう
里人計り塚を建て 仏をまつり亡き人の
徳を偲びてねんごろに 祈る誠ぞ尊とけれ
あゝ世は移り幾千歳 されど利益は輝きて
日々に栄える有難さ 南無や庚申かんぜんおん
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
お堂内に、<古墳 観音塚之由来記>が掲示されている。
経年劣化が進んでいて読みにくいが、上記にも書いているように、この地に住んでいた有徳の尼を弔う為に庚申塔を造立している。
かつてこの場所には塚があり観音様を祀り、現在は観音様と庚申塔が祀られている。(閉ざされ暗いため、戸の向うがあまり見えなかった)

<古墳 観音塚之由来記>と書かれているように、この塚は古墳であった可能性があるかもしれない理由は(東京都遺跡地図には不掲載)、一番上の地図の北東の隅田川沿いには豊島馬場遺跡があり、時代は[弥生時代(後期)]・[古墳時代]・[奈良時代]・[平安時代]・[中世]・[近世]と複合遺跡となっていて、100基以上もの古墳時代前期の方形周溝墓が確認され、 高台全体(武蔵野台地<十条台・赤羽台など>にある集落の共同墓地のようなものであったと考えられていると言われているから。
残されている資料がほぼないのであくまでも推測ではあるが、書かれているように古墳に庚申塔を建てたのではないかと思いたい。

向うには川が流れ、いたるところから自噴泉が湧き、反対には眺望の良い台地がある、そんな素敵なロケーションだったということだ。
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【関連記事】
■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※河口側
■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※東十条側 大坊橋(デッカンボウ<誤 -大防橋 だいぼうはし->)と上郷用水に架けられた<桜橋> 大蛇伝説

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■北区岸町 上郷用水(石神井用水)に架かる岩槻街道の三本杉橋下から出土した縄文時代の丸木舟と中里遺跡出土丸木舟

■北区中十条 日光御成道(鎌倉街道 中道 旧岩槻街道) 清水坂(清水坂遺跡)

■赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
■北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)

■板橋区 稲荷台遺跡

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 5/13 『北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※東十条側 大坊橋(デッカンボウ<誤 -大防橋 だいぼうはし->)と上郷用水に架けられた<桜橋> 大蛇伝説』

かつて北区王子五丁目から隅田川まで甚兵衛堀という堀があった。

この堀は当初は、低湿地であるこの周辺からの湧水を逃がすために隅田川まで掘られたことから始まり、同時に石神井川の王子大堰で分水させた上郷用水や上十条用水を落すためにも使われ、堀の先端部分(東十条側)は周囲から水が流れこんでくるくらいのかなりの低湿地で、用水が最後に落ちてその高さは1800mm(一間)ぐらいで大ドンドンと称したという。
その後近代明治になって王子に製紙会社・印刷局抄紙部が作られたことで、北区の産業に大きな影響を与えたことがきっかけになり、印刷局抄紙部分工場(十条製紙十條工場)ができたことで、舟運(水運)として利用されることになった。

その後、使命を終えて埋め立てられて王子五丁目団地の駐車場となり、北本通りから河口方面は神谷堀公園として整備され、その下には東京地下鉄(株)王子検車区が建設された。
また、隅田川と甚兵衛堀跡の合流部分は公園と東京水辺ライン神谷発着場(船着き場)となっている。

この甚兵衛堀の特徴は、隅田川の水を水田だったこの地域に引いて潤すのではなく、台地の上を流れている石神井川の根村橋付近<板橋区双葉町付近>から分水した根村用水(稲付川・中用・北耕地川とも言う<上十条用水>)の排出や、台地から低地に変わる王子の音無渓谷<王子大堰>から分水した上郷用水の排出や、低湿地からのいくつもの湧水も隅田川に排出したことだろう。
水量も豊富な隅田川の水を引くことが出来ない地域で、すぐそこにあって手が出せそうで出せないという悩ましい地形ということだろう。
この地域の一番低い東側の隅田川は北から南に蛇行して流れているが、西側の上郷用水や上十条用水は南から北へと流れており、その間の特徴的な地形が関係しているのだろうか。

その2に続く。

ーーーーーーーー続き その2↓

前の記事で書いた「この堀は当初は、低湿地であるこの周辺からの湧水を逃がすために隅田川まで掘られたことから始まり・・・」から続く。

この堀の周辺一帯は、<かにわの入江(沼、沼沢)>とも呼ばれており、、その広がりは、志茂三丁目の南から神谷二・三丁目、東十条一〜六丁目、王子三丁目の一部と四・五丁目の大部分にまたがっていたものとみられるという。旧入間川(隅田川)の流路の変化や東京湾の後退によって沼が形成されていったのではないかと推定できるという。
北区小字名図には、甚兵衛堀に近い場所で、沼沢の周辺部と考えられる場所に「江頭」という小字が記されており、ひとつは現 神谷一丁目の北本通り沿いで、もう一ヶ所は王子三・四丁目にまたがり、北本通りの西側一帯であった。
江頭は井頭と同義語であり、これらのあたりに自噴泉(湧水、井戸など)があったと推測することができ、沼沢の形成に関係していると考えられるという。
大雨・洪水などで逃げ場失った水をこの堀に落して排水させて、農地を得ることができ、無くてはならないものだったことが分かる。

明治になると堀の拡張工事が行なわれ、大正三年に長さ十九・六メートルの木製の大坊橋が甚兵衛堀に架けられ、昭和三年に鋼板桁橋に架けなおされ、幅員は七・三メートルであったという。

文化財説明板大防橋跡より引用ーーーーー
大防橋は、神谷堀に架せられた橋のひとつです。
神谷堀は公称で、本来の呼称は甚兵衛堀のようです。この堀は、当初、排水の目的で掘削されたもののようです。その年代は明らかではありませんが、明治13年の地図に、すでに図示されています。
明治40年、大蔵省印刷局抄紙(しょうし)部の分工場が現在の王子5丁目団地のところに設置されるに伴って改修され、運河の役割も果たすようになりました。改修当時この辺りは湿地帯で、茅(かや)や雑草などが生い茂っていたといいます。大正5年、この分工場が王子製紙株式会社に払い下げになり、大正13年、再び改修されました。
大防橋は、大坊橋とするのが本来のようです。豊島にある大道法師(だいだらぼっち)伝説にちなむもののようです。最初は一枚石を何枚か並べた橋で、木の橋に架け替えになり、昭和3年、王子製紙株式会社が、鉄筋コンクリート橋に架け替えました。そのときの橋名板は、大防橋となっており、少なくともそれ以来、公式には大防橋となり、一般には、大防橋、大坊橋の両方が用いられています。この橋は、その後東京都に移管され、更に北区に引き継がれました。昭和43年の公記録に、運河には艀(はしけ)がバルブや油類を運行し、橋の上は大型貨物車が通行していると記されています。
神谷堀は、その役割を終え、昭和52年埋立が完了し、その時から橋としての役割を終えていた大防橋も、昭和63年3月解体撤去されました。
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航空写真と写真の赤四角と黒四角部分、交番の裏の旧道に架かっていたのが大坊橋で、橋桁の遺構のようなものだけが残されているが詳細は不明。
名が付いている親柱はどこかに保存されているのだろうか。

写真下から2枚目、五丁目団地敷地出入口付近が大ドンドンと呼ばれていた用水が落ちていた場所となる。写真の右側方面(王子方面)から流れてきた用水(王子稲荷や名主の滝前を流れてきた上郷用水)には、写真一番下、東十条駅南口の下の五差路あたりに橋が架けられ<桜橋>と呼ばれていた。
※桜橋近く、王子五丁目団地敷地にかつて桜田小学校・中学校があった。

2021年8月31日加筆↓ーーーーーーーー
※大ドンドンだった場所には、包丁研ぎのおじさんや軽トラの野菜売りの行商をよくみかけた。また、この場所の歩道には、数人も入れるかどうか位のブルーシートと簡易な骨組みで設営した屋台のように見えないでもない、赤ちょうちんが夜な夜な営業していた。
屋台は放置していて、おでんなどの商材は毎日運搬していたのだろうか。それとも屋台と共に放置して、夜の帳が降りたら、火入れて開店していたのだろうか。ごくたまにお客さんが入っているのをみかけたことがあるが、どんな料理だったのだろうか。
道路管理者や自治体だっただろうかの不法、移動しなさい、撤去の警告文がブルーシートによく貼られていて、歩道を占拠していたが、この10年前くらいか、気づいたらそのお店は跡形もなく姿を消していた。昔も今も水が集るところには人も集るとよく分かる現象だろう。本能で<匂い>を感じるのだろうか。
※地図の南の<江頭>の西、東北本線に架かる南大橋の下、武蔵野台地の崖下は今でも湧水が豊富で、じゃんじゃん水があふれている。
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<バラック跡>)のトンネルの湧水
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甚兵衛堀の主<ヌシ>について...
甚兵衛堀の工事に際して、降雨によって水が出て堀に水がたまって工事が中断すると大変困ったことによって、工事の親方がおがんでもらったところ、主の大蛇が出て、主の居場所が荒らされて無くなることから、北本通りと庚申通り商店会の交差点に現在ある<庚申さま>に祭りこんでもらったところ、それ以降、工事は順調に進んだと言い伝えられている。
主である大蛇の祟りで工事が進まなかったというふうに信じられたと。日本でいたるところにあるいわゆる大蛇伝説のひとつであろうと思われ、近代である明治末の東京という土地にもあったということが大変興味深いという。

庚申さまへ続く。
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【関連記事】
下記にたくさんある石神井川や稲付川、上郷用水などの記事を参考に。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2021 5/10 『北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※河口側』

かつて北区王子五丁目から隅田川まで甚兵衛堀という堀があった。
まず北本通り(国道122号線)より河口方面を掲載したいと思う。

この堀は当初は、低湿地であるこの周辺からの湧水を逃がすために隅田川まで掘られたことから始まり、同時に石神井川の王子大堰で分水させた上郷用水や上十条用水を落すためにも使われ、堀の先端部分(東十条側)は周囲から水が流れこんでくるくらいのかなりの低湿地で、用水が最後に落ちてその高さは1800mm(一間)ぐらいで大ドンドンと称したという。
その後近代明治になって王子に製紙会社・印刷局抄紙部が作られたことで、北区の産業に大きな影響を与えたことがきっかけになり、印刷局抄紙部分工場(十条製紙十條工場)ができたことで、舟運(水運)として利用されることになった。

その後、使命を終えて埋め立てられて王子五丁目団地の駐車場となり、北本通りから河口方面は神谷堀公園として整備され、その下には東京地下鉄(株)王子検車区が建設された。
また、隅田川と甚兵衛堀跡の合流部分は公園と東京水辺ライン神谷発着場(船着き場)となっている。

この甚兵衛堀の特徴は、隅田川の水を水田だったこの地域に引いて潤すのではなく、台地の上を流れている石神井川の根村橋付近<板橋区双葉町付近>から分水した根村用水(稲付川・中用・北耕地川とも言う<上十条用水>)の排出や、台地から低地に変わる王子の音無渓谷<王子大堰>から分水した上郷用水の排出や、低湿地からのいくつもの湧水も隅田川に排出したことだろう。
水量も豊富な隅田川の水を引くことが出来ない地域で、すぐそこにあって手が出せそうで出せないという悩ましい地形ということだろう。
この地域の一番低い東側の隅田川は北から南に蛇行して流れているが、西側の上郷用水や上十条用水は南から北へと流れており、その間の特徴的な地形が関係しているのだろうか。

その2に続く。

甚兵衛堀跡は航空写真と地図を参考に。
写真1枚目、北本通りを越えてすぐの甚兵衛堀跡の道と駐輪場。
写真2〜3枚目、神谷堀公園。

写真5〜6枚目は隅田川の合流部分。
緊急事態宣言が発令されている状況下で、人手は少なかったが、炭火BBQをしている親子が居た。
夏になると日光浴をしている人が多く、十数年前、自分はたまにバイクで行って護岸で日光浴と読書をしていた。
その時にちびっ子に「あぁ!お母さーん!黒い犬がいるよ〜!」と、イヌに間違われたことがあった。また、脚に鳩が止まりにきたこともあった。(写真下から1〜2枚目)....野性的なのだろうか、牧歌的な地域とも言えるのだろうか。
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【関連記事】
下記にたくさんある石神井川や稲付川の記事を参考に。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。