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2020 6/11 『板橋宿(中宿) 高野長英ゆかりの地(旧水村長民宅)』

地図の黒四角部分、板橋宿(中宿)に、蘭学者・蘭方医の高野長英が立ち寄った水村長民の家があった。

上から2枚目、中山道板橋宿跡総図の右下の黒四角部分現在は閉院した石神医院があったが、同じ医師同士が構えた住居、たまたまなのか、縁があるのかどうだろうか。代々だろうか、長く開院していたこともこの総図でわかる。

平成七年の案内板より引用ーーーーーーー
幕府の対外政策を批判し、永牢の身となった蘭学者高野長英(一八〇四〜五〇)は、弘化元年六月晦日小伝馬町獄舍の火災による切り放しのときに脱獄、そして逃亡した。
出牢後の一ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘らず消息不明であったが、七月下旬の或る夜、彼の門人である医師水村玄洞宅を訪れた。
玄洞は身の危険を知りながら一両日長英を奥座敷にかくまい、七月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせた。
長英はその後郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻ったが、嘉永三年十月三十日青山町の隠れ家を幕吏に襲われて自殺した。
平成七年
板橋区教育委員会

2015年1月撮影
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平成三十年の案内板より引用ーーーーーーー
高野長英ゆかりの地(旧水村長民宅)

蘭学者・蘭方医の高野長英(一八〇四〜五〇)は、幕府の外交政策を批判して永牢の身となりました。
弘化元年(一八四四)六月三十日、小伝馬町牢屋敷から出火した火事で、一時的に収監者を解き放つ「切り放ち」が行われると、長英は脱獄し、長い逃亡生活が始まりました。
平成九年、旧板橋宿中宿名主家の飯田侃家から、その足どりを示す史料が見つかりました。
それによれば、長英は六月三十日午後十時ごろ、板橋宿で医者をしていた門弟の水村長民を訪ね、道案内を頼みました。
長民はその頼みを受けると、自身の実家で足立郡大間木村(現さいたま市)の高野隆仙のもとへ長英を導きました。
隆仙は長民は実兄で、長民と同じく長英の門弟でした。
長英は、隆仙宅でしばらく休憩し、夜明けには奥州方面へと向かっていったと記されています。
その内容すべてが事実とは言えない点もありますが、長英が逃避行のはじめに、この地にあった水村長民宅を訪れたことは確実だと考えられます。

平成三十年三月
板橋区教育委員会
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江戸では人相書きが出回っていたので、長英は硝酸で顔を変えて逃亡生活を続けていたという。
理不尽に幕府に捕まるのは許せないことだったのだろう。

地方各国を逃げ続けられたのは、その土地々に裏社会勢力(反社や半グレ相当)との繋がりや支援があったからと推測されている。そうでなければ、正規で要衝(関所や木戸)を超えてあちこち動きまわることは難しいだろうからだと。

【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋
板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎

板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の絵馬
板橋区仲宿 文殊院 子の権現

中仙道か中山道か

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2020 6/9 『板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件』

石神井川に架かる“板橋”を越えると、ゆるく長い坂が続き、かつては岩の坂と呼ばれていた。
一番上の中山道板橋宿跡総図の左下に、岩の坂(いやな坂のち宝来坂)と書かれている。

いたばし風土記(昭和62年発行)より引用ーーーーーーーーー
・・・橋(石神井川に架かる板橋)を渡ると、もうここは上宿となります。今の本町です。
このあたりも明治の大火で一掃されて昔のおもかげはありませんが、道はだらだら上りとなり、岩の坂と俗称された地域に入ります。
昔はこの辺の道筋に軒をならべていたのは主に商人宿だったように考えられます。
中宿が武士や富裕な庶民の足だまりであれば、こちらは、裸で話し合いのできる一般庶民の巣だまりだったのではないでしょうか。
しかつめらしい公の施設もありませんから、極めて気楽に宿泊、遊興ができたものと考えられます。
公共的といえば本町二十七番付近に化粧品店がありますが、このあたりに板橋大木戸という簡易な関所がありました。

・・・このあたりから、(縁切榎あたり)宿はずれの清水町境(岩の坂が終わる環7あたり)までは木賃宿といった下級旅館が多く、宿泊した客種もその日稼ぎの人が多く、しかも一夜どまりより半永住者がだい多数であったようです。
宿場人足、駕篭かき、馬子、町遊芸人などのような人が多く、現在の簡易宿泊所と同じで皆自炊していたようです。
町の中ではまっ昼間から一文ばくちが行われていたといわれています。
これをやかましく取り締まれば宿場人足が離散してしまいますからその足止めに道中奉行も大目に見ていたようです。
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wikiより引用ーーーーーーーーーー
板橋貰い子殺し事件(1930年発覚)
東京の板橋にあった岩の坂地区で貰い子が1年で41人が殺害された疑惑が発覚した。この地区の長屋の住民には、古くから上流階級などの不義の新生児などを貰い、子殺しをしていた者がいたとみられる。容姿の優れた女児と体力のある男児は育て、炭鉱夫や遊女として売ることもあったという[8]。また、わずかな期間で不審な死に方をした新生児もおおかったが、犯罪として実証された事例はほとんどなかったようだという。
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ふるさとは貧民窟なりき 小板橋二郎 (著)より引用ーーーー
板橋の貧民窟・岩の坂で育った社会派ルポライターが綴る、壮絶で切ない、怒涛のような少年時代の思い出。木賃宿・長屋の住人。梅毒で鼻が無い“フガフガのおばさん”、正体不明のインテリ「ゴライ博士」、ヒロポン中毒のマアちゃん、初恋のパンパンガール…。強靱で、悲惨で、温かで、そして何より自由だった戦中戦後の「東京スラム」を、深い郷愁を込めて描く。

戦前の東京にれっきとして存在していたスラム。そんな坂橋・岩の坂で生まれ育ち、多感な時期を「東京のスラム」で過ごした著者だからこそ書けた今はなき岩の坂のルポルタージュ。
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東京にスラム街が形成されるようになったのは1880年代のことだという。
明治維新後は宿場制度がなくなり、職を失った人々が増加し、遊郭の町として栄えた昭和初期にかけて、このような環境だったことからも、そして弱者切り捨て政策や福祉政策の無さによる貧困から、岩の坂はスラム街となり、様々な人々も集り、貰い子殺人事件が起きたとも考えられる。
非常に厳しい生活をしていたスラム街の貧困層は、生きていくためにお金目当てにの子殺しをせざるを得なかったとも言えるのではないだろうか。決して許されることではないが。
結果、岩の坂の住人達による貰い子殺しは、1年間で41人にもおよんだ。

※文春オンライン 昭和事件史 <岩の坂もらい子殺し(2022年6月日加筆)

【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋
板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>
旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”
板橋遊郭 新藤楼
旧中山道 板橋宿(仲宿 )伊勢孫跡 レンガの塀と車輪除けの石
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎

板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 寛文の庚申塔と山門
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏

■東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋<王子スラム・王子バラック跡>)のトンネル跡の湧水
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 王子スラム(王子バラック)と岸二町内案内図<東京第一陸軍造兵廠の遺構 土手に掘られたトンネルの出入口に使用されていた石のアーチ>
■1979年 柳町光男監督 映画<十九歳の地図>より 銭湯浴室に掛けられた[つり堀り 加賀園]の看板(旧 加賀浴場だろうか?)

■板橋宿 上宿跡はスラム街(貧民窟)になった岩の坂(いやな坂) 板橋貰い子殺し事件

■文京区小日向 鼠坂<森鴎外の小説「鼠坂」の舞台となった坂> 鼠坂下は江戸有数の盛り場<岡場所(私娼窟)> 昔は一種のスラム街

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2020 6/8 『石神井川 正受院 王子七滝 不動の滝跡(瀧不動の碑)』

地図の黒丸部分、石神井川沿いに正受院がある。
戦後亡くなった胎児・赤ん坊納骨堂を作り供養をしていることから、別名赤ちゃん寺ともいわれている。
供養塔(供養碑)のまわりには、ぬいぐるみやお菓子など、子供が好きな物がたくさんお供えされている。
生きたかった子らの想いが伝わってきて涙があふれた。

正受院の参道入口に瀧不動の碑が建っている。
正面に「西国四番 和泉○○○○○○」
左側に「瀧不動 上野仁王門前 蓮莢屋茶◯ 同平○」、右側に「加賀屋権兵衛・伊藤屋善兵◯」と刻まれている。
※○読めず

上野で商いをしていた商家が寄進、建立したのだろうか。

案内板より引用ーーーーーーーーー

王子七滝の一つ、「不動の滝」は、泉流(せんりゅう)の滝とも称され、正受院本堂裏の峡から坂道を石神井川に下った所にありました。
『江戸名所図会』は、この地の江戸時代後期の景観を次のように説明しています。

正受院の本堂の後、坂路(はんろ)を廻(めぐ)り下る事、数十歩にして飛泉あり、滔々(とうとつ)として峭壁(しょうへき)に趨(はし)る、此境(このち)は常に蒼樹蓊鬱(おううつ)として白日をさゝへ、青苔(せいたい)露なめらかにして人跡稀(まれ)なり

室町時代、大和国に学仙坊という不動尊の祈祷(きとう)を修行する僧がいた。
ある時、霊夢見て東国の滝野川の地を訪れ、庵をむすんで正受院を草創した。
この年の秋、石神井川が増水したが、水の引いた川から不動の霊像をすくいあげた。
学仙坊は、これを不動尊修法を感得した証しと喜び、滝の傍らに安置した、と伝えられます。
江戸時代には、病気治癒祈願や涼をもとめる人で賑わいました。

初代歌川広重(安政四年)“名所江戸百景 王子不動之瀧”

令和二年三月
東京都北区教育委員会

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平成元年三月の案内板の最後の一文には次のように書いてあった
「不動の滝は、滝の傍らに不動尊は祀られていたことから付けられた名称ですが、今もその跡が僅かに偲ばれます。」
今から30年前の境内には滝の痕跡が僅かに残っていたようですね。

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【過去記事】
石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 金剛寺にある板松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
王子七滝 名主の滝
石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
石神井川 音無こぶし緑地の湧水

武蔵野台地東部(十条台地) 北区岸町2丁目の湧水
武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3丁目 荒澤不動(荒沢不動)の湧水と馬坂
武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3〜4丁目の湧水と清水坂

北区滝野川 狐塚の坂と岩屋弁天・正受院(滝不動)への道標

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2020 6/5 『板橋の名の由来 交通の要衝 鎌倉街道と中山道 石神井川に架かる<松橋・板橋・山中橋>』

板橋郷(いたばしのさと、いたばしごう)あるいは板橋村(いたばしむら)は、武蔵国豊島郡に存在した郷あるいは村の一つ。
郷や村としての成立時期は不明だが、地名として“板橋”はすでに平安時代末期ごろに存在しており、江戸時代初期に上板橋村(上板橋宿)と下板橋村(下板橋宿)に分割された。

地名の由来は石神井川に架かる板橋とするのが通説である。
当時「木の板」の橋というのは非常に珍しいものであり、これがそのまま地名になったとする。

1:板橋の地名が文献上初めて登場するのは「源平盛衰記」で、「兵衛佐・・・・武蔵国豊島の上松橋と云ふ所に陣を取る」の松橋は写本によっては、「『板橋』と記し、また「義経記」にも頼朝の挙兵を聞いて駆けつける義経が板橋に着いて、「佐殿は・・・・」と問う一文がのちの中山道の石神井川に架かる橋名で、板橋の地名とされています。

2:奈良時代にはこの周辺は「武蔵国豊島郡広岡郷」と呼ばれていた。広岡郷は現在の板橋区、練馬区あたりを占めるかなり広大な地域であった。
歴史的な地名として、平安時代末期にはすでに板橋と呼ばれる地域が武蔵国豊島郡に存在したことがわかっている。
『源平盛衰記』によれば1180年(治承4年)、源頼朝が下総国から武蔵国に入った際に、滝野川(石神井川)の「松橋」に陣を張ったことが記述されており、長門本『平家物語』では「たきの川いたはし」とされているため、これを板橋区は「板橋」の誤りとしている。
しかし、北区ではこれを北区内にある「松橋」だと主張している。
また、源義経が兄を追って挙兵した際にも足立郡小川口から板橋を経由している。さらに、戦国時代には上杉謙信が鎌倉街道(現在の東京大仏通り、赤塚駅前通り)を進軍した際に通過している。
これらのことから、板橋が古くから交通の要所であったことがわかる。
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地図1枚目と写真より、北区滝野川に金剛寺があり、源頼朝の布陣伝承地と言われている。
金剛寺のすぐ近くをかつては鎌倉街道が通っていた。

案内板より引用ーーーーーーーーー
治承四年(一一八〇)八月、源義朝の三男頼朝は、配流先の伊豆国で兵を挙げました。
初戦に勝利するも石橋山の合戦で破れて安房国に逃れ、そこから上総国・下総国の諸将を味方につけ、隅田川を渡ります。
滝野川・板橋を経て、府中六所明神へ向かい、さらにそこから鎌倉を目指します。
そして鎌倉の大倉に本拠を築いた頼朝は、後に鎌倉幕府初代将軍として、その場所に政権を樹立することになるのです。
この途次の十月、源頼朝は軍勢を率いて滝野川の松橋に陣をとったといわれています。
松橋とは、当時の金剛寺の城域を中心とする地名で、ここから見る石神井川の流域は、両岸に岩が切り立って、松や楓があり、深山幽谷の趣をもっていました。
弁財天を信仰した頼朝は、崖下の洞窟の中に祀られていた弘法大師作と伝えられる弁財天に祈願して、金剛寺の寺域に弁天堂を建立し、田地を寄進したと伝えられています。
この地域は、弁天の滝や紅葉の名所として知られていました。
現在、金剛寺が紅葉寺とも呼ばれるところに、この頃の名残がみられます。

平成元年三月 北区教育委員会
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古写真に写るのが石神井川に架かる松橋で、明治初期〜中期、大正初期にかけて撮られたもの。
昭和になって、石神井川の河川改修工事が行われ、その際に直線化や浚渫をして、松橋弁天洞窟堂は消滅した。

【過去記事】
石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 金剛寺にある板松橋弁財天洞窟への道標と音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
王子七滝

上記1・2より、金剛寺付近は鎌倉街道が通っていたので、当時は交通の要衝だったこともわかり、この地域を松橋と呼んでいたことからも、この滝野川、石神井川に架かる橋が板橋という名のルーツとも言える。
地図2枚目と写真より、一方、少し上流の板橋区双葉町にも、鎌倉街道が通っていて、石神井川に架かる山中橋がかつての板橋ではないかとも言われている。
山中という名は現 大山町・仲町周辺がかつて山中という地名で、幕府の命で板橋宿を拓いたのがこの山中の人々で、中山道よりも古い時代からある川越街道と鎌倉街道が交差する山中は交通の要衝だった。
かつての交通の要衝に架かる橋が板橋で、時代の流れにより交通の要衝が移動して、江戸時代に整備された板橋宿の中山道へ交通の要衝が移り、宿場の真ん中の石神井川に架かる板橋が、時代的に若い板橋として着地したのではないだろうか。

山中橋と松橋の中間にあたるのが板橋で、歴史的な時間軸、総合的に考え、地域を大きくみると、この一帯に架かる橋が板橋で、各自治体としてはこちらの方が・・・・いや、こちらの方が、ということになるのだろうが、どれも板橋の名の原点だとも言えるのではないだろうか。

【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
中仙道か中山道か

板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
板橋区赤塚 鎌倉古道
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
北区 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)

町民を癒し見守る大山福地蔵尊
上板橋宿と大山福地蔵尊

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2020 6/3 『旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”』

上から3枚目、中山道板橋宿跡総図の左下に<“いやな坂”のち“宝来坂”と云う>と書いてあり、これは縁切榎(地図2枚目)と関係がある。

いたばし風土紀より引用ーーーーーーーーーー

中用水(稲付川)は大正年間まで板橋宿をはじめ上十条村lから稲付・赤羽・岩渕・本宿・神谷・志茂の七ヶ村の灌漑動脈で、明治五年、板橋宿が水を取り過ぎるので下の七ヶ村にまわってこないと百姓が水争いをし、あわや血の雨が降ろうとしたことがありました。
この事件の解決策後八ヶ村から毎夜当番を出し、智清寺の詰所を足場に夜通し水まわりをした農民史の主役をつとめた川です。
※稲付川は根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる。

縁切榎の名前について二種のいい伝えがあります。
その一つは、古くから榎(エンノ木)と欅の一種の槻(ツキノ木)が双生していたためエンツキと読み、縁が尽きるとこじつけ、岩の坂をイヤナ坂から、縁が切れるとの俗信が生まれたという説と、今一つは、享保年間に、江戸の本郷(文京区)で油屋を盛大にいとなんでいた伊藤身禄が、少年時代から心にきめていた富士山の登り道を切りひらいて、富士山で死にたいという決心をはたすため、ばく大な財産もすて、奥さんと三人の娘にさとして富士への旅立ちを告げましたが、家族は泣いて中止するように強くせがみました。
身禄はかたく心に誓ったことだからと旅仕度して中山道板橋宿の大きな榎の下まで来たとき、あとを追ってきた家族がおいつき袖をとたえて考え直してくれと嘆願しました。
身禄は家族を小川にかかる橋の欄干に腰かけさせ、自分の決心は変らぬ、夫婦親子の縁を切ってくれるよう、よくよくさとし、泣きすがる妻と娘を後にひとり中山道を富士へ向って旅立ったのです。
身禄は富士吉田口の登山路をきり拓き、七合目で死にました。
こんな悲しい話から親子が生き別れの場を覆ってた大榎を縁切榎を名づけ、妻子を腰かけさせた石橋を「なみだ橋」その下を流れる中用水(稲付川)を「おん出し川」と呼んだいわれます。
今は川は埋められ、なみだ橋(岩の坂橋)も取こわされて跡かたもありません。
このような由来から、いつの頃からこの榎の下を嫁入りや婿入りの行列が通ると必ず不運な結果になるとおそれられていました。

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写真上から4−5枚目、奥に向かって中用水(稲付川)が流れていて、この場所の旧中山道に架かっていた石橋が“なみだ橋(岩の坂橋)”。

【過去記事】
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎
旧中山道 板橋宿(上宿) 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路

稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
王子 上郷用水(石神井用水) 三本杉橋の親柱
北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂

板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋

いたばし風土紀より引用ーーーーーーーーーー

“岩の坂(いやな坂)”
昔はこの辺の道筋に軒をならべていたのは主に商人宿だったように考えられます。
中宿が武士や富裕な庶民の足だまりであれば、こちらは、裸で話し合いのできる一般庶民の巣だまりだったのではないでしょうか。
しかつめらしい公の施設もありませんから、極めて気楽に宿泊、遊興ができたものと考えられます。
縁切榎のあたりから、宿はずれの清水町までは木賃宿といった下級旅館が多く、宿泊した客種もその日稼ぎの人が多く、しかも一夜どまりより半永住者がだい多数であったようです。
宿場人足、駕篭かき、馬子、町遊芸人などのような人が多く、現在の簡易宿泊所と同じで皆自炊していたようです。
町の中ではまっ昼間から一文ばくちが行われていたといわれています。
これをやかましく取締れば宿場人足が離散してしまいますからその足止めに道中奉行も大目に見ていたようです。

【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋

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写真上から7−8枚目、いわゆる暗渠サインといわれる銭湯も営業している。
道が蛇行していることや、この階段もかつて水の流れがあったことを示すものだろう。
この先、帝京高校を過ぎると、丘(稲荷台)になっていて、切通しされて稲付川は低地の七ヶ村へと流れて、隅田川に合流する。

【過去記事】
板橋宿(上宿・仲宿)の各施設跡(大木戸<江戸御府内 朱引>・上宿 脇本陣板橋市左エ門家・高札場・自身番・問屋場)と新旧の板橋
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
中仙道か中山道か

稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
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2020 6/1 『ハッピーロード大山商店街 小松屋横町道に佇む“命”の碑 撤去』

35年前、大山町に数年間住んでいたことがあって、先日懐かしさもあってこの地域をあちこち見て、歴史を調べてみた。
かつて住んでいた家2つはもうどちらも今はなくなっている。
川越街道沿いにある山中交番(現 大山交番)の横をとおる山中通り睦会にある金魚屋さんは今でも健在で、よく買ってもらっていた。
ハッピーロード大山商店街、かつてはチンドン屋がよく練り歩いていて、孔雀の羽やサトウキビもよく売りにきていて、初めて食べた時になんて甘い木なんだろうかと不思議だった。
イトーヨーカドーの火災は夜中に凄まじいほどのサイレンではっきり憶えている。可燃物が多く消火が困難で長い間燃えて全焼し、商店街はいつまでも焦げた臭いが漂っていた。

ま、それはさておき。

地図1枚目の黒い点、ハッピーロード大山商店街の横道を入ってすぐに、大きなケヤキがあって、その袂に“命”の碑があった。命?何だろうか??....
住んでいた当時、この“命”の碑の前を毎日通っていたことになるけど、まるっきり憶えていない。ひょっとしたらその当時には無かったのかもしれない。
命、意味深....比較的新しいようにみえる。
石を彫ったものではなく、コンクリートで作ったようだ。
個人のお宅の敷地内に建てられているので、このうちの方がかつてつくられたのかもしれない。

調べていくと、この“命”の碑が建っている道は旧中山道に繋がっている古道だとわかった。
その名は小松屋横丁道というのだそうで、仲宿の酒屋 小松屋の脇道が名の由来だという。
中山道 仲宿から川越街道 大山(山中)へと抜ける便利な道だったのだろう。
また、大山詣に行く人々も通ることから大山道とも言われていたと。
商店街の会長もこの碑がなぜあるのか詳しくは分らないというが、ひょっとすると鎌倉道につながる道だから目印として使われていたのかもしれないと。
旧川越街道手前の交差点、その先は鎌倉街道との交差点、たしかに道標のような、ロードサイン的なものかもしれない。
江戸時代、宿場から物資を運ぶ人々、大山詣に行かれる人々、信仰、大山で地域の人々や街道を旅する人々や馬を癒していた行者のおふくさん....何か命にまつわることも多くあったのだろうか、そういうことも関係しているのだろうか。

不思議な“命”の碑が佇むその場所その道は、かつての人々にとっては重要な道で、今では商店街の脇道となったが、住民にとってはなくてはならない生活道路として今も機能している。
そして道もアップデートしつづけている。
東京都道420号鮫洲大山線(都市計画路線補助26号線)の計画で、旧川越街道(ハッピーロード)の一部は開発で道は拡幅され、踏切をこえて東京都健康長寿医療センター前を通る道と接続、そして山手通り・R17号の交差点につながる。
それ故に、商店街はバッサリ分断されて、道も町並みもがらっと変わってしまうことになる。
この道路の開発で、かつて親しんだ大山西銀座商店街も消滅した。
一番下の地図の大谷道に商店街はあった。
幅員も広くなくてこじんまりとした商店街で、よく駆け抜けて遊んだのを憶えている。もうすっかりその姿を変えてとても残念だ。
その交差点にあった吉野家は毎晩の夕食で、嫌いになるほどだった。忙しい親だったのでそれは致し方なかったんだけど。
割ばし綿菓子をくわえて走っていて、アスファルトの凹みに足を引っかけて転倒、割ばしがノドに突き刺さり、血まみれになって田崎病院にかつぎこまれ、たいへんな手術になるために、日大板橋病院に転送されて、緊急手術。突き刺さりどこが悪ければ早死にしてたかもしれなかった。

とまぁたくさんの思い出が詰まっている町、たまに寄ってみるととてもいいもので、地域史を調べてみると昔と今、点と点がつながって、ご縁があって今があるのだなと驚くことが多い。

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2020年6月1日加筆
2020年5月18日に通りかかったところ、この碑は撤去されていた。
何かの理由で撤去せざるを得なかったからだろうか....ミステリー的なくくりにされていたからだろうか、なんだか少し寂しい気がする。
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【過去記事】
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
中仙道か中山道か
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)
板橋区大山町山中通り商店街(大谷道) 補助第26号
板橋区大谷口 古道 大谷道と薬師道の交差点 豊島八十八ヶ所巡礼の道標

上板橋宿と大山福地蔵尊
町民を癒し見守る大山福地蔵尊

電話番号の表札

板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一
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