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2022 1/20 『前谷津川(前谷津川緑道) <赤塚しのがやと公園(篠ヶ谷戸)>と<橋ぎわ>』

地図の青丸部分、暗渠となった前谷津川を整備した<しのがやと公園>があり、かつての前谷津川を再現した水の流れがある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー
赤塚六丁目付近は、かつて「篠ヶ谷戸」と呼ばれる湿地帯でした。
この公園のあたりは「前谷津川」という小河川が流れており、一帯が谷戸(谷状に切れ込んだ地形)」になっていました。
そこに「篠竹(茎の細い竹の類)」が茂っていたことから、篠竹の生えた谷戸という意味で「篠ヶ谷戸」という地名になったようです。
前谷津川は、周辺の湧き水を水源とした清流で、昭和初期頃まで生活用水や両岸に広がる水田の用水に使われるなど人々の生活になくてはならないものでした。
こうした地域の歴史を後世に伝える手がかりとして、この公園に「しのがやと」という名前を残しました。

板橋区土木部公園課
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石橋などの橋も架けられていて、小さな川のように見える。

いたばしの地名より引用ーーーーーーーー
篠ヶ谷戸(六、二丁目)

赤塚二丁目十三にある文化三(一八〇六)年の庚申塔には「下赤塚村篠ヶ谷戸」の銘があり、「風土記稿」に下赤塚村の小名の一つとして記載されていて、江戸時代から存在した地名です。
明治二二(一八八九)年四月一日の町村制の実施以降、昭和七年(一九三二)年九月三〇日の区制実施前まで北豊島郡赤塚村大字下赤塚の小字でした。
地名の起こりは、下赤塚小学校の辺りを流れていた前谷津川の周辺に細かく群がり生えていた竹や笹、すなわち篠が見られた湿地(谷戸)によります。いま篠ヶ谷戸町会があります。
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いたばしの地名より引用ーーーーーーーー
橋ぎわ(六丁目)

下赤塚地域に伝わる大正末期の俗謡「ヨカヨカあめうり唄」に出てくる地名で、赤塚六丁目の旧前谷津川のほとりです。地名の起こりは、赤塚中央通りと交差する旧前谷津川、ここに架かっていた橋本橋の橋のたもとから周辺の名となったもののようです。
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写真下から1−2枚目、ここにかつて橋本橋が架けられていて、<橋ぎわ>と呼ばれていたという。
この<橋ぎわ>を上流へ少し進むと上記の<赤塚しのがやと公園>があり、下流へ少し進むと<水車公園>がある。

※赤塚しのがやと公園の映像はこちら(mp4 720×1280 114.1MB)

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2022 1/18 『板橋区赤塚六丁目 板橋区No_139遺跡 古墳<塚>の上に造営された八幡神社』

地図の黒丸部分、大堂と八幡神社が同じ敷地にある。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーーーー
八幡神社は、赤塚村の鎮守の一つで、御祭神は品陀別命です。
ご神体として木像の騎上八幡が安置されていたと伝えられています。
創建年代は不詳ですが、暦応三年(一三四〇)に鋳造された大堂の銅鐘から、当社もこの頃には既に創建されていたものと思われます。また、荒川の氾濫を逃れるため、台地下の低地から遷座したとの伝承も伝わります。
当社が鎮座する地は、古墳の上であるともいわれ、江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』によると、「永禄兵火の時、本尊の阿弥陀火中より出現して止る処と云」と、永禄四年(一五六一)、長尾景虎(上杉謙信)の小田原攻めの戦火に巻込まれた折に、大堂の本尊である阿弥陀如来が火中から出現し座した場ともされています。
特殊神事として、毎年三月に赤塚諏訪神社獅子舞(昭和五十八年度板橋区指定無形民俗文化財)が行われています。獅子舞は、かつては辻々を舞い歩いていましたが、現在では、赤塚諏訪神社で舞を奉納した後、八幡神社に奉納しています。

平成二十六年十二月
板橋区教育委員会
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いたばし風土記より引用ーーーーーーーーーーー
本堂(大堂)の東に八幡様の小社がありますが、この社も江戸時代には下赤塚村の一部の鎮守様でした。
騎乗八幡の神像がおまつりしてあるそうです。この社につたわる獅子舞が春さきと夏の土用に今も舞いつづけられております。
ここの大堂と神社の関係は昔の神仏習合の姿をよく現わし、同一の境内地にあるとしか思えません。
明治初年の分離令により、苦しまぎれに神社の参道から右は八幡社、それ以外は大堂と苦肉の弁法で分けられております。
このお寺神社総体が大古墳の中腹に建てられ、古墳の中心が八幡社の裏の大木であるといわれていますが、古墳関係の発掘物は見あたりません。しかし境内のどの木を取りあげてもかなりの年代を経たものばかりです。この地方の農業が盛んであった頃は毎年農繁期の託児所がひらかれていたのも何か遠い昔のことのような錯覚をおこしてなりません。
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写真3−5枚目、八幡神社の本殿は6段上に建てられていて、上記のように古墳の上に造営されているのではないかと考えられている。
東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスには塚として登録されている。
八幡神社の前には前谷津川がかつては流れていて、ひとたび大雨が降ると暴れたといわれ、本殿に行くには何段もの階段を上っていかないとならないほど、高低差がある。(写真一番下)

いたばしの昔ばなしから引用ーーーーーーーーー
荒れ塚から赤塚

赤塚の松月院は、板橋区にある有名なお寺の一つです。
徳川家康が江戸に来てその翌年、このお寺に土地を寄付しましたし、また、江戸時代の終わりごろには、そのころ日本でただ一人といわれた砲術の学者であった高島秋帆という人が、今の高島平、むかしの徳丸ケ原で、わが国で初めて西洋の大砲や鉄砲のためし撃ちをした時の宿にもなったお寺です。
松月院の入口の門の右をみますと、青石の大きな記念碑が立っております。「赤塚村自治記念碑」で、赤塚村が出来た時のお祝いのしるしに立てられたものです。この記念碑が立てられる前には、ここに大きな山があって、大木がいっぱい生えていました。
ずっとむかしから、この山を、このあたりの人たちは「荒れ墓」とか、「荒れ塚」とか呼んで、こわがって近よりもしなかったといわれます。
「荒れ塚」の呼び名が、いつのまにか「あかつか」「赤塚」となったといいつたえられています。
親たちは子供に「あの山へは、忘れても近づくなよ、あそこの木の枝にさわると手が折れてしまうぞ。」「おっかねんぞよ。こわいぞよ、近よるとたたりがあるとよ・・・」
こんな気味わるい、おっかないうわさが、明治時代までつずいておりました。
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赤塚という地名は文字どおり、塚(荒れ塚)があったことが名の由来だといわれ(関東ロームの赤土が至るところに見られた地域だからとも言われる)、八幡神社の斜め向いの松月院前にはNo_141遺跡(古墳)があったと遺跡地図には登録されている。これが荒塚だという。

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■板橋区 志村城山遺跡・志村城址 <熊野神社に残る空濠>
■板橋区志村 熊野神社 板橋区No_159遺跡<塚(古墳)上に建てられた社殿>
■板橋区志村 志村古墳群<1号墳・2号墳>跡

■赤羽台古墳群 赤羽台第3号古墳石室
■北区赤羽北 稲荷の坂と赤羽台古墳群(赤羽台4丁目)
■北区赤羽西5 大塚古墳 周辺の古墳(天王塚古墳、稲付台古墳群など)
■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)<十条台遺跡群>
■北区王子 飛鳥山1号墳
■北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳
■北区上中里 平塚神社(平塚城伝承地) 鎧塚古墳/甲冑塚古墳
■北区滝野川3 滝野川古墳(都立王子総合高等学校敷地/旧王子工業高等学校跡地)

■十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更) その後7月・10月と“おふじ道”
■富士塚古墳<十条冨士塚(冨士神社)> 調査後の現在の姿 鳥大の一個十円のチキンボール

■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚
■板橋区南常盤台 天祖神社の西にあった<猫塚>と<狐塚>、小茂根四丁目の<猫塚(ねこ塚)>、大和町(根村)の<狐塚>

■高島平の名の由来 高島流
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■“青天を衝け” 高島秋帆 松月院<高島秋帆先生紀功碑>と西洋砲術の演習地 徳丸ヶ原

■旧中山道 板橋宿(仲宿 ) 徳川家康から朱印地が寄進された重蓮寺の参道跡

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2022 1/15 『板橋区小豆沢 志村古墳群 小豆沢神社<観音塚古墳> カニ山』

地図の赤丸部分、小豆沢神社の社殿は観音塚古墳の上に建っている。
東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスでは<種別:墳墓>となっている。

いたばしの街道めぐりから引用ーーーーーーーー
平安朝時代、平将門が下総石井にあって教皇を称したころ、貢物の小豆を積んだ船が、当時七々子崎といわれた小豆沢の入江に停泊中、一夜暴風のため沈没したのでこの名が発生したという薬師縁起、今ひとつは洪水により上流村民の糯米袋がここに流れついた。
これを村民が拾いあげて食べてしまった処上流の村より訴が提出された、裁判の結果、穀物をそのままに捨ておけば腐敗して国の損を来たすことで、これを有効に食用にしたことはとがめるべき筋合でないと裁定された。
これを徳とし小豆沢神社の祭礼小豆飯をたいて振舞ったとの神社伝説が地名のおこりともされている。

◎小豆沢神社
江戸時代には十二社といわれた。その創立は不明であるが、俗に観音塚といわれる古墳上の社殿。昭和の改築前には茅ぶきの社と古墳のおもかげがはっきりうかがえた。
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上記の改築前の写真は古墳の面影がよく分かる。
上から一枚目、8段ほど上がっていくと社殿<拝殿・本殿>があり、改築時に墳丘は平に削られたようだ。

板橋区史<考古>編より引用ーーーーーーーーーー
志村古墳群
志村古墳群は、志村二丁目から小豆沢四丁目にかけての、荒川を望む志村台地の縁辺に位置する。
三群六基からなる極めて小規模な古墳群である。
志村古墳群の存在が明らかになったのでは、一九三五年の中山道(現国道一七号線)拡幅および土地区画整理工事に伴う緊急発掘の際である。発掘は一日で終了したとある。
調査では現在の三丁目に所在した古墳二基を発掘し、小豆沢四丁目の小豆沢神社社殿下の観音塚を測量している。
後藤守一による調査の結果、発掘した古墳二基のうち一基は明らかに石室を伴う古墳であるが、もう一基は不明としている。測量のみの観音塚は、古墳であろうと推定するにとどまった。
後藤の調査前の一九三二年一月、人類学者石田収蔵は小豆沢・志村一体を踏査した際、志村古墳三基、熊野神社西方に「伊勢塚」という名の古墳があると、彼の手帳に記述した(未公表)。一九五三年には志村一丁目志村城の一角が光学機器コパルに払い下げられ、石田の記述にあったお伊勢塚が北條治宗らによって調査されている。城内にはこのほか、熊野神社社殿下と、もう一か所東側に離れた所の三か所の存在を明らかにしている。
物はなかった。構築年代は石室の形から推定して、古墳時代末期であろう。
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小豆沢観音塚の墳丘は、板橋区史<考古>編の図では、直径約40m・高さ約4mで、平に削られる前は7〜8m位に描かれている。
詳しい調査はされているのか不明だが、大きな円墳であることがわかる。

また、地図の黒丸部分、小豆沢神社の東側はかつて<カニ山>と呼ばれていたという。a
いたばしの地名より引用ーーーーーーーーー
かに山
小豆沢四丁目の台地上地域を言います。
ここから南にかけての地には古墳の塚が多く在ったといいます。
これらのことから祭祀に必要な土器などに用いられる良質の赤土と共に、土師(埴師)が居住していた可能性があります。
埴はハニワ(埴輪)のハニで粘土のことで、ハニがやがてカニに転化したと思われます。
近くの赤羽も関東ローム層の赤土を赤埴(あかはた)と呼び赤羽に転じたといいます。
または荒川が大きく弧を描いている台地上に位置していて、地形が蟹の姿ににていることからこの名が付いたともいわれています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
<いたばし風土記>にも書かれているように・・・
『コパル第一工場の建設で山頂の桧林が整理されるまで十数個の古墳がありまして、最後の一番大きなお伊勢塚と呼ばれた円墳がこわされたときには一体分の人骨が掘り出され、現在も事務所の前に移設埋骨されて古墳のおもかげを留めております。』・・・
志村、小豆沢一帯にはたくさんの古墳・塚があったようだが、そのほとんどが消滅してしまったことがわかる。

写真一番下、境内にあった<女坂の名残>の石碑。どこに坂があるのか不明だが、小豆沢神社は台地の際にあるために、台地と低地をつなぐ坂(魚藍坂・寺坂・ふか坂・念仏坂・殿山の坂など)がいくつもあり、それらの坂のうちのひとつで女坂がかつてあったのだろうか。現在は神社をはさんで西と東に坂があるが、境内から直接アプローチ出来る参道のような坂があったのだろうか。

写真:2014年10月撮影

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■北区上中里 平塚神社(平塚城伝承地) 鎧塚古墳/甲冑塚古墳
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2022 1/13 『板橋区志村 志村古墳群<1号墳・2号墳>跡』

地図の黒丸部分、都営三田線の志村坂上駅のすぐ近く、小豆沢通り沿いに1号墳・2号墳があったという。
昭和10年(1935)頃から始まった近隣の区画整理事業によって1号墳・2号墳は破壊されてしまったので、今は痕跡はない。
1936年の航空写真の赤丸部分に1号墳・2号墳があったが、この写真でも姿が見えないので、早々に破壊されてしまったのだろう。しかし、1号墳は調査がされて記録が残っている。

板橋区史<考古>編より引用ーーーーーーーーーー
志村古墳群
志村古墳群は、志村二丁目から小豆沢四丁目にかけての、荒川を望む志村台地の縁辺に位置する。
三群六基からなる極めて小規模な古墳群である。
志村古墳群の存在が明らかになったのでは、一九三五年の中山道(現国道一七号線)拡幅および土地区画整理工事に伴う緊急発掘の際である。発掘は一日で終了したとある。
調査では現在の三丁目に所在した古墳二基を発掘し、小豆沢四丁目の小豆沢神社社殿下の観音塚を測量している。
後藤守一による調査の結果、発掘した古墳二基のうち一基は明らかに石室を伴う古墳であるが、もう一基は不明としている。測量のみの観音塚は、古墳であろうと推定するにとどまった。
後藤の調査前の一九三二年一月、人類学者石田収蔵は小豆沢・志村一体を踏査した際、志村古墳三基、熊野神社西方に「伊勢塚」という名の古墳があると、彼の手帳に記述した(未公表)。一九五三年には志村一丁目志村城の一角が光学機器コパルに払い下げられ、石田の記述にあったお伊勢塚が北條治宗らによって調査されている。城内にはこのほか、熊野神社社殿下と、もう一か所東側に離れた所の三か所の存在を明らかにしている。

志村第一号墳
小豆沢二丁目一八番に所在した小円墳で、調査時かなり破壊を受けていた。直径一三〜一四メートル、高さ三メートルの規模をもっていたと考えられる。
石室はやや東を向くものの南側に開口部をもつ。
石室の天井石全部と側壁石の一部が失われていたが、石室の構成材は切石および河原石からなる。
玄室の奥行き一・九メートル、奥壁幅一・八メートル、玄室入口部幅一・六四メートル、入口幅推定八四センチメートルである。床の一部に拳大の礫がみられ、石敷きであったと思われる。羨道部はさらに残り具合が悪く、その規模も不詳である。当古墳はすでに盗掘を受けており、遺物はなかった。構築年代は石室の形から推定して、古墳時代末期であろう。
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志村第二号墳についての記載はなし。
志村1号墳についての石室や遠景の写真が、板橋区史<考古>に掲載してある。

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■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更)と補助83号線
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