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2004年3月〜
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2020 4/21 #2 『旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の絵馬』

案内板から引用----------------------

江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。その後明治十四年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和二十二年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(一七九八)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。
また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

平成二年三月
板橋区教育委員会

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去年の文化財ふれあいウィークで、前野町式土器(前野町遺跡)を収蔵している常楽院にいらっしゃったガイドの方から戴いた“いたばしの絵馬と扁額”から掲載。
板橋区 出井の泉跡(出井川)

柴左一画 遍照寺参詣図は区指定文化財となっている。
この絵師は板橋宿の縁切榎のそばに住んでいたと伝えられ、慶応3年(1867)〜明治22年(1889)の間に20枚、その他推定分を含めると30枚近く作品が現存するという。
代表的作品に“縁切榎茶屋風景”もある。

馬つなぎ場でもあった遍照寺ゆえに馬を描いた物が多いようだ。

※宿場町の地図はこちらから引用。

【過去記事】
近藤勇と新選組隊士供養塔
板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋遊郭 新藤楼
旧中山道 板橋宿 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿 縁切榎
旧中山道 板橋宿 観明寺 左甚五郎作の龍
旧中山道 板橋宿 仲宿 伊勢孫跡 レンガの塀と車輪除けの石
旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
中仙道か中山道か

上板橋宿と大山福地蔵尊
町民を癒し見守る大山福地蔵尊

古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道

東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水

千川上水 喜内古屋水車跡

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2020 4/20 #2 『旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏』

案内板から引用----------------------

江戸時代は大日山と号し、区内唯一の天台宗寺院であったが明治四年廃寺となった。その後明治十四年旭不動堂と称して成田山新栄講の道場となり、昭和二十二年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっている。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立馬などがつながれていた。境内にまつられる寛政十年(一七九八)建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめるのみである。
また、堂内には上宿に居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

平成二年三月
板橋区教育委員会

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2020年4月現在、馬頭観音塔や庚申塔、他の石仏は全て撤去されている。
本堂が新築された去年、石仏群が無くなっていることに気付いて、いたばし観光センターの学芸員さんに尋ねたら、板橋区教育委員会が現在修復作業をしているとのことだが、いつ頃に戻ってくるかは不明だと。しかし、撤去ではなくて良かった。
こういうお尋ねがあると、報告書があるようで観光ボランティアさんなどで情報が共有されるようで。

下から7枚目の右端の馬頭観音塔、頭に馬の頭を載せていて、ギッとした表情ながら、どこか可愛い雰囲気があって良いんです。台座には右から平尾町・中宿・山中村と刻まれている。
板橋宿は3つの宿場から成り立っていて、京側から上宿・中宿(仲宿)・平尾宿となり、板橋宿を作って整備したのが、山中村(現 大山町や仲町一帯)の人々だった。山中村は川越街道と鎌倉街道が交差する交通の要衝だったので、中山道が整備された江戸時代よりも古くから人々が住んでいたのだろう。
馬頭観音塔の大きい写真はこちら

※宿場町の地図はこちらから引用。

【過去記事】
近藤勇と新選組隊士供養塔
板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋遊郭 新藤楼
旧中山道 板橋宿 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿 縁切榎
旧中山道 板橋宿 観明寺 左甚五郎作の龍
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
中仙道か中山道か

上板橋宿と大山福地蔵尊
町民を癒し見守る大山福地蔵尊

古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道

東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水

千川上水 喜内古屋水車跡

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2020 4/18 #2 『旧中山道 板橋宿(仲宿 )伊勢孫跡 レンガの塀と車輪除けの石』

大正時代まで旅籠町として栄えた板橋宿、上から1−2−3枚の地図の赤四角部分に、板橋宿最大の旅籠であった伊勢孫(伊勢孫楼)の外壁が一部残されている。(2014年7月撮影、2020年4月撮影)
煉瓦の塀は明治期に作られたと言われている。
上から一枚目、奥に青い冊が見えるが、そこまで塀は続いていて、敷地の大きさもわかる。
塀の足元には馬車の車輪除けが埋め込まれていて、これは馬車の車輪が塀に当って破損しないようにする役割がある。
板橋宿は大火災によって、かつての面影がほとんどないが、この塀や火薬製造が行われていたので、煉瓦の塀が点在している。

ちなみに、板橋宿は江戸の町と同じく、伊勢出身者の店が多く、いわゆる「伊勢屋」の屋号の店が少なくなく、多くの職人や芸人も住んでいた。
この旅籠の伊勢孫では、旅籠業のほか、今日のいわゆる宅送便の業務も扱っていて、名物の練馬大根の種とか浅草海苔などや日用の荒物雑貨などの輸送業もおこなっており、飛脚便などで地方から注文の手紙が届くと、注文の品々を整えて至急地方へ発送する仕事もやっていたという。

地図2枚目、妓楼がいくつもあったことがわかる。

下から1−2枚目、つい最近撮影したもので、奥には分譲された土地にいくつも住宅が並んでいて、車輪除けの石も健在。
伊勢孫の隣には遍照寺があり、こちらの寺は何年か前に建替えされているので、次回紹介したいと思う。

※宿場町の地図はこちらから引用。

【過去記事】
近藤勇と新選組隊士供養塔
板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
板橋宿中宿名主飯田家(総本家)跡
板橋区仲宿 文殊院 子の権現
板橋遊郭 新藤楼
旧中山道 板橋宿 縁切榎 政略結婚と女性救済の場と和宮が降嫁する際に通った迂回路
旧中山道 板橋宿 縁切榎
旧中山道 板橋宿 観明寺 左甚五郎作の龍
旧中山道はタネ屋(種屋)街道
旧中山道に現存する出桁造り(2017.11/6 加筆)
徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 扁額と根村用水
旧中山道と旧川越街道をつなぐ小松屋横町道
中仙道か中山道か

古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道

東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡
加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
加賀藩と黒作り
加賀藩江戸下屋敷 奥山正 著 人んとこ荒らすな
加賀藩前田家の駕篭
加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜

稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水

千川上水 喜内古屋水車跡

板橋区 稲荷台遺跡

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2020 4/16 #2 『練馬区高稲荷公園内の庚申塔 埼玉道(旧埼玉道、都道442号線)』

地図の上部に高稲荷公園があり、園内にこの庚申塔が移設されている。
元は赤ピン部分付近で、説明板から推測すると赤丸部分辺りにあったようだ。地図の広徳寺の下、北西にのびる道(辻)だと思うが、住所が違うので、不明。
地図の都道442号線が埼玉道(旧埼玉道)で、古道だろうか...かつては主要な道だったことだろう。狭隘道路(きょうあい。幅員が狭い道)だが、都道になっていることからもわかる。

案内板から引用---------------------
庚申塔

この庚申塔は、かつて埼玉道から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、石神井川の大橋を渡ってふじ大山道へ至る旧道の辻(桜台五ー四三)に所在しました。
正面中央に青面金剛立像が浮彫りされ、上部に青面金剛を表す梵字「ウーン」が刻まれます。
向って右側に「奉造立庚申待成就所」、左側に「千時元禄二天己巳二月十七日」、両脇に「敬白」、下部に八人の氏名が刻まれます。
元禄二年(一六八九)二月十七日に八人が庚申待の成就を記念して造立した庚申塔であると考えられます。

平成二十六年三月 練馬区教育委員会
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結構古い庚申塔で、三猿(見ざる言わざる聞かざる)は刻まれていない。
また、昭和61〜62年に高稲荷遺跡発掘調査が行われ、硬質頁岩(けつがん)を主体とする石器ブロック出土の石器は466点だったという。
関東ローム層(立川ローム層)の上の層から出土した石器ブロックの石器石材は、ほとんど硬質頁岩で、ナイフ形石器や錐、彫器などで構成されています。
主に東北地方で産する石材である頁岩の利用や、長野県を中心に分布する小坂型彫器の存在は、旧石器時代に遠隔地まで広く交易が行われていたことを示しています。via

一番下の地図、この埼玉道(旧埼玉道、都道442号線)を北上していくと、東武東上線の赤塚駅に至るが、その少し先で鎌倉街道と交わることからも、重要な道だったこともわかる。

#コロナに負けるな #stayhome

【過去記事】
板橋区赤塚 鎌倉古道
板橋区東山町 板橋城跡 赤塚城跡
板橋区新河岸三丁目 早瀬前遺跡 鎌倉街道 早瀬の渡し
体の中にいる虫 旧川越街道にある青面金剛像が彫られたものとしては都内最古の庚申塔
ふじ大山道
富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願

田柄川の水源と茂呂遺跡
田柄川
石神井川 公開された茂呂遺跡(旧石器時代が日本に普遍的に広まっていたことを証明した遺跡・黒曜石製 茂呂型ナイフ形石器の発見)
板橋区 栗原遺跡の竪穴住居跡と長嶋茂雄

板橋区 赤塚不動の滝と大根
板橋区 根ノ上遺跡

石神井川 河川争奪
かつての石神井川
石神井川 旧河道 音無もみじ緑地 松橋弁財天洞窟跡
石神井川 旧河道の露頭 音無さくら緑地
石神井川 音無さくら緑地 攻撃斜面からの湧水(2020年6年22日映像追加)
石神井川 板橋いこいの森
石神井川 音無こぶし緑地の湧水
昭和の石神井川
霜降銀座 古石神井川と谷田川
石神井川 沼
石神井川の付け替え
石神井川 東宮降誕植桜之碑
石神井川とエンガ堀の合流地点にかつてあった積田牧場大谷口搾乳所
旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近
石神井川(音無川)ほとりの王子 料亭 扇屋)
古写真はわたしたちに何を伝えるのか?(幕末維新期の王子・飛鳥山・滝野川)
王子の料理屋・扇屋 石灯籠と屋敷神
石神井川 中板橋のプールと水神宮、練馬城 住宅地にある堀
石神井川上流 下野谷遺跡
古石神井川の支流 谷戸川(谷田川・愛染川)源流の長池跡
谷田川に架かっていた橋の親柱(芥川龍之介墓所 慈眼寺)
弥生式土器の発見地
王子七滝 名主の滝
逆川(古石神井川の流路)
稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
王子 上郷用水(石神井用水) 三本杉橋の親柱

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2020 4/14 #2 『旧松澤家住宅 附 倉屋 #2 徳丸ヶ原(西台、高島平)の思い出』

地図の黒丸部分、赤羽自然観察公園内に北区ふるさと農家体験館がある。
かつて、北区浮間地区にあった松澤さんの住宅を移築したものだという。
背後にそびえる集合住宅と旧家の対比が圧巻。
この敷地はかつて陸上自衛隊十条駐屯地があり、あまり人の手が加わっていなかったこともあり(開園するために整備したそうだが)、都内では貴重な風景が広がっている。

案内板から引用---------------------

旧松澤家住宅 附 倉屋 北区赤羽西5-2-34 北区立赤羽自然観察公園内
規模 主屋 桁行九間 梁間五・五間(うまや 桁行二・五間 梁間二・五間)
   倉屋 桁行三間 梁間二間
建築年代 江戸時代後期

旧松澤家住宅は弘化元(1844)年に創建されたと伝わる民家です。
北区浮間に所在していた建物を、この場所に移築しました。
主屋は寄棟造りの茅葺き屋根で、棟に「箱棟」という瓦葺きの小屋根がついています。
間取りは、向って左に「どま」がつき、右側に田の字がずれた形に四部屋が配置される「喰い違い四間取り」形式になっています。
主屋に付属する「うまや」は明治初期頃に増築されたとされ、建物も同時期の間取りに復原しています。広い屋根裏は茅や藁などの保管場所として使うほか、洪水時の避難場所としても使われました。
これは当時の浮間をはじめとする荒川流域が洪水にたびたびみまわれた地域であったためで、これらの地区では「水塚」とよばれる高く盛り上げた敷地の上に家を建てていました。裏の倉屋は、主屋より創建が古いとも伝わっていて、礎石の上に直接柱を立てるなど、土台のある主屋と異なった建て方をしています。

平成17年3月 東京都北区教育委員会
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だいぶ前に、ブラタモリで浮間地区の住宅で、上記の水塚のことや舟などのことを紹介していた。
江戸時代から浮間地区やこの徳丸ヶ原(現在の高島平地区一帯)一帯は手つかずの原っぱだったのは、荒川の氾濫原で、わざと水を溜めて、下町から洪水を守る役割があったという。
その後田んぼになり、東京の米どころとして有名だったそうだが、高度成長期に台地に次々と建てられた工場や、住宅開発からの汚水が、この田に流れ出し、農業が出来なくなったと。そして、昭和30年代には大規模開発が行われて、都営三田線もとおり、巨大な団地群が立ち並び、今の高島平になった。浮間地区は少し離れているので、この旧松澤家住宅は残ったのだろう。
下から3枚目の重ね地図の西台・蓮根地域から左(西側)が徳丸ヶ原と言われていた地域で、右(東側)が浮間地域。
下から2枚目は現 高島平駅から徳丸が原を見た風景で、何もない原っぱだったことがよく分かるだろう。ここから一気に町が造られていった。わすか十数年で風景が激変したことになる。
一番下の写真は高島平に引っ越した当時に記念でとっておいた都営三田線の乗車券で、この当時はまだ硬券だった。
引っ越し先は当時珍しかった人工地盤にそびえ建つ集合住宅だった。
小学生,中学〜高校生の頃はまだ、愛羅◯勇、◯舞、みな◯ろし、極◯など暴走族が直管爆音で徳丸ヶ原や川越街道を走っていた。

しばらく徳丸ヶ原にも行っていない。
コロナが落ちついたらまた皆で飲んで楽しめたら良いな。
しかし、それ当分は厳しいのかな。

#コロナに負けるな #stayhome

【過去記事】
いたばし大交通展 人工地盤 西台アパート(西台団地) 富士山を望む
健さん 新幹線大爆破 志村検査場・交通局志村基地

オールドスクール
オールドスクール #2
生まれる
あぶないランプその2
メイク
我ら徳丸ヶ原のスケートチーム
また出会って、共に生きましょう
スケートボードのホームグラウンド

高島平の名の由来 高島流
文京区向丘 大円寺 高島秋帆の墓
ボクらのホームグラウンドの前谷津川
ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流
前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷
板橋区 赤塚不動の滝と大根
板橋区 出井の泉跡(出井川)

赤羽自然観察公園の湧水
北区赤羽西 かなくさ坂と湧水 隣接する赤羽自然公園の湧水
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標
■急傾斜地 板橋区小豆沢・北区赤羽西・新宿区赤城元町
北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
北区赤羽西 真正寺坂
赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
散歩RUN 志村一里塚〜桐ヶ丘団地〜赤羽八幡神社

【過去記事】
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2020 4/14 #2 『旧松澤家住宅 附 倉屋 #1』

地図の黒丸部分、赤羽自然観察公園内に北区ふるさと農家体験館がある。
かつて、北区浮間地区にあった松澤さんの住宅を移築したものだという。
背後にそびえる集合住宅と旧家の対比が圧巻。
この敷地はかつて陸上自衛隊十条駐屯地があり、あまり人の手が加わっていなかったこともあり(開園するために整備したそうだが)、都内では貴重な風景が広がっている。

案内板から引用---------------------

旧松澤家住宅 附 倉屋 北区赤羽西5-2-34 北区立赤羽自然観察公園内
規模 主屋 桁行九間 梁間五・五間(うまや 桁行二・五間 梁間二・五間)
   倉屋 桁行三間 梁間二間
建築年代 江戸時代後期

旧松澤家住宅は弘化元(1844)年に創建されたと伝わる民家です。
北区浮間に所在していた建物を、この場所に移築しました。
主屋は寄棟造りの茅葺き屋根で、棟に「箱棟」という瓦葺きの小屋根がついています。
間取りは、向って左に「どま」がつき、右側に田の字がずれた形に四部屋が配置される「喰い違い四間取り」形式になっています。
主屋に付属する「うまや」は明治初期頃に増築されたとされ、建物も同時期の間取りに復原しています。広い屋根裏は茅や藁などの保管場所として使うほか、洪水時の避難場所としても使われました。
これは当時の浮間をはじめとする荒川流域が洪水にたびたびみまわれた地域であったためで、これらの地区では「水塚」とよばれる高く盛り上げた敷地の上に家を建てていました。裏の倉屋は、主屋より創建が古いとも伝わっていて、礎石の上に直接柱を立てるなど、土台のある主屋と異なった建て方をしています。

平成17年3月 東京都北区教育委員会
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だいぶ前に、ブラタモリで浮間地区の住宅で、上記の水塚のことや舟などのことを紹介していた。
江戸時代から浮間地区やこの徳丸ヶ原(現在の高島平地区一帯)一帯は手つかずの原っぱだったのは、荒川の氾濫原で、わざと水を溜めて、下町から洪水を守る役割があったという。
その後田んぼになり、東京の米どころとして有名だったそうだが、高度成長期に台地に次々と建てられた工場や、住宅開発からの汚水が、この田に流れ出し、農業が出来なくなったと。そして、昭和30年代には大規模開発が行われて、都営三田線もとおり、巨大な団地群が立ち並び、今の高島平になった。浮間地区は少し離れているので、この旧松澤家住宅は残ったのだろう。
一番下の重ね地図の西台・蓮根地域から左(西側)が徳丸ヶ原と言われていた地域で、右(東側)が浮間地域。

【過去記事】
高島平の名の由来 高島流
文京区向丘 大円寺 高島秋帆の墓
ボクらのホームグラウンドの前谷津川
ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流
前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷
板橋区 赤塚不動の滝と大根
板橋区 出井の泉跡(出井川)

赤羽自然観察公園の湧水
北区赤羽西 かなくさ坂と湧水 隣接する赤羽自然公園の湧水
赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標
■急傾斜地 板橋区小豆沢・北区赤羽西・新宿区赤城元町
北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
北区赤羽西 真正寺坂
赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
散歩RUN 志村一里塚〜桐ヶ丘団地〜赤羽八幡神社

【過去記事】
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

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