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2022 3/11 『東日本大震災から11年 当時のこと今のこと』

電話で打合せをして切ってしばらくしたら、経験したことがない大きな揺れに耐えて、「えらいことになった」と、ランニングシューズを履いて玄関を飛び出し、階段を一気に駆け下り、途中で巨大なスーツケースを3人で引っぱって階段を上がっていた中国人をジャンプでかわし、バイクのエンジンをかけて、実母の元へとアクセルをひねった。 途中でバイクごとぐらついて転倒しそうになるも回避し(2波目の揺れだったと思う)、母の家の階段を一気に7階へ駆け上がった。
「お母さん、大丈夫で良かった」と心から思ったのをハッキリと憶えている。この当時、母はまだ階段を少し使えたが、今は一切使えない。
夕方前だっただろうか、徒歩で避難中だった義理姉を家に招き、夜は渋谷から徒歩避難移動していた妻を大渋滞の中、途中でピックアップして無事に帰宅した。機動力の高いバイクを持ってて本当に良かったと思った。この先、オフロードバイクは一家に一台くらいでも良いとも思う。

写真はその当時のもの。
茨城県鹿島の海は漂流物でいっぱいになったと。
そして、緊急事態のために友人が機関車で被災地へ油を届けていた。
この11年でディーゼル機関車はかなり引退して解体されたとどこかで読んだ記憶がある。また災害による緊急事態が発生した時に、非電化区間を走ることができる新型の代替機関車は造られたのだろう。

皆それぞれ大変な経験をしたことと思います。
そして今、また世界で大変な出来事がおきています。
大変悲しいことです。

この11年の中、特に6年前から身近な友、仲間、親友が立て続けに4人亡くなった。最近は会っていなかった友らも含めると10人、身内を含めるとさらに多くなる....そういうものですけどね。
年を重ねると毎朝祈る時間が少しずつ増えて長くなった。
そして高齢の家族の介護をする生活が突然スタートしたのも、この11年の間で、特にこの6年はダッシュしているような感覚だが、とても幸せなことだと感じている。自分が出来ることはこれからも変わらずに親にしたいと思っている。もうそんなに長くは居られないから。
認知症になった身内も何人もいる...今もそうだが、これからもっと大変になる。

早くに天国にあがった年子の実弟の名は<幸世>という。
幸せな世が長く続いて欲しいと心から思う。

※磐越西線 迂9292レ 立ち往生からの出発 Youtube

【関連記事】
■東日本大震災石油輸送 EH200・DD51+タキ+DE10
■3月10日東京大空襲 湘南二宮町のガラスのうさぎ像 3月11日東日本大震災

■巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩(子育地蔵尊) 実弟を重ねて

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2022 3/10 『板橋区栄町 板橋競馬場跡 石神井川沿い<愛光舎牧場> 現 牛乳販売店<愛光舎>』

地図の赤丸部分、現板橋区立中根橋小学校付近の石神井川沿いにかつて愛光舎という牧場があったという。

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豊島区立郷土資料館だより<かたりべ19>1990年8月20日発行より引用

上の油絵は、昭和一〇年頃の桜木舎(現、南大塚一丁目)の牧場風景を描いたものです。
・・・昭和八年の『東京牛乳畜産組合員名簿』によると、当時豊島区には七ヶ所の牧場やその関連施設がありましたが、最盛期の大正八年頃には”牛屋横町”と呼ばれた西巣鴨町の二六ヶ所を筆頭として、計四二ヶ所の牧場が点在し、東京市民の重要な牛乳供給地となっていました。
この絵のモデルとなった桜木舎は、区内で最後まで経営を続けていましたが、昭和二〇年四月十三日の空襲にあり、約二年後に廃止されました。

<ミルク色の残像ー東京の牧場展ー>・・・ところで、明治中期から第二次世界大戦直後まで豊島区にはいくつかの牧場があったかご存じでしょうか。高層ビルが立ち並び、人口密度が日本一高い今日の豊島区からは想像もつきませんが五〇年程前までは、区内のあちこちで乳牛の姿を見ることができたのです。
豊島区における牧場の創始者といえば、千葉から来た前田喜代松の名を忘れることはできません。一八八八(明治二一)年、前田が鬼子母神前に「北辰社」牧場を開いたのが豊島の牧場の始まりとされています。そしてこれ以降、区内には、角倉賀道の「愛光舎」や田村貞馬の「強国舎」など日本の牛乳搾取業を代表する牧場が、巣鴨・池袋地域を中心に次々と開設されました。そして一九四七(昭和二二)年に「桜木舎」が経営に終止符を打つまで、のべ六〇ヶ所の牧場が、東京市民に牛乳を供給し続けたのです。
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愛光舎牧場は1913年(大正2年)に巣鴨から、板橋競馬場跡地北側から石神井川一帯に(約1万5千坪、約100頭のホルスタイン種の乳牛を飼育)移転してきたという。
石神井川沿いには昭和初期に多くの牧場が開設されたが、昭和30年代後半頃までに移転や廃業して姿を消したと。
愛光舎牧場は戦前期まで経営していたそうだが、現在は牛乳販売店として愛光舎が、中根橋小学校の東側で営業を続けられている。(三井住友トラスト不動産のサイトより引用)
一番上の古地図より、石神井川の本流から引いた流れ(池のようなものだろうか)が乳牛飼育に役に立ったようだ。
今もこうして牧場の面影を思い浮かべることができるのもいいですね。

【関連記事】
■石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所
■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■板橋区弥生町 上板橋宿 豊敬稲荷神社の玉垣に刻まれた瀬戸川牧場

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2022 3/4 『板橋区赤塚 泉福寺所蔵板碑.』

赤塚中央通りから少し西へ進むと泉福寺があり、すぐ近くには大堂と八幡神社がある。
道をはさんで向うには前谷津川がかつて流れていた。

<泉福寺所蔵板碑>から引用ーーーーーーーーーーーー
泉福寺は、東側に隣接する大堂の暦応3年(1340)の銘を持つ銅鐘(国重要美術品・区登録文化財)にその名が記されており、創建はそれ以前に遡ると考えられます。
板碑は、13世紀半ばから16世紀後半にかけて造られた石製供養塔婆の一つで、表面に梵字や図像で表された仏菩薩、年号、造立趣旨などが刻まれています。
泉福寺所蔵板碑は18点を数え、そのうちの12点に年号が認められます。それらを列挙すると、弘安9年(1286)、正和4年(1315)、分保元年(1317)、正慶元年(1332)、建武2年(1335)、暦応2年(1339)、永徳2年(1382)、永徳4年、至徳2年(1385)、応永2年(1395)、宝徳元年(1449)、文亀3年(1503)で、「志村延命寺板碑群」(区登録文化財)と同様、比較的古い年代のものが多く含まれています。
これらの資料は、泉福寺の歴史を伝える遺物であり、赤塚地域、及び区の中世の歴史を解明するうえで重要な資料です。
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境内にずらっと並んだ貴重な板碑がある。秩父産の緑泥片岩でつくられているのだろうか。

【関連記事】
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川<前谷津川と宮下大山不動明王> 2022年1月19日加筆
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流 梶谷津川
■前谷津川の支流 梶谷津川の源流付近と暗渠蓋
■スケートボードのホームグラウンド 前谷津川緑道(グリーンベルト<西台・高島平> 一時姿を現す消えた川
■前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷
■前谷津川(前谷津川緑道) <赤塚しのがやと公園(篠ヶ谷戸)>と<橋ぎわ>
■板橋区 赤塚不動の滝と大根
■板橋区赤塚 不動の滝<記念物(史跡)> 令和3年
■板橋区赤塚 板橋区No_139遺跡 古墳<塚>の上に造営された八幡神社
■湧き水のビオトープ<赤塚トンボ池> 赤塚不動の滝向いの崖からの湧水<赤塚公園斜面の湧水> 2022年1月15日<赤塚 不動の滝>
■大塚原(板橋区赤塚一丁目、赤塚新町一丁目) 赤塚大塚原遺跡 <消滅した八つ程の大きな塚>と<地名 馬喰谷戸> 赤塚・成増での母との思い出と激安洋品店<のとや>での良品発掘

■板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
■板橋区大門 都立赤塚公園 鎌倉街道 しったり坂
■板橋区赤塚 鎌倉古道

■高島平の名の由来 高島流
■文京区向丘 大円寺 高島秋帆の墓
■“青天を衝け” 高島秋帆 松月院<高島秋帆先生紀功碑>と西洋砲術の演習地 徳丸ヶ原

■板橋区前野町 <常楽院年不詳阿彌陀三尊種子板碑(じょうらくいんねんふしょうあみださんぞんしゅじいたび)>と板橋区小豆沢 <龍福寺建長七年板碑>

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2022 3/1 『旧中山道<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>』

旧中山道沿い、明治通りとの交差点近くに株式会社日本農林社があり、最近<種子屋街道のあゆみ 滝野川三軒家の町並み 日本農林社のあゆみ>の紹介・案内板が設置された。
種子屋が集った街道としての歴史を、多くの人に知ってもらえることと思う。
練馬大根の名は広く知られているところだろう。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー

<種子屋街道のあゆみ >
慶長年間(17世紀初頭)中山道が整備され、板橋宿が設置される
明暦3(1657)年 巣鴨庚申塚の庚申塔が造立される
滝野川三軒家(榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門)が種子屋を始める
弘化元(1844)年 榎本留吉商店(のち東京種苗)が開業する
嘉永5(1852)年 丸政・鈴木政五郎商店(現在の日本農林社)が開業する
明治18(1885)年 日本鉄道品川線(現在の埼京線)が開通し、板橋駅が設置される
明治36(1903)年 日本鉄道豊島線(現在の山手線)が開通し、巣鴨駅が設置される
明治44(1911)年 王子電気軌道(現在の東京さくらトラム)が開通し、庚申塚停車場が設置される
大正5(1916)年 滝野川の種子屋が中心となり、東京種子同業組合が発足する
大正9(1920)年 帝国種苗殖産株式会社(日本最大の種苗会社)が開業する
大正15(1926)年 大正大学が開校する
昭和7年(1932)年 豊島区が誕生する

<滝野川三軒家の町並み>
滝野川三軒家とは、中山道の種子屋の草分的な存在である
榎本孫八・越部半右衛門・榎本重左衛門の三軒に由来し、後にこの地域(現在の滝野川6丁目)の地名ともなりました。
種子屋は、初め農家の副業として付近の畑で採種した野菜の種子などを販売していましたが、明治以降に規模を拡大し、全国の良質な種子を集めて販売する卸売業者へと成長します。
滝野川は日本有数の種子の集散地となり、大正時代には約20店の種子屋がありました。
右の町並図は、滝野川でカメラ店を経営していた榎本眞一氏が制作したものです。2003年頃の建物の写真を交えながら、かつての「種子屋通り」の面影が再現されています。 榎本眞一氏制作

<日本農林社のあゆみ>
日本農林社は、嘉永5年(1852)年に丸政・鈴木政五郎商店として創業しました。同商店は、この地域の特産品であったダイコン・ニンジン・ゴボウなどの種子を、中山道を往来する人々へ販売していました。明治に入り、鉄道などの新しい交通手段やカタログなどの通信販売を活用して、日本全国の種子を集めて販売したほか、西洋野菜の種子も積極的に取り扱うなど、次第に事業を拡大していき、後に社名を大日本農園と改めます。
第二次世界大戦中は日本農林種苗として種子の販売等を行っていましたが、戦後に解散、昭和27年(1952)年に日本農林社として再発足し、現在に至ります。以降、F1品種の開発に取り組む一方、伝統的な東京野菜の継承も行っています。

上段・中段:鈴木政五郎商店の種子カタログ
 明治34年(1901)年 茨城県立歴史館「平井幸夫家文書」
下段:日本農林社が発行していた種子カタログ
 昭和31〜34(1956〜59)年
 豊島区郷土資料館「榎本泰吉家文書」
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旧中山道には今でも出桁造りの商家がまだ多く残っているが、30年〜20年位前までは、旧商家も点在して残っていた。しかし次々と解体されていった。維持するのもとても大変だと思うが、旧街道の名残として長く残って欲しいですね。

榎本眞一さんが制作された<ようこそ滝野川三軒家へ>の町並図の拡大はこちら

【関連記事】
■旧中山道はタネ屋(種屋・種子屋 種苗)街道
■中仙道か中山道か
■旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
■五代将軍 徳川綱吉御殿跡之碑(練馬区北町1-14 北町小学校と田柄川の間) 脚気に効くと言われた練馬大根栽培・発祥の地と環状八号線の開通
■板橋区 赤塚不動の滝と大根

■板橋区清水町 名もなき野川 旧中山道に架かっていた岩道橋(龕灯橋・ガンドウ橋)
■王子稲荷の坂 旧中山道と王子稲荷道の分岐にあった“王子大明神 常夜灯”(2020年8月29日写真追加)

■加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚(平尾一里塚)跡
■中山道 平尾一里塚(板橋一里塚) 一里塚まんじゅうと史跡
■北区滝野川 重吉稲荷神社と平尾一里塚の東側の小道にあった廻国塔

■分水嶺、千川上水調節池跡
■豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑 千川上水の放流(谷端川下水道幹線)
■北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)

■いまむかし旧中山道 <巣鴨地蔵通り商店街>
■巣鴨遺跡 町屋跡
■巣鴨庚申塚 巣鴨遺跡
■巣鴨遺跡 柳沢弾正少弼の屋敷
■巣鴨に住んでいた徳川慶喜 明治時代の巣鴨邸と江戸時代後期の巣鴨
■都電庚申塚駅 旧中山道 延命地蔵堂の石造物群

■豊島区西巣鴨 旧中山道沿い かつてあったパチンコ天国

■近藤勇と新選組隊士供養塔 平尾一里塚(板橋一里塚)跡と千川上水跡を越えたあたり
■板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
■北区滝野川・JR板橋駅前 新選組隊長 近藤勇が葬られた無縁塚(無縁塔)

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