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2017 10/26 『石神井川 東宮降誕植桜之碑』

---------------------- 案内板から引用
旧上板橋(現 大山「福地蔵」を境として石神井川の上下流で下・上板橋に区分)の中心を流れる石神井川は一旦長雨となればその都度河水氾濫し多くの被害を与えていましたが上板橋耕地管理組合(昭和五年〜十三年)による河川改修築堤を実施その害を除去昭和八年十二月皇太子誕生を一億の国民乱舞奉祝するを記念して上板橋青年団・上板橋在郷軍人會の協議により新設成った堤防上に桜の植樹を計画、耕地管理組合並びに有志の協力により宿東(現 弥生町)より栗原迄の三千余歩に凡そ一千株を植樹、これらの事業に携わった多くの人々の功績を讃えると共にこの地が潤沢な石神井川の水量と併せて桜の名所として栄えるこを記念しこの石碑を建立
昭和九年四月
題字揮毫 上板橋在郷軍人会 鈴村吉一
文章作成揮毫 大東文化学院教授 山内惇吉
石工 秋元金次郎
建立者 帝京在郷軍人会上板橋分会 板橋区青年団上板橋分団
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かつても今も板橋区は、春となれば桜の花が咲きあふれ、居ながらにして行楽としゃれこむのにこと欠かなかった。その最たるものは、何と言っても石神井川の両岸の桜花と、その清流だった。特に栗原橋から下頭橋までの一目千本の桜花は人の目を奪うに十分であった。それが、護岸工事のために昭和40年頃にはすべてがかり倒されてしまった。やむを得ないことであったが、練積石の直線的護岸壁になってしまったのは、やはり淋しいことである。(写真は語る)
一番下の写真が護岸工事以前の石神井川の桜で、場所は不明だが、この石碑が建立されているあたりかと思われる。

地図の黒丸の所にこの石碑があり、左青丸が栗原橋で右青丸が下頭橋。
この間に一千本もの桜の樹が植えられていたんですね。
現在でも後から植えられた染井吉野が何本かあり、下頭橋以降の下流、飛鳥山まで延々と桜並木が続いているので、春になると多くの行楽客が集る。

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2017 10/25 『玉川上水 旭橋の石柱と下水用石樋』

新宿高校の校庭に玉川上水に架かっていた旭橋の石柱と下水用石樋が残されている。通常は非公開のようで、門扉は閉まっているので、覗きこまないとよく見えない。(地図上から2枚目)
江戸期の絵図に描かれている天龍寺の向いの玉川上水に架かる橋が旭橋だろうと思う。この一帯はかつて旭町と呼ばれていたからだと。
甲州 街道と青梅街道の分岐である交通の要衝の新宿追分の近くにすぐ近くに高札場があったようだ。
石樋は甲州街道と青梅街道の分岐する追分一帯の下水を現 新宿御苑内の池に流すために、玉川上水を立体で越えさせるので、その上に架けられたものだという。

内藤新宿 天龍寺の時の鐘
新選組 沖田総司 逝去の地

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2017 10/19 『豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道』

長いことリニューアル工事をしていた郷土資料館が、ようやくオープンした。
以前よりもだいぶおもしろくなっていた。
常設展示は地域の人々からの寄贈の品がたくさんあった。
豊島区では郷土・美術・文学と漫画の3分野が連携した(仮称)芸術文化資料館び開設に向けて準備を進めていて、今回の展示リニューアルはその開設準備の一段階にすぎないとのことだそうだ。

豊島区役所の前面道路は鎌倉街道ということもあって、常設展示でも鎌倉街道について触れていた。
失念したが、1640年代の絵図では、宿坂の先は鎌倉街道が描かれておらず、今まで想定されていた真っすぐに進んで神田川を渡る鎌倉街道は、この時代以降に通されたことが分ったという。なので、真っすぐに通る鎌倉街道は(新)ということになり、大きく迂回する方が古い鎌倉街道で(旧)となるという。

遺されたものが語ること#2 石神井城跡
清戸道の名家
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
旧鎌倉街道 中道編
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田

江古田古戦場

-------------パンフレットから引用
平安時代末には鎌倉と奥州を結ぶ鎌倉街道中道(旧道)が、現新宿牛込・豊島区高田から宿坂を越えて巣鴨・駒込を抜けた北区方面に向っていました。
神田川渡河点の豊島区側には高田宿が、対岸の高台には現早稲田大学構内を中心に江戸氏一門である松原氏の屋敷・寺院(下戸塚遺跡)があり、両者は密接な関係があったと考えられます。
江戸氏を滅ぼして長禄元(1457年)に江戸城を築き太田道灌を配した扇谷上杉氏は、現所沢市に残る滝の城を中継点に、本拠である河越城との間に連絡路を造ります。
そのうち江戸から滝の城までの道が清戸道です。文明9(1477年)、道灌は江古田原合戦の経てこの道を遮断するために豊島氏が築いた石神井・練馬の二城を攻略し、豊島氏は没落します。
この二つの道は、江戸の主要交通路が鎌倉を基点とする南北方向から江戸を基点とした東西方向に変化していくことを教えています。
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2017 10/9 『旧中山道に現存する出桁造り』

2017.11/6加筆
中山道、板橋区志村1町目〜板橋区本町から文京区向丘までの旧中山道沿いには、出桁造りの商家(町屋)が今でも16棟ほど現存している。

京都方面である板橋区志村〜板橋区本町(板橋宿の上宿)から紹介。

写真1枚目、板橋区志村....旧中山道が中山道に吸収されて重複している部分にある畳屋。
写真2枚目、板橋区本町....これは旧中山道から少し入った道にある商家。今は営まれていないようだが、中には最近まで商売で使っていたであろう什器などがある。立派です。

写真3枚目、板橋区本町....酒屋を営まれている。

写真4枚目、板橋区本町....今は空き家となっている。

写真5枚目、板橋区仲宿....現在はクリーニング屋。

写真6枚目、板橋区仲宿....板五商店、かつてはお米屋さんを営まれていたようだ。左右のレンガ造りの袖壁は防火のためだろう。

JR板橋駅の踏切を渡り、かつて存在していた一里塚を越えて、北区に入る。

写真7枚目、北区滝野川....街道から少し奥にある。

写真8枚目、北区滝野川....モルタル塗りで改装されている。

写真9枚目、北区滝野川....かつてはどのような商売をされていたのだろうか。

写真10枚目、北区滝野川....だいぶ改装されている。

写真11枚目、豊島区西巣鴨....現在は酒屋を営まれている。

明治通りを渡り、豊島区へと入る。

写真12枚目、豊島区西巣鴨....威風堂々たる佇まいの東京種苗株式会社の建物で、明治初期のものだそうだ。

写真13枚目、豊島区西巣鴨....現在は文房具や日用品などを取り扱っていて、昔懐かしい束になったちり紙が店頭に置かれている。

写真14枚目、豊島区西巣鴨....改装して床屋を営まれている。

この先は庚申塚へ、そして巣鴨へと続き、旧中山道は地蔵通り商店街と呼ばれている。とげぬき地蔵で有名ですね。観光客も多いので近代化が早かったのだろう、出桁造りの商家は現存せず。
巣鴨から旧中山道は国道17号線に吸収されているので、こちらも現存しておらず、千石(本駒込)からまた旧中山道が現れる。

写真15・16枚目、文京区向丘....こちらは料理屋を営まれている。

写真17・18枚目、文京区向丘....旧中山道と日光御成街道(本郷通り)の分岐である本郷追分にある酒屋の高崎屋。
江戸時代から代々続く老舗で約250年の歴史があるそうだ。via
この本郷追分にはかつて日本橋から最初の一里塚があったという。こちらも現存せず。

今後建替えも進むだろうが、昔の街道筋を思いださせてくれる貴重な商家が長く残ってくれればと思う。

こちらのサイトには80年代の旧中山道を見ることができる。

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2017 10/9 『葛飾北斎墓』

上野駅から国際通りを浅草方面へ行くと通りの裏手に誓教寺(せいきょうじ)があり、ここに東京都指定旧跡になっている葛飾北斎墓がある。
最近TVでいくつも北斎の特集が組まれていることもあったりしていて、ちょっと行ってみた。
こじんまりとした静かなお寺に、大切にされていました。
そういえば、 パスポートには冨嶽三十六景を2020年の東京五輪・パラリンピック前の19年度に導入するとのこと。
北斎の娘、葛飾応為もすごいんですよねぇ。

Running 7.24km 5'57''/km 43:04
Walking 5.5km

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2017 10/5 『北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)』

---------------------案内板から引用
道音坂は、西ヶ原4-29-1地先から滝野川1-32-6地先まで続く坂道で、旧西ヶ原・滝野川の村境に沿った坂道でした。
明治時代の「東京府村誌」に「坂名ハ道音塚アルニ由ル」とあり、江戸時代の地誌には西ヶ原村内「滝野川境ニアリ」と塚について記されています。
道は浅草道と呼ばれ、本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で、中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。
---------------------

地図の丸1付近にあるのが道音坂。
案内板で触れている浅草道で中世の鎌倉街道は、地図の青い線で左右にのびていて、西ヶ原で日光御成街道(本郷通り)に合流している。
地図の左下、明治通りが鎌倉街道中道で、西巣鴨交差点を横切り、先へと延びて消滅するが、陸上自衛隊十条駐屯地の正門の横からまた鎌倉街道が現れて、その先の日光御成街道に合流する。
道音坂は古石神井川と谷田川(谷中付近では藍染川と呼ばれていた)が削った坂ということで、かつては橋も架かっていたことだろう。
余談だが、いくつも案内板が立っているので、北区は坂の案内に熱心だと感じる。
近くには北区西ヶ原 熊野坂もある。

今から50年ほど前の本から。
『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーー
道音坂(どういんざか)
所在地を確かめ得ないが、坂名だけはあげておかねばならない。
この坂は「東京府村誌」の西ヶ原村の条に「道音坂 村西にあり、東に下る。長さ二十一間広さ二間、坂名は道音塚あるに因る。」と記されているが、かんじんの道音塚はとうに失われてしまった。おそらく現在の北区西が原三丁目の内にあったと考えられるが。(2021年1月15日加筆)

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2017 10/3 『旧中山道はタネ屋(種屋・種子屋 種苗)街道 清水種苗店の本家 清水権右衛門・清水金蔵商店 <清水夏大根とその種>』

---------------------------- 案内板より引用
旧中山道を通る旅人の中には弁当を食べるため、街道沿いの農家に立ち寄り、縁側を使わせてもらう人などもいました。
旅人は、農家の庭先や土間で見慣れない野菜を見かけると、国元で栽培しようと、タネを欲しがる人も多く、やがては農家の副業として種子を販売するようになりました。
その後、江戸・東京が生んだ滝野川ゴボウ、滝野川ニンジンなど優れた野菜が出現すると、タネを扱う専門店ができ、明治の中期には巣鴨のとげぬき地蔵から板橋区清水町にいたる約6kmの間にタネ屋問屋が9戸、小売店が20戸も立ち並びさながら、タネ屋街道になっていました。
寛永20年(1643)の代官所に申告した書き付けに、長野県諏訪からきたタネの行商人が榎本種苗店(豊島区西巣鴨)に仕入れにきた模様が記されています。
馬12〜3頭をひいてタネを仕入れ、帰り道「萬種物」の旗を立てて街道のタネ問屋に卸していったり、農家に販売して歩くなど、さながら富山の薬売 りと同じようにタネも行商により商われていました。
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地図の赤い線が旧中山道で、上記のとげぬき地蔵から板橋区清水町までを現している。
写真1枚目、現在営業はしていないが、東京種苗株式会社の建物がある。場所は、旧中山道と明治通りの掘割交差点から巣鴨方面へ少し行ったところにある。
明治初期の出桁造りの建物だそうで、旧中山道に残る貴重な商家のうちのひとつ。
そして、掘割交差点から板橋駅方面へ少し行くと、江戸末期嘉永五年(1852年)創業の株式会社日本農林社がある。この会社では地元の特産品である滝野川ゴボウの種を今でも作り続けているという。
また、板橋駅の近くの旧中山道沿いにも瀧野川種苗株式会社という園芸店があり、環七を越えた清水町にも種を扱う園芸店、清水金蔵商店がある。確証はないが、この園芸店の向かい辺りに、江戸三百年間、練馬大根の種子を全国に販売していた清水種苗店の本家清水権右衛門で、お店は昭和三十年頃に取り壊されたという。親族が続けている種屋だろうか。

清水金蔵商店を過ぎて、志村一里塚の先の清水坂の手前に、かつて掛茶屋があり、旅行者はここで清水坂登り下りの息つぎをし一服したところだという。 江戸時代から明治大正時代まであったと伝えられていて、中山道の旅行者が無くなってからも、ここは、このあたりの特産練馬大根の荷車がこの坂を登り下りして小豆沢河岸の船着き場へ運搬する車の後押しを業とする軽子と呼ぶ人足のたまり場になっていたという。
(2020年6月3日加筆)
時代を紡ぐ「板橋の特産野菜 清水夏大根とその種」

【過去記事】
板橋区 清水坂 中山道で唯一富士山を右手に一望できる名所 合の宿
板橋志村、この地に生きて 大野邦雄 遺稿集


余談だが、旧中山道も時代の流れでクラシックな建物が消えていっているが、都電庚申塚駅から都営三田線本蓮沼駅付近までの旧中山道沿いには、まだ10軒ほど出桁造りの商家(町屋建築)が健在だ。

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