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2021 2/5 『緊急事態宣言下の上野公園』

ー不要不急の外出・移動は自粛せよー

ランニングシューズはツールのうちのひとつ。
ジョグで病院へ向かい、届け物をして、最寄駅から電車に乗って3つほど先で下車し、ジョグで途中根津神社へお参りをして上野へ。
上野へは2年ぶりくらいだろうか...
土曜日の昼、上野の山はやはり空いていて、アメ横のメインストリートは寄っていないが、ガード横の飲み屋ストリートはアウトドア呑みで賑やかな声が飛び交っていたが、こちらも人出はぐっと減っていた。
当たり前だけど、外国人だらけだった町に彼らがほぼいないという光景は何十年も前の光景のようだった。
行きたいお店がいくつかあったけど、密なところを通るのと、いつでも来れるから今回はスルー。
必要な物だけを買って、コンビニに寄ってレモンサワーを。

上野駅の公園口は改修されて、一方通行で山の下から上へと通り抜けられる道は袋小路の道へと変わっていた。
結構便利な公園口の道だったけど....公園へのアプローチはとても優しくなった。(地図の赤丸部分)
緊急事態宣言の解除やウイルスのまん延がおさまったら、上野の山にも多くの人がまた訪れることだろう。そして近くの浅草も。

アメ横、老舗も飲食店も撤退してたり....池袋のサンシャイン60通りやその周辺などもあちこち撤退....どこも厳しいですね。。

東日本大震災、4月の上野の山の光景はこちら
癒えることは無い方々はたくさんいますが、はやいですね、もう10年が経つ。

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2021 2/4 『記録』

未知のウイルスが猛威を震い出したのが1月....これは大変な世になると、様々な情報を仕入れ、マスクや除菌製品を準備して2月に入った。
一番上のスクショは2020年2月27日のもので、グッと増えだした時期。
その下は今日のスクショ....一年弱経った数字。都は色々な数字をあれこれ操作しているとか目にするがどうなんでしょうか。
まだ不明なことが多いウイルスだが、ようやく様々なことも分かりつつあるとのことで、いくらディフェンスをしてても、感染したらこれはしょうがないが、元気になった後の後遺症が大変な人も多いと目にする。
空咳....脱毛....味覚嗅覚障害....豚カツはゴムを食べているようだとそういう人もいると。食べ物がおいしくないというのはとても辛いことだと思う。
信号待ちやレジ待ちをしていると、すぐ隣りに人が近づいて立っていると、少し怖く感じるし、嫌な思いもする。
あと、ぜいぜいはぁはぁしているノーマスクのランナーがとても多く見かけるのもとても気になる。
たまに息苦しくて鼻が出てしまうこともあるが、すれ違って離れた時に「鼻を出してんじゃねぇぞこら!」と声を出して怒鳴るおじさんもいる。みな、イライラ、びくびくしているのは分かるけど、悪いのはこちらだけど、なんとも言えない気持ちになる。
今年は去年よりも大変な状況になることでしょうね。。

上から3−4枚目のスクショはガーミン(ランニングウォッチ)のアプリ記録で、この4週間と約半年のもの。今はロングは全然走れていなく、3〜5kmくらいのショートを日々走っているような状況。それでも十分。
よく走れる人は300km/月とか普通だったりするけど、すごいなと思う。

そして最後の電卓のスクショはたばこにかけた金額ともし今も吸っていたらかかっている金額。
2009年にたばこを手放したが、約18年間喫煙していて、最低でも280万円はタバコ代になっていて、今でもくゆらせていたら、約470万円をたばこにかけていることになる。これも最低でもという数字。
自分の生活の中ではたばこは全く必要がなかったものだと、今はそう思っているので、とても無駄なお金の使い方だったなと思う。酒代はいくらになってているのか全くもって不明だが、飲まない人にとってはほぼ無駄なものだから、もし飲んでいたらの計算をしたらア◯くさく思うことだろう。
自分の場合は毎年師走は10万くらい飲み代に消えていたけど、必要なのでこれは無駄だとは全く思わないが、強いて言えば飲んでコミュニケーションをとるのが目的ゆえに、おいしいというか普通の食べ物ばかりつまんでいたのがどうだろうかと思うところ。

まだしばらくは皆とワイワイするのは難しい。
ワイワイするその仕方が変わってゆくのだろう。
屋外でバーベキューして皆と飲んで騒ぎたい。
皆と大人数で飲み屋で会って爆笑しながら飲みたい。
病院は面会禁止....会いたい。会えれば身体のコンディションも良くなるから。

まだまだ厳しい状況が続くが、とにかく可能な限りのディフェンスを。

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2021 2/3 『文京区小日向 切支丹坂に間違えられた庚申坂』

地図の黒丸部分に階段状になった坂がある。
この坂を庚申坂と呼んでいる。
下記にもあるが、この深い谷をつくったのは小日向台からの湧水で、それが小川になって流れていたという。丸ノ内線の車庫あたりの谷底は、現在もいくつか水が滴っている場所がある。

小日向台に行くといつも思うが、この高低差は高齢者にとって厳しい環境。

この記事とは関係ないが、跡見学園交差点を曲がり、跡見学園と新大塚公園の間を通る道の路面には、速度抑制のために凸凹が設けられているので、低速で通過すると車体がグワングワンと跳ねてそれはそれでおもしろい道となっている。
あと、神田川沿いに印刷博物館があり、こちらもとても楽しい施設です。
4年くらい前だっただろうか、“武士と印刷”という展覧会が開催され、足を運んだけど、すごい情報量で大変楽しかった。

徳川慶喜や松平容保が屋敷を構えた小日向(春日)周辺はとてもおもしろい地域です。

案内板から引用ーーーーーーーーーー
庚申坂
「小日向第六天町の北、小石川同心町の界を東より西へ下る坂あり・・・略 この坂を切支丹坂というは誤りなり。本名“庚申坂”昔、坂下に庚申の碑あり・・・」『東京名所図会』
庚申信仰は庚申の日(60日ごと)人が眠ると三尸の虫が人の体から出て天にのぼり天帝にその人の罪を告げるというところから、人々は一晩中夜明かしをした。
この信仰は中国から伝わり、江戸時代に盛んになった。従ってキリシタン坂はこの坂の地下鉄ガードの向側の坂のことである。
「・・・両側の薮の間を上る坂あり・・・これが真の切支丹坂なり」『東京名所図会』

とぼとぼと老宣教師ののぼりくる 春の暮れがたの切支丹坂 (金子薫園)
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今から50年ほど前の本から。
『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーー

切支丹坂(きりしたんざか)
小日向一丁目の坂。
営団地下鉄車庫のわきから西へ上る坂路を切支丹坂とよんでいるがそれは近来のことで、明治時代の切支丹坂はその坂下から小日向一丁目と春日二丁目の境を東北へ茗台中学わきの旧都電通りへ出る石段坂)で、道向いは吹上坂上になる。
しかし「新撰東京名所図会」はこの坂を「小日向第六天町の北、小石川同心町との界を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり、本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり。
庚申坂の西小溝に架したる橋を渡りて、両側薮の間を茗荷谷町男爵津軽邸前へ上る坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり。
坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり。」と記している。
これを明治二十九年十月調査の小石川区全図で調べてみると、現今の地下鉄路線のところは小川になっており、庚申坂の下からこの小川を横切る道が西方茗荷谷町へ突き当たっている。
従ってこれが現在の地下鉄のトンネルをくぐって、西方小日向一丁目内にかかっているいまの切支丹坂に合致している。
つまり明治時代に誤まられた切支丹坂の名は、本来の坂路の方へつけ直されたわけだ。
ところで、戦争前この坂側にあったカソリック教会と、八兵衛の夜泣き石とよばれていた石はなくなってしまい、ただ坂上左側の個人の庭内に区史蹟切支丹屋敷の標木がたてられている。
切支丹屋敷すなわち切支丹牢獄は、はじめは宗門奉行井上筑後守の下屋敷であったが、正保三年に九州で捕われ江戸へ送られたキリシタンのジョセフ・カウロとその一味を収容するために牢舎を設けたもので、「小日向志」によれば「罪人籠獄は小日向と云ふ処に、石壁重畳(ちょうじょう)一丈二尺、四十三間四方に筑立(つきたて)、塀高さ一丈二尺の柱なり。忍返し釘八寸にして外より内へ刃を揃へて打ち、土手廻りにて築く。」という厳重なもので、その内で拷問や処刑が行なわれ多くの人々の血が流されたという。
享保年間にいたるとこの切支丹屋敷は廃止され、獄舎の位置も今は確かには分からなくなってしまったが、明治後期までは薮におおわれたさびしい谷地であったといい、永井荷風の「日和下駄」は次のようにのべている。
私の生れた小石川には崖が沢山あった。
第一に思出すのは茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向ひ合っては名前を忘れてしまったが山道のやうな細い坂が小日向台町の裏へと攀登(よじのぼ)ってゐる。
今はこの左右の崖も大方は趣のない積み方をした当世風の石垣となり、竹藪も樹木も伐払はれて、全く以前の薄暗い物凄さを失ってしまった。
まだ私が七八ッの頃かと記憶してゐる。切支丹坂に添ふ崖の中腹に、大雨か何かの為めに突然真四角な大きな横穴が現はれ、何処まで深く続いてゐるのか行先が分らぬといふので、近所のものは大方切支丹屋敷のあった頃堀抜いた地中の抜道ではないかなぞと評判した。

切支丹坂 五首               金子薫園
殉教の信徒の血をば見るごとき赤きつばきの落つ切支丹坂
哀れなる伝へがたりのあるごとし雨雲くらき切支丹坂
とぼとぼと老宣教師のぼりくる春の暮れがたの切支丹坂
この坂を下れば見ゆる白壁の耶蘇教会の朝の鐘かな
椿ちる坂のなかばに今すぎし老宣教師おもひたたずむ

【関連記事】
■切支丹屋敷跡地からシドッティ 切支丹坂
■文京区小日向二丁目19と21の間 鷺坂
■文京区小日向 茗荷坂

■文京区春日(小日向) 徳川慶喜 第六天町 屋敷跡

■巣鴨に住んでいた徳川慶喜 明治時代の巣鴨邸と江戸時代の巣鴨

■徳川慶喜家にようこそ

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2021 2/1 『中山道と川越街道起点の平尾追分 高田道と川越街道の四ツ又』

一番上の絵図の赤丸部分が中山道と川越街道の交差点で、分かれ道となる場所。
この場所は板橋宿の中の平尾宿にあたるので、平尾追分と呼ばれていた。
中山道を北上すると石神井川に架かる板橋を渡り、川越街道を北上すると、すぐに千川上水に架かる花月橋を渡り、上板橋宿を過ぎてすぐに石神井川に架かるのは下頭橋(げとうばし、げどばし)を渡る。

この平尾追分付近に新しい中山道(国道17号)が開通したのは1940年代で、上から地図2枚目の桃色丸部分に新しい追分が出来た。
かつての平尾追分は旧中山道と新中山道の交差点にある平尾交番にその名を残している。
絵図と地図のこの赤丸部分と赤の四角で囲った写真が(旧)川越街道の起点ということになる。
また、赤丸から桃色丸部分の新中山道は旧川越街道だったことがわかる。
そして、桃色部分から山手通りまでを四ツ又商店街と呼んでいて、その名の由来は板橋宿の真ん中である中宿と現在の豊島区にある高田という町をむすぶ古道 高田道と川越街道の交通の要衝であった交差点、四ツの又からきている。
この四ツ又にある馬頭観音は、今でも近隣住民によって手厚く祀られていて、板橋区登録有形文化財に指定されていて、かつては道標でもあった。

交通の要衝や風雨をしのげる場所は人が多く集り、路上に居住する人も出てくることは今も昔も変わりはない。

※公文書館のSNSで掲載していた画像を使わせていただきました。

【関連記事】
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■北区滝野川 重吉稲荷神社と平尾一里塚の東側の小道にあった廻国塔
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■板橋区大和町 日曜寺に架かる根村用水の橋(親柱・欄干)と平尾町内中の石柱(平尾宿)

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■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)

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