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2021 2/16 『神田上水 関口大洗堰の由来碑の碑文』

地図の青丸部分に江戸川公園があり、関口大洗堰の由来碑が保存されている。
絵図や絵葉書、写真などにもたくさん描かれているので、とても人気があった場所、重要な場所だったことが分かる。
由来碑自体は失われていて、この碑文のみが見つかったらしいが、壊してしまったのだろうか。残念。

関口大洗堰の遺構の一部も公園内に保存されている。

案内板から引用ーーーーーーーーー
大洗堰の由来碑について
かつて、この地には神田上水の堰があり、古来より風光明媚な江戸名所として知られていました。
上水の改修工事には俳人松尾芭蕉も関与し、その旧居(芭蕉庵)は四〇〇m程上流に復元されてされています。
大正八年、東京市はこの地を江戸川公園として整備し、史跡(大洗堰)の保存に努めましたが、昭和十二年になり江戸川(神田川)の改修により失われたので、翌年、堰の部材を再利用して由来碑を建てました。
左の碑文は、その文面です。由来碑はすでに失われましたが、近年この碑文のみが見つかりましたのでここに設置致しました。

平成三年三月 文京区役所公園○○
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<江戸切絵図 音羽絵図>の右側、南北に真っすぐのびるのが現 音羽通りで通りの右に水窪川が描かれているが、通りの左に対のように流れていた弦巻川は描かれていない。この当時は護国寺前で水窪川に合流させていたのだろう。

話は変わるが、もう10年ほど前に、この神田川沿いを赤いソックスを履いた大きな陸カメが散歩しているのを見かけたことがあるが、今も元気なのだろうか。

池袋から鎌倉街道を通って神田川に出て下流へ下り、この大洗堰やその先の水戸徳川家上屋敷跡(後楽園)のコースもおもしろいです。

文京ふるさと歴史館 <関口大洗堰

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■護国寺惣門

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2021 2/15 『文京区小日向一・二丁目南遺跡 神田上水旧白堀跡 東京都水道歴史館に移築復原』

地図の赤丸部分、巻石通りは神田上水を暗渠にして出来た道で、神田上水旧白堀跡が出土した。

神田川の関口の大堰から分水した神田上水は、小日向台地の下を流れて江戸の飲料水として潤していた。
徳川慶喜邸からも神田川・神田上水が流れる景色を望めたことだろう。
役目を終えた後は暗渠化され、巻石通りと呼ばれている。
巻石通りを東へ少し進むと、通りと神田川の間に印刷博物館があり、数年前に“武士と印刷”展が開催されていた。
図録は買わなかったが、大変にボリュームのある展示会だった。
江戸時代、諸外国の人々よりも識字率が高かったという日本、特に武士には日本を訪れた外国人は一目をおいていたと。

この印刷博物館周辺は神田川(江戸川)が大きく曲がる場所で、江戸初期に埋め立てられるまで白鳥池があったところで、江戸時代以前は実際の白鳥池はもっと広範囲に広がっていたのではないかと推測もされている。
白鳥池より東側の駿河台を越えた場所にある、古石神井川系の不忍池は縄文海進時(後)に出来たことが分かっているので、その当時に白鳥池がつくられたのではないのだろうか。
水のあるところには印刷関係が集る、その象徴のような場所でもある。

案内板より引用ーーーーーーーーーーーーー

文京区小日向一・二丁目南遺跡 神田上水旧白堀跡

文京総合福祉センター建設工事に伴い、平成二十三年から二十四年にかけて実施された文京区小日向一・二丁目南遺跡の発掘調査で、神田上水関連遺構が検出されました。この地は、旧黒田小学校(後の区立第五中学校)の跡地にあたります。
神田上水は、神田川(旧平川)を水源として、江戸市中のおよそ二〜三割の範囲に飲料水をまかなった、江戸を代表する上水道として知られています。
神田上水が市中に入るこのあたりの白堀(開渠の堀)は、神田川の北岸、小日向台地の南側縁辺部を沿うように流れていました。
本調査で初めて発見された新旧二筋の白堀跡は、間知石の石積み護岸で、長さ60m以上確認され、その一部を現場で展示しています。
展示範囲は、旧白堀の石積み護岸(15b号遺構)をそのまま利用した新白堀の護岸(15a号遺構)が、後に石蓋(万年巻石蓋)え覆われて暗渠化された所です。
発掘調査時には、石蓋は取り除かれ、石積みも一部破却された状況でしたが、見つかった状態のまま復原し展示しています。
東京砲兵工廠(小石川後楽園)では、東京市内への上水の供給が終了した明治三十四年(1901)年以降も、神田上水を工業用水や園内の大泉水の水源として使用していました。
大正初期、石蓋で覆われた水路は、鉄管の水路へ置換し姿を消します。関口大洗堰の取壊しや庭園用の深井戸設置に伴い、昭和八〜十(1933〜1935)年頃、神田上水の役割は終焉を迎えます。
神田上水関連遺構は、都市化の進む江戸・東京で飲料水をどう確保してきたのかを考える上で貴重な情報を提供しているといえます。

文京区教育委員会
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この遺構は本郷にある東京都水道歴史館に移築復原したものが展示されている。(写真下から1−2枚目)
※緊急事態宣言中のため施設は休館している。

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2021 2/12 『文京区春日二丁目(小石川小日向第六天町) 徳川慶喜邸と新坂(今井坂) “徳川おてんば姫” 井出久美子』

地図の赤丸部分、小日向台から神田川(神田上水<現 巻石通り・水道通り>)へと下るゆるい坂が新坂とも今井坂とも呼ばれている。

下から2−3枚目、敷地合成をしてみたが、スケールがあまり合っていないので参考程度に。
表玄関へのアプローチは現 春日通り側の台地からだったようで。

今から50年ほど前の本から。
『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーー
新坂(しんざか)

春日二丁目六番金富小学校西わきを北上する坂で、坂口に浄土宗の竜岡寺があり、坂上は伝通院通りへ出る。
「続江戸砂子」には「新坂 又今井坂といふ。
此所が酒井讃州候の屋敷の旧地なり。
坂のうへ蜂須賀孫十朗殿やしきの内に兼平桜と名づく大木あり。
これによって今井坂といふが来歴知らず。」とある。
兼平桜は今井兼平の名からとられたものらしい。
しかし「新編江戸志」には「新坂 金剛寺坂のならび、江戸砂子に今井坂といふは誤りなり。」と否定し、また「改撰江戸志」は「新坂は金剛寺坂西なり。案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あらむ。
別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃開けしと。」と記している。
この坂下の南方、江戸川の小桜橋の対岸は東五軒町であるが、夏目漱石の小説「それから」(明治四十二年作)にはこのあたりが次のようにかかれている。
五軒町から江戸川の縁を伝って、河を向へ越した時は、先刻散歩からの帰りの様に精神の困憊を感じてゐなかった。
坂を上って伝通院の横へ出ると、細く高い煙突が、寺と寺との間から、汚ない煙を。 雲の多い空に吐いてゐた。
代助はそれを見て、貧弱な工業が、生存の為に無理に吐く呼吸を見苦しいものと思った。
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案内板より引用ーーーーーーーーーーーーー

今井坂(新坂)
文京区春日2丁目7番と8番の間

改撰江戸志」には、「新坂は金剛寺坂西なり。案に此坂は新に開けし坂なればとてかかる名あらむ。別に仔細はあらじ、或はいふ正徳の頃(1711〜16)開けしと、」とある。新坂の名のおこりである。
今井坂の名のおこりは、『続江戸砂子』に、「坂の上の蜂須賀孫十朗殿屋敷の内に兼平桜(今井四郎兼平の名にちなむ)と名づけた大木があった。これにより今井坂と呼ぶようになった。」とある。
この坂の上、西側一帯は、現在国際仏教学大学院大学になっている。ここは徳川最後の将軍、慶喜が明治34年(1901)以後住んだところである。慶喜は自分が生まれた、小石川水戸屋敷に近い、この地を愛した。慶喜はここで、専ら趣味の生活を送り、大正2年(1913)に没した。現在、その面影を残すものは、入口に繁る大公孫樹のみである。

この町に遊びくらして三年居き寺の墓やぶ深くなりたり(釈 迢空<ちょうくう>)
(この町とは旧金富町をさす)

文京区教育委員会 平成13年3月
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新坂を上ったあたりに徳川慶喜邸の表玄関があり、大きな銀杏が目を引く存在だったといい、今でも大切に手入れがされている。
徳川慶喜の孫である井出久美子さんが上梓した“徳川おてんば姫”に書かれていたが、戦後初めてかつての住まいであったこの邸宅跡を訪れた時に、高い建物が林立して景色は変わってしまったけど、この大きな公孫樹が今でも大切にされていてとても嬉しかったと。
戦火を免れた第六天(屋敷のまわりは焼けたが、敷地に植えていた樹木が屋敷を守ったと)は華族制度が廃止されたために国に物納され、その後官舎が長いこと建っていたが、現在では国際仏教学大学院大学になり、敷地はほぼそのままで、学校側も歴史のある土地ゆえに、徳川慶喜邸の模型を製作したり、井出久美子さんを招いて講演会を開き、後世にこの歴史を伝えている。

徳川おてんば姫にはその邸宅の模型や配置図・平面図などこと細かに描かれていて、当時の貴重な出来事は我々一市民が知ること、体験をすることができないことで、大変楽しく読ませていただいた。
上梓直後、井出久美子さんはこの世を絶った。

最初の夫である松平康愛氏は戦死し、その後同じ海軍にいた医師である井出氏と再婚し長男を授かった。
長い時を経て、妃殿下が亡くなったあとに井出久美子さんは何億という遺産を相続したが、長男が詐欺師に騙されてすべてを失ったしまったという。
その後、井出久美子さんは都営住宅で過されたそうだ。
大邸宅、大屋敷から都営住宅まで過したこと、たくさんのことを経験したことはとても貴重な体験だったのだろう、長男がすべての遺産が無くなったことを母(久美子さん)に伝えたら、「最初からなかったと思えばいいじゃない」と言ったことが、強さ、経験値の高さを表しているのではないかと思った。

ところで、徳川慶喜が静岡で過した何十年間、近くに鉄道が通って喧しくなるので、巣鴨へ引っ越すもその地でも山手線が開通し、仕方なく小日向に引っ越したが、死後に丸ノ内線が敷地を貫通したというのが、やはり文明の先端が好きだった慶喜らしいエピソードだ。

すばらしい本なので、歴史が好きな方はぜひお読みに。
井出久美子さんが亡くなる前の年に、慶喜の曾孫である徳川慶喜家四代目当主 徳川慶朝氏も亡くなり、徳川慶喜家嫡流は断絶した。

関口や小日向は本当におもしろい地域。

<文京ふるさと歴史館 だより>より引用ーーーーーーー
“坂名の由来〔新坂・今井坂〕”
『御府内沿革図書』という江戸の地誌に所収の、元禄年中(1688 〜 1704)の図を見ると、現在の新坂に該当するあたりに「酒井靱負佐」との表記があります。酒井家は若狭国小浜藩主で、図は、そこに屋敷があったことを示すものでしょう。しかしこの時点では、新坂を示すような道・坂道らしき表記はありません。少し時代が下る正徳5 年〜享保1 年(1715 〜 1716)の図になると、そこに「坂」の表記が見えるようになります。また嘉永・安政期(1848 〜 1860)頃の切絵図では、そこに「シンザカ」と記されています。
おそらく、正徳頃に坂道が開かれ、新しくできた坂道なので「新坂」と呼ばれるようになったのでしょう。
享保20 年(1735)成立の『続江戸砂子』という地誌には「新坂 又今井坂と云、此所ハ酒井讃州侯の屋敷の旧地也、坂のうへ、蜂谷孫十郎殿やしきの内に兼平桜と号大木あり、これによつて今井坂と云か、来歴しらす」とあります。坂名を新坂とした上で今井坂の別名を記し、その別名由来を、坂上に兼平桜があったためかと簡単に触れています。
ところが『新編江戸志』という地誌を見ると、兼平桜を今井四郎兼平という中世の武将にちなむものとした上で、さまざまな資料を引きながら、新坂=今井坂説は、『江戸砂子』・『続江戸砂子』の著者である菊岡沾せんりょう涼の「附会の説也」、つまり勘違いであり、今井坂はここではないとの主張がなされています。

“新坂にくらした徳川慶喜”
徳川慶喜は、天保8 年(1837)水戸藩9 代藩主徳川斉昭の子として、小石川の水戸藩上屋敷に生まれます。
その後、御三卿のひとつ一橋家を相続、将軍後見職などを経て、慶応2 年(1866)徳川15 代将軍となります。
大政奉還を経て、明治以降は、権力とは距離を保ち、写真撮影をはじめ、多
彩な趣味を専らとした姿が伝えられています。
その徳川慶喜が、明治34 年(1901)以降、この新坂上となる旧小石川区第六天町(現、春日二丁目)にくらしたことは、現在よく知られています。
徳川慶喜家の家扶・家従(華族の家務などを行うもの)らによる慶喜家の日記(松戸市戸定歴史館所蔵)には、慶喜や家族らの外出、慶喜家への来訪者・贈答その他、慶喜家に関する事柄が1 件ごと簡潔に記され、慶喜の足跡を知る上で、貴重な資料となっています。
その日記の明治34 年12 月24 日を見ると「九時四十分御出門、御幌馬車ニテ小日向御新邸ニ御移転」との記述があります。
それまで住んでいた巣鴨邸からの移転の様子を記すものでしょう。
さらに、移転から遡る同年8 月1 日を見ると「御幌馬車ニテ小日向御新邸江被為入」との記述があります。
慶喜の行動と思われる同様の記述は、この時期より頻出し、移転する12 月末にかけて、時にはほぼ日参ともいえる状況を伝えています。
9 月19 日には「御出門御徒歩ニ而小日向御邸へ」とあり、巣鴨邸より徒歩で第六天町まで訪れている様子が記されていますこれらの行動の詳細は明らかではありま
せん。
しかし結果として終焉の地となる、この第六天町新邸に対する並々ならぬ思い入れを示すものではないでしょうか。
日記には移転後のことも記されています。
「御徒歩ニ而江戸川辺御写真」(明治35 年4 月5 日)、「御徒歩ニ而丸山町有栖川様御別邸へ鷺狩ニ御出」(同年8 月10 日)、「御徒歩ニテ御近傍御運動御写真機御携帯」(明治38 年3 月12 日)、「御徒歩ニテ音羽辺へ御写真ニ御出」(明治39 年3 月16 日)など、徒歩外出の記述もたびたび見ることができます。
おそらくこの新坂や周辺の坂道も、カメラを携えた慶喜が上り下りしたことでしょう。
大正2 年(1913)11 月22 日、77 歳にて慶喜は死去します。
翌日より、慶喜死去〜葬儀までの記事が新聞各紙に大きく扱われます。
『萬朝報』(大正2 年12 月1 日)には、葬儀日の記事として「竹早町電車通りよりと、水道端より(慶喜邸)正門に至る間」が一時通行止めとなる混雑ぶりや、沿道に土下座する老人の姿などを伝えています。
小石川に生まれ、晩年を新坂上となる小石川第六天町に過ごし、小石川を歩き、この地で終焉を迎えた徳川慶喜、文京との縁が深い人物の一人といえるでしょう。
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2021 2/9 『武蔵野台地東部(十条台地) 北区清水坂公園の湧水(井戸)』

地図の赤丸部分に、武蔵野台地の高低差を巧く使った清水坂公園があり、園内に湧水を使った井戸が設けられている。
井戸を覗いてみると、底から湧きだしている様子は見られなかった。

子供連れのお母さんが「これは井戸なんだ、へぇ〜」と、子供に案内板を読み聞かせていた。この付近は湧水が豊富なことを知っている人はあまり多くないのだろう。
また、清水坂公園の東側の突端あたりから貝塚が出土し、清水坂遺跡と呼ばれている。

案内板から引用ーーーーーーーー
お願い
ここは、公園をつくる前から崖地の下からにじみでる地下水が多いところでした。
そこで、公園利用者の皆さんにこの水を見ていただこうと考え、この公園をつくるとき地下水を保護し、みちびいてこのような井戸を設けました。
また現在は、この水を自然ふれあい情報館の北側にある自然観察園の池の水としても利用しています。
井戸の水をきれいに保つために、井戸のなかに入って遊んだり、物を投げ込んだりしないで下さい。
北区河川公園課
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この武蔵野台地の東側と北側の崖線から、かつてはもっと豊富な湧水があったが、今でもあちこちから水が滲み出し、湧きだしているのを見ることができる。
地図の薄い青い線、東十条駅周辺の崖からは二ヶ所、道路から湧水を見ることができ、あちこち湧き水で濡れている。
ここを南下すると、王子七滝が出現してくるが、そのうちのひとつである名主の滝が唯一現存する滝として広く知られている。
かつては刺青を背負った人々が名主の滝に水行をしにくる姿もよく見られていた。

地図の濃い青い線、清水坂公園の前には暗渠になった稲付川(根村用水・中用水・北耕地川)が流れていた。
日光御成道には文明橋という石橋が架けられてて、その場所には立派な出桁造りの商家が建っていたが、拡幅工事の影響だと思うが解体されてしまった。
※文明橋は“だんか橋”と呼ばれていた。明治以前は香取橋といい、氏神様の名を踏んでは申訳ないことから、文明橋と改めた。
雨乞いの時は長さ八間に及ぶ麦藁製の龍神を橋下の流れに浸し稲付台地へと出発したという。(北区の橋より引用)

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■北区中十条 日光御成道(鎌倉街道 中道 旧岩槻街道) 清水坂(清水坂遺跡)

■石神井川 正受院 王子七滝 不動の滝跡(瀧不動の碑)
■石神井川 正受院裏 王子七滝 不動の滝跡(王子不動之瀧跡) 対岸は湯タキ・水タキ(湯滝・水滝)
■石神井川 不動の滝跡(瀧不動の碑)付近の調査(2014年11月28日 9時頃)
■王子七滝 名主の滝
■王子七滝 名主の滝公園の湧水 (2020年8月8日)
■王子七滝 王子 権現の滝
■音無川(石神井川) 音無渓谷 庶民が王子大滝と呼んだ王子大堰
■王子十五滝 現存するのは名主の滝のみ
■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)<十条台遺跡群>
■王子七滝 王子稲荷神社 狐石像が置かれた滝
■王子七滝 見晴の滝跡の湧水と芝坂
■王子七滝 見晴の滝の名の由来
■王子十五滝 醸造試験所の滝
■王子十五滝 料亭扇屋 末広の滝
■王子十五滝に加えて 今も残る飛鳥山の小滝

■王子神社東側の崖線と上郷用水(石神井用水)に架かる三本杉橋の親柱
■東京第一陸軍造兵廠の軍用鉄道 ちんちん山(南橋)のトンネルの湧水

■北区 中里遺跡出土丸木舟
■北区岸町 上郷用水(石神井用水)に架かる岩槻街道の三本杉橋下から出土した縄文時代の丸木舟と中里遺跡出土丸木舟

■稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
■姥ヶ橋延命地蔵尊と根村用水(稲付川や中用水、北耕地川とも言われる)
■旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”
■北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
■北区十条仲原 稲付川に架かっていた游鯉園橋
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川) 水車の坂
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川)が流れる深い谷底
■王子 上郷用水(石神井用水) 三本杉橋の親柱
■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬庫道の橋跡
■徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水
■板橋区大和町 日曜寺に架かる根村用水の橋(親柱・欄干)と平尾町内中の石柱(平尾宿)

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