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2020 7/31 『飛鳥山公園 飛鳥明神<飛鳥山の隠れ狛犬>・<飛鳥大坂(飛鳥山坂)と六石坂』

北区王子にある飛鳥山(公園)は今も昔も観光名所として賑わっている。
その飛鳥山の麓から中腹にかけて、ぐるっとまわった大きな坂の明治通りが通っている。
坂の名前は飛鳥大坂という。
その坂の途中、地図の黒丸部分の石垣の高い位置に狛犬がこちらを見ている。
飛鳥山の隠れ狛犬とも呼ばれていて、この狛犬の存在を知って見ようとしないと見ることが出来ないし、通る人々にはまず気がつかれない狛犬。
携帯のズームで撮影したので、狛犬の顔が不鮮明だが、なんとなくわかるだろうか。詳しくはこちらを。

飛鳥山石碑マップよりーーーーーーー
いつ頃からあるのか誰が作ったのか定かではない狛犬。
その姿は公園北側の坂を上る途中、音無親水公園側の歩道から見ることができます。
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この狛犬はかつて飛鳥山にあった飛鳥明神が音無川(石神井川)を挟んだ向にある王子権現(王子神社)に遷座された時に、飛鳥山に残されたようだという記事を目にした。
ずいぶんと高い位置に狛犬が道側に向いているが、この狛犬の間が階段のある参道だったのだろうか。

この狛犬は明治通りの下からは見れず、道の反対側からしか見ることは出来ない。
ツツジが生い茂って見ることが出来ないことも多いそうなので(博物館の人が言っていた)、綺麗に整えられた今、すごく小さい狛犬を眼を凝らして探してみてはいかがだろうか。

『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーーーーー
飛鳥坂

飛鳥山公園のわきを、六石坂からさらに西方へ下る坂路で、もとは坂下の石神井川(音無川)にかかっていた橋を飛鳥橋とよんだそうだが、今そこは暗渠で橋もない。
この坂については「東京府村誌」には「飛鳥山坂 本村(滝野川村)にあり、飛鳥橋の方に下る。長さ一町十二間三尺、広さ三間、坂勢急なり。」と記している。
飛鳥山は江戸時代から上野や向島堤とならぶ桜の名所であって、八代将軍吉宗が王子権現に社領を寄進して桜樹を植えさせたのがもとであった。
「大日本名所図会」は「元文三年三月、飛鳥山に仮そめの水茶屋五十四ヶ所、音無川両土手水茶屋九ヶ所を許さる。」とし、江戸市民のいこいの場として大いにさかったのが知られるが、現在では桜もすっかり駄目になってしまった。

飛鳥山花見てかへるをとめらが
道のみ坂をゆきなづみたり  太田水穂

花曇都の隅の飛鳥山  子規
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六石坂とは、飛鳥山交番から渋沢栄一邸宅跡〜西ヶ原一里塚・滝野川警察署にかけての坂のこと。
日光御成道を隔て南側に御立場と月海堂茶園があり、この辺には料理屋が多かったと「大日本名所図会」に書かれている。

余談だが、飛鳥大坂の勾配は、かつて鉄道の急勾配の難所として有名だった信越本線の横川駅ー軽井沢駅間の勾配とほぼ同じだという。
この勾配を電気機関車が列車を牽引してたかと思うと驚く。

※2020年10月26日加筆 先日陰影の具合がよくて良く見えていた。

郷土資料館発行誌から引用(タイトル失念)ーーーーー
二十二 飛鳥山の狛犬(王子)

現在は崖の上のツツジの茂みに隠れてしまって姿が見えないし、危険なので見に行くこともできないが、飛鳥山の北の突端には一対の狛犬が石垣の間に、はめこまれているのです。
昔の日光御成道は、飛鳥山の西側をぐるりと回って坂道を下り、山裾で石神井川を超えて向きを変え、王子神社の森下から『三本杉橋』へと大回りしていたようですが、道幅は狭くて不便でした。
それで交通量の増加や、線路の敷設などで、山を削り取って現状のように拡げたのでした。その時に問題になったのがこの狛犬でした。
その頃、この狛犬は飛鳥山の北端を囲む低い石垣の間に、やや間隔を置いて、手の届きそうな所にはめこまれていたのでした。
しかし、誰一人その由来を知らなかったし、なぜそこにあるのかもわかりませんでした。
したがって、その処置に困り果てた工事関係者は、相談の結果、ほぼ元の位置の山頂近くに新しく造った土留めの石垣の中にはめ込んだのでした。
最初の頃は音無橋の上から遠望できたのですが、植込みのツツジの木が成長するにつれて、だんだんに見えなくなり、全く姿をかくしてしまったというわけです。
その背後の展望台の所には、地主山という小山があって、そこに昔、豊島氏が熊野から勧請した飛鳥の社がまつられたので、飛鳥山の名がつけられたというから、恐らくその参道にでも奉納されたのではなかろうか、というのが識者の推測のようです。
もしそうだとすれば、飛鳥の社は三代将軍の時に川向こうの王子神社の森に移されていることから、この狛犬は置き去りにされたわけで、さてこそ今も無念なまなこを王子神社の森に向けているのではないでしょうか。

※2021年3月12日加筆
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【関連記事】
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■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)

■石神井川 河川争奪
■かつての石神井川
■旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近

■石神井川(音無川)ほとりの王子 料亭 扇屋)
■古写真はわたしたちに何を伝えるのか?(幕末維新期の王子・飛鳥山・滝野川)
■王子の料理屋・扇屋 石灯籠と屋敷神

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2020 7/30 『板橋区前野町 出井川の水源のうちのひとつの見次公園(自然湧水池)』

かつて出井川という川が、現在上を走る首都高5号線の下を流れていて、今は暗渠となり下水幹線へと変わった。
この出井川の最大の水源は出井の泉で、国道17号線と首都高5号線が分れるあたりの泉町にあり、現在は出井の泉公園として整備されている。

【関連記事】 ■板橋区泉町 出井の泉跡(出井川)

いたばしの史跡探訪より引用ーーーーーーーーーー

昭和28年4月に開園した区内で最初の水上公園。
もともとこの場所は、腰までつかるほどの深田があったところで、これを掘り起こして公園に整備したもので、水源は湧水によっている。
公園の名称は、公園の北方台地上にある見次山松寿院延命寺の山号からとった。

昭和30-40年代の板橋区より引用ーーーーーーーー

昔、板橋区には湧水がたくさんあり、なかでも「志村の三泉」(見次の泉、出井の泉、薬師の泉)は有名だった。
見次公園の近くには「見次の泉」があった。

延命寺は見次権兵衛が志村城の戦いで自分の子どもが討ち死にするのを見て、世の無常を悟り、屋敷を寺(真言宗)にしたと伝えられている。境内には区内最古のものを含めて「板碑」が14基ある。

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一番上の古地図、青丸部分が上記の引用に書かれている“腰までつかるほどの深田”があった場所で、水田という文字が見える。

その下の航空写真(1947年)では、深田(水田)は周囲よりも濃く写っている緑が豊富な水田であることがわかる。
湧水のある水田を利用し公園として整備し開園したのは昭和28年(1953年)で、その下の航空写真や遠景からも豊富な水量で池が満ちているのがわかる。

現在の見次公園の北側は出井川へと下る坂になっていて、園内では一部崖線が遺っていて、どこか湿った空気が漂っている。
子供の頃に、この見次公園で何回か釣りをしたことがあるが、釣れた試しがない。

【関連記事】
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2020 7/29 『北区滝野川 正受院本堂前所在 石造近藤守重坐像と目黒富士(元富士・新富士)のひとつである目黒元富士』

地図の黒丸部分、北区滝野川の正受院に石造近藤守重坐像がある。
近藤重蔵(守重)は江戸後期の幕臣で探検家としても活躍し、間宮林蔵・平山行蔵と共に“文政の三蔵”と呼ばれる。

案内板より引用ーーーーーーーーーー
石造近藤守重坐像 正受院本堂前所在

坐像は、現在の千島列島から北海道までの蝦夷地(えぞち)を探検し、エトロフ島に「大日本恵土呂府(だいにっぽんえとろふ)」という標柱を建てた近藤守重(こんどうもりしげ)の肖像です。
守重は、明和8(1771)年、江戸町奉行所与力の次男として生れ、家督を継いで、通称を重蔵(じゅうぞう)、号を正斎(せいさい)と称しました。
寛政10(1798)年3月、幕府から蝦夷地の調査を命じられ、北方交易の海商高田屋嘉兵衛の協力で、石像のように、甲冑(かっちゅう)に身を固めてエトロフ島に渉り、現地の開発に尽力しました。また、利尻島の探検にも参加し、蝦夷地についての著書も著しましたが、文政5(1822)年から9年までの4年間を、正受院の東隣に、滝野川文庫という書斎を設けて住みました。
石造近藤守重坐像は、この記念に、江戸派の画家として著名だった谷文晁(たにぶんちょう)に下絵を依頼して製作したと伝えられます。

平成元年三月
北区教育委員会
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3月に幕命を受けて、どのくらいかけて蝦夷地へと向かったのかは不明だが、暖かい時季でないと極寒の地の調査も命がけとなるが、4度も蝦夷地へ行ったという。

wikiよりーーーーーーーーーーーーー
文化5年(1808年)に江戸城紅葉山文庫の書物奉行となる。
しかし自信過剰で豪胆な性格が見咎められ、文政2年(1819年)に大坂勤番御弓奉行に左遷される。
この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いた。
文政4年(1821年)に小普請入差控を命じられ、江戸滝ノ川村に閉居する。

重蔵は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の東京都目黒区中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した富士塚(目黒富士)を築造した。
目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。
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坐像の下は歌川広重『名所江戸百景』の新富士。
近藤重蔵の別邸にあった目黒新富士は鎗ヶ崎事件の発端となった。

幕府内で色々あった近藤守重は江戸を後にして、風光明媚な行楽地でもある、この滝野川の地にやってきて余生を過そうとしたが、犯罪を犯した(町民を殺害して八丈島に流罪された)長男の責任も取るかたちで、近江国大溝藩(現在の滋賀県高島市)に預けられ、配類のまま同地にて死去したという。
我が子の犯罪がなければ、出生の地である駒込に近いこの滝野川という地、両岸に樹木がうっそうと茂り、深山幽谷の趣きがあった滝野川(石神井川、音無川ともいわれる)で生きることが出来たのがかわいそうだし、残念でもある。

【関連記事】
■目黒元富士跡 上目黒1―8

■板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
■石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 王子七滝 松橋弁財天洞窟跡
■石神井川 金剛寺(滝野川城)にある松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 王子七滝 松橋弁財天洞窟跡
■北区滝野川一丁目 千川上水 王子分水(鎌倉街道・千住道と一部重複)との三叉路にある庚申塔 王子七滝 松橋弁財天(岩屋弁天)への道標
■北区滝野川 金剛寺(滝野川城跡)冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑
■石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
■石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
■石神井川 音無こぶし緑地の湧水
■石神井川 正受院 王子七滝 不動の滝跡(瀧不動の碑)
■石神井川 正受院裏 王子七滝 不動の滝跡(王子不動之瀧跡) 対岸は湯タキ・水タキ(湯滝・水滝)
■旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近
■石神井川(音無川)ほとりの王子 料亭 扇屋)
■古写真はわたしたちに何を伝えるのか?(幕末維新期の王子・飛鳥山・滝野川)
■王子の料理屋・扇屋 石灯籠と屋敷神

■駒込富士神社と古墳群
■旧丹羽家腕木門と蔵 染井霊園<藤堂家の墓所>
■駒込名主屋敷

■文京区本駒込 吉祥寺 榎本武揚の墓
■文京区本駒込 吉祥寺 榎本武揚墓所から高林寺 緒方洪庵墓所へ
■豊島区巣鴨 本妙寺 千葉周作の墓〜豊島区駒込 木戸孝允の駒込別邸

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