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2021 5/29 『北区滝野川3 四本木稲荷神社/四本木稲荷古墳』

東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスの地図、四本木稲荷古墳があり、現在古墳の上に四本木稲荷神社が造営されていて、すぐ北側に石神井川が流れている。
さらに、この四本木稲荷古墳の北や北東の武蔵野台地の際や崖に古墳がいくつも点在している。
四本木稲荷古墳の主な出土品は記載されていないので調査はされていないのだろうか。
また、四本木稲荷古墳(神社)のすぐ西側にはかつて鎌倉街道が通っていたことも特徴的なロケーションだと思う。

歩きたくなるまち 東京都北区から引用ーーーーー
四本木稲荷神社 しほんぎいなりじんじゃ

この神社は、かつて十条駐屯地や中央公園の一帯にあった東京砲兵工廠銃包製造所の構内社であった四本木稲荷神社を分祀したものです。
そもそも、十条の四本木稲荷神社は、敷地内に所在していた小社を改修したもので、これは製造所の工事にともなって古墳を壊したことの祟りを恐れる意識があったものと考えられています。
かつて十条にあった四本木稲荷神社の境内は、現在、中央公園の一部(旧稲荷公園)となっていますが、そこにあった社殿は滝野川の地へと遷され、四本木稲荷神社の本殿となっています。
ちなみに、元々の滝野川の四本木稲荷神社の本殿は、現在では同神社の境内摂社となって祀られています。
四本木(よもとぎ)稲荷神社とも呼びます。
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境内からも円墳になっているのが分かるが、隣りの公園から見るとよく分かる。
今後、境内の開発行為は行われることがあれば、勾玉など様々なものが出土したら、近隣の他の古墳の出土品と比較でき、新しい発見があるかもしれない。

境内に置かれているフライヤーから引用ーーーーー

当社の祭神は「神道大教院」の奉斎する主神の御分霊、並びに「四本木、世基祇(よもとぎ)大神・です。
昭和29年6月に宗教法人登記されており、敷地は国有地です。
・・・「王子町誌」(昭和2年、王子町刊)に拠れば、当地周辺が明治38年に陸軍の雷汞場(「らいこうば」、銃弾火薬の製造工場、後に造兵廠瀧野川工場となる)となる前より有った無名の小祠が源となります。
一方、その北方の下十條村七軒町(現・十条台、十条駐屯地正門付近)に、四種の樹木(サワラ、杉、樅、椎)に囲まれた王子稲荷分社の「四本木稲荷(しほんぎいなり)が古くからありました。
明治38年にその一帯が陸軍砲兵工廠(主に銃砲や銃弾製造 後に「造兵廠」となる)が設けられたため、陸軍が管理する営内(構内)神社となりました。
その後の第一次世界大戦をきっかけとする施設増強により、敷地の北東角地付近(現・稲荷公園の場所)に四本木稲荷な移転されました。
当社敷地内にある多数の鳥居や灯籠、天水桶、手水鉢に刻まれた「火工廠」、「火具製造所」、「信管工場」、「圧延工場」、「鉄砲製造所」、「精器工場」等の文字は、砲兵工廠の部門名です。
毎年、4月には招魂祭と神社祭礼が周辺の方々も参加され盛大に執り行われていました(高木助一郎日記より)。
当社については王子町誌に「小祠を改修し、結構を改め、且つ当時の銃砲製造所長船頭となって十條構内四本木稲荷神社から神霊還しの式を行い、爾来四本木稲荷神社と称するので、祭典も十條構内の神社と共通に行うことになっている」とあり、造兵廠構内には南北(十條、瀧野川)に二つの四本木稲荷が有ったことになります。
戦後、両社は陸軍の管理を離れ周辺地域の方々により祀られましたが、滝野川は梶田穣園氏が中心となって神道大教派の神社となり、四本木(しほんぎ)の四を世、本を基、木を祇と文字を移し替え、「よもとぎ」と呼ばせ世基祇(よもとぎ)大神を祀ることになりました。
昭和40年代中頃に十条の四本木(しほんぎ)稲荷が公園拡張工事に伴い廃せられることになり、社殿、鳥居や灯篭、天水桶、手水鉢、狛犬等が当社である四本木(よもとぎ)稲荷へ移転されました。
これにより旧四本木稲荷社殿が境内南に移設され、その姿を残しています。
令和元年に、梶田家に替わり当社の包括団体であろ宗教法人神道大教院本局により直接運営されることになりました。
なお、北東に朱色の小祠は、現王子警察署敷地に有った陸軍営内神社(清水稲荷)が廃社されるのを、ここへ移転されました。
また東側の半月形の「忠魂碑」は当社が陸軍火薬製造所敷地内に有った事を明示させ、製造工程中の殉職者を弔うものと思われます。
昨年3月よりボランティア組織の「守る会」により整備が進められ、11月17日代表役員就任奉告祭が神道大教院の菊池重敏管長により執り行われ、その後、毎月13日に月次祭が開かれています。

令和3年4月 よもとぎ稲荷を守る会
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映像をリンクさせているので、そちらを見ていただくと雰囲気がわかるかと思います。
※近隣住民にから大切にされていることが良くわかった。

※映像は下記。
(720×1280 18.9MB mp4 こちら
(720×1280 65.5MB mp4 こちら
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2021 5/27 『新宿区 花園神社 復活した井戸』

地図の青丸部分、新宿にある花園神社は昭和20年5月の空襲で神社は焼け野原になってしまい、それまであった井戸も消失してしまったようだ。
しかし数年前、地下街や地下鉄も通っていることから水が湧き出すかどうか不安だったが、井戸を復活させようというのテレビの企画で見事に水が湧いて井戸が復活したという。
宮司いわく、現在は水が4m(約3.5トン)溜まっているという。花園神社は広域避難所へ行く際の一時集合場所になっているので、災害時には役にたつのではという。
井戸は花園神社にある芸能浅間神社の隣りにあり、明治通りからもすぐに行くことができる。
花園神社のすぐ目の前にはかつて蟹川が流れていて、今は暗渠となっている。
新宿というと、かつては淀橋浄水場もあり、十二社の池、玉川上水、新宿御苑、神田川、蟹川など、そして水商売水....水というイメージが強い。

自分が十代二十代の頃は、夜の新宿の沿道で口に拳をトントンと当てて合図をしている人々が多くいた。これはいわゆるアンパン(シンナー)があるよ売るよという合図だと聞いたことがある。オロ◯ミンCのボトルで売っていたというのは有名ですね。警視庁24時的な番組でもよく取り上げられていたと記憶している。
....脳みそを溶かしてスカスカにするという怖い怖い液体。

花園神社がある土地は淀橋台で、地盤も良好であることから、新宿に都庁も建設されたという経緯もある。
線状降水帯という気象用語を聞いたのは数年前の鬼怒川の氾濫の時だったと思う。
長い梅雨が始まり、早くも全国に大雨の注意報も発令された。
激甚災害がおこらないように。
数年前の都内、落雷連発も非常に怖かった。

いつきてもおかしくない首都圏直下型大地震、南海トラフ地震。
災害に役立つことがないような井戸であって欲しいですね。
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2021 5/24 『谷端川 雲雀ヶ谷支流(名も無き小川)とお多福弁天沼(お多福弁天様・橋かけ弁天様)』

一番上、<生活と文化豊島区の湧き水をたずねて>より引用。
豊島区上池袋2ー2を水源とした小川跡が書かれている。
この小川は谷端川に流れ込む支流で、雲雀ヶ谷支流とも呼ばれていて、写真上から1−2枚目、線路沿いの道が大きく凹んでいることが分かる。
この凹んだあたりにかつて水源があり、面白いことにこの場所には昔マンモスプール(現 豊島区立池袋スポーツセンター)という大きな屋内プールがあり、低いところにまるで湧水があるかのように思えて仕方がない。

古い地図と現代の地図に、この小川(支流)を書き込んでみた。
下から2枚目、豊島区土木課のフェンスが置かれているところは未舗装で、使い道がないようなこの場所に支流が流れていたと言われている。
写真一番下、上記の場所から、真っ直ぐにこの道を流れて、最後は谷端川の<一の橋>で合流していたそうだ。
だいぶ前のブラタモリでも放送されていて、お店の古老の女性が名も無い小川がここ流れていたと証言していたと記憶している。
この小川跡の道は、板橋と北池袋、池袋本町、池袋を結ぶ重要な道であり古道でもあり、江戸時代の絵図にもしっかりと川筋が描かれている。
道沿いには、暗渠沿いのシンボルとして知られている銭湯もあり、そのうちの1つは近年廃業をした。道沿いには商店も連なっていて、お母さんとご子息であろう方がいつも言いあっている賑やかな八百屋さんは今も健在だ。

一番上の古い地図、青丸部分が他よりも大きく膨らんでいるように、この場所にはかつてお多福弁天沼があったそうで、下板橋通り沿いの集合住宅の一角に、現在もお多福弁天様が大切に祀られている。
また、このお多福弁天沼のすぐ近くには池袋東貝塚があった。

※雲雀ヶ谷という名は東武東上線の北池袋駅にある踏切の名称にも使われている。北池袋駅にあるこの踏切はJR線と東武東上線を渡らないとならず、開かずの踏切とも言われている。遮断機をくぐる人もかつては多くいて、いくつもの事故が起きていた。近年では、といってももう何年も前だが、乳母車を押したお母さんとお子さんが、列車に跳ねられて亡くなった悲しい事故も記憶に新しい。
写真上から3−4枚目の小川跡付近に(もう少し北池袋駅方面だっただろうか)、かつては(十数年前だったか)上池袋と池袋本町を行き来できる跨線橋が架かっていたが、老朽化で解体撤去された。

余談だが、幼少期、何回通ったことかわからないくらいマンモスプールには行っていて、冬になるとスケートのリンクになっていた。夏季冬季年間を通じてちびっ子にはなくてはならない施設であり、去年閉園したとしまえんもそのような存在だった。(木馬の会に入っていた。)
マンモスプールのプールに面して売店があり、何本も茹でられた1つ50円の小さめのフランクフルトが大好物だった。
アイススケートのシューズは堅くてとても臭かったのも覚えている。
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【関連記事】
■谷端川のお多福弁天(板橋区板橋1丁目)
■谷端川 高田道沿い<子易神社境内 田楽橋の橋桁(板橋区板橋2丁目)>
■宮仲(巣鴨村) 谷端川 上池袋支流(瓢箪池支流) 滝と呼ばれた洗い場跡 瓢箪池跡(山玉(やまたま)の池)
■谷端川と上池袋支流(瓢箪池支流)の落ち合い地点にある防災用ポンプ
■谷端川流域 大塚 折戸通り入口付近の湧き水と洗い場

■池袋富士塚と<谷端川>舌状台地に広がる池袋西貝塚(氷川神社裏貝塚)・池袋東貝塚
■池袋東貝塚遺跡

■谷端川と池袋の名の由来 古道 高田道
■池袋 四面塔尊 池袋村 高田道<四ツ辻付近の追はぎや辻斬> 辻斬残骸 無縁仏の供養 
■豊島区東池袋 六つ又 子育地蔵尊
■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)

■下板橋駅ミニ写真展 東武東上線特急とマンモスプール
■醤油電車(東武東上線)

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2021 5/20 『北区西ヶ原 王子脳病院跡地の飛鳥中学校 西ヶ原遺跡群(西ヶ原貝塚) 住宅地にも広範囲に分布する縄文時代の貝殻 中里貝塚』

1901年、現北区西ヶ原に設立された王子脳病院は、戦前の日本において最も先進的な精神病院であったという。
※戦前の私立精神病院が遺した記録たち―王子脳病院・小峰病院・小峰研究所― /清水 ふさ子(慶応義塾大学)link
武蔵野台地(上野台地)の崖線の下に鉄道が通ったが、渋沢栄一も屋敷を構えた環境の良い一等地ゆえに、療養するには良い環境だったのだろうか。

現在リノベーション改修工事中の飛鳥中学校は、太平洋戦争の空襲で全焼してしまった王子脳病院の跡地に建っていて、敷地東側約半分が東京都の史跡として指定されている西ヶ原遺跡群(貝塚)がある。
今回の工事に際して、埋蔵文化財の調査を行なったところ、鳳凰館(武道場)周辺から約4500年前の縄文時代の貝層(西ヶ原貝塚)が出土したという。東京都を代表するとても貴重な貝塚のひとつとして名が知られている。
貝塚の分布は広く、住宅地や飛鳥中学校の南にある昌林禅寺まで広がっていて、当時は目の前に古石神井川(石神井川の河川争奪後の谷田川でもある)が流れていた。逆の北側はかの有名な国指定史跡の中里貝塚が広がっている。
住宅地にも貝塚が広がっていることがよく分かるのが、解体工事などをした時に、敷地から貝がたくさん出土する。
先日、飛鳥中学校前を通りがかったところ、近くに掘り起こされて更地になった土地があり、満べんなく貝が姿を現して散らばっていた。ヤマトシジミやアサリ、ハマグリだろう。
これも西ヶ原貝塚遺跡のうちの一部で、住宅街に広がっていてあちこちの土地からも貝をはじめ、下記の主な出土品が見つかると思われる。
この地域に住む人は、開発行為をする時は他地域よりも大変だろう。

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※ 西ヶ原遺跡群 所在地:北区 西ヶ原一丁目  西ヶ原二丁目  西ヶ原三丁目  上中里一丁目  王子一丁目

※ 主な遺構/概要:[縄文時代]住居址 土坑 ピット群 土壙墓 墓壙 貝塚 [弥生時代]住居址 土坑 溝址 方形周溝墓 環濠 [弥生時代][古墳時代]方形周溝墓 [古墳時代]住居址 土坑 溝址 古墳 [奈良時代][平安時代]住居址 掘立柱建物址 ピット 土坑 溝 正倉大溝 溝址 [中世][近世]溝址 土坑 [近世]建物 ピット土坑 地下式土坑 井戸 溝 区画溝 道路 土壙墓群 柵列 集石 特殊埋葬遺構

※ 主な出土品:掻器 彫器 縄文土器 打斧 磨斧 石鏃 抉入石器 石器 ヤス状鹿角製品 耳飾 土板 埋葬人骨 動物遺存体 石皿 磨石 凹石 敲石 石核 大珠 骨角器 弥生土器 石皿 磨石 敲石 滑石製玉 土師器 須恵器 支脚 砥石 紡錘車 土錘 羽口 土玉 鉄製品 陶磁器類 土製品 鉄製品 銭貨 鳥獣魚骨 貝 剥片石器
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【関連記事】
■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■北区西ヶ原 西ヶ原遺跡(西ヶ原<西ケ原>貝塚)

■北区 中里遺跡出土丸木舟
■北区岸町 上郷用水(石神井用水)に架かる岩槻街道の三本杉橋下から出土した縄文時代の丸木舟と中里遺跡出土丸木舟

■霜降銀座 古石神井川と谷田川 田端八幡神社 谷田川に架かっていた石橋
■旧石神井川(古石神井川)の跡 飛鳥山・滝野川付近
■古石神井川の流路 逆川
■古石神井川の支流 谷戸川(谷田川・愛染川)源流の長池跡
■豊島区駒込(染井)染井吉野 植木屋・庭師 伊藤伊兵衛家の菩提寺 西福寺への道標<大師道>と染井の泉 谷田川(谷戸川)の源泉の長池
■愛染川と枇杷橋(合染橋)跡
■谷田川に架かっていた橋の親柱(芥川龍之介墓所 慈眼寺)
■不忍池(古石神井川、谷田川・愛染川)

■北区西ヶ原 鎌倉道につながる熊野坂 豊島郡衙へ
■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)

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2021 5/18 『北区神谷三丁目 自性院前の庚申塔(道標)』

一番上の黒丸部分に真言宗智山派の自性院がある。
創建は1589年とされており、本尊は不動明王で水害を防ぐご利益があるという。
前の記事、甚平堀跡でも触れているが、この自性院のすぐ南は江頭(井頭=水)と呼ばれていて、自噴泉があったことが知られている。
低地であり、東側には隅田川(入間川)も流れている立地ゆえに水害も多く遭ったことだろうから、不動明王が本尊なのであろう。
この自性院の門前に庚申塔(道標<文久三年/一八六三年>)が建っていて、右側に左 王子みち・右 下むら、左側に右十條道と刻まれている。右十條道、西へ進むと低地を台地をむすぶ<馬坂>がある。(地図の赤丸部分)その先、姥ヶ橋で王子稲荷道と交差する。
※下むらは志茂

一番下と二枚目、旧馬坂は階段になって特に案内板は立てられていなく、どことなく心寂しい雰囲気を感じる。
かつてこの馬坂の下には湧水があり、荒沢不動尊が祀られていたが、現在は少し南下した場所に移動している。

一番下:北区の坂より引用

北区のサイトより引用ーーーーーーーー
馬坂

昔は低地の村村から板橋宿(いたばしじゅく)へ通じる急坂で、坂下に荒沢不動の池があった。
この道は姥ヶ橋地蔵尊(うばがばしじぞうそん)の付近で王子へ通じる稲荷道と交差し、御成(おなり)橋を経て板橋宿に至る。
坂の名は豊島村馬場(ばんば)の「馬」に関係があるように思われるが、坂の地形が馬の背に似ていたからともいう。
以前は農家の耕地への往復にも役立っていたが、付近の都市化と環状七号線の開設で役割も形状も著しく変化してしまった。
旧道は平和橋手前を右に下っていた。
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『生きている江戸の歴史 東京の坂道 石川悌二』より引用ーーーー
馬坂(うまざか)

中十条三丁目と四丁目に境を平和橋から南西に上る坂であるが、もとの馬坂は平和橋の南詰から東の方へ下る坂道で、急坂なので荷馬が立ち往生したために馬坂の名がおこったという。
「東京府村誌」は上十条村に「馬坂 本村の中央にあり、東に下る。長さ四十三間広さ二間三尺、坂勢急なり」と記している。
往古このあたりは十条峠とよばれて、「新編武蔵風土記稿」は「十条村は古へ王子村と通じて一村なりしに、豊島左衛門清光、紀州権現堂を王子に祝ひ祀る時、彼地に王子村、十条峠等あるを以て、其名を負わせて各村となせしと言ひ伝ふ。」と記している。
坂一帯は江戸時代は一面の田畑で、将軍家の狩場の一つでもあった。
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■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚

■武蔵野台地東部(十条台地) 北区中十条3丁目 荒澤不動(荒沢不動)の湧水と馬坂

■王子七滝 見晴の滝跡の湧水と芝坂

■北区中十条(東十条) 地蔵坂
■北区中十条(東十条駅南口前) 地蔵坂の子育地蔵尊と庚申塔・道標<練馬道(豊島練馬道)>
■北区中十条3(東十条駅北口) 石神井坂
■北区岸町 三平坂

■王子七滝 消滅した王子 稲荷の滝後の“稲荷の崖線湧水”と王子稲荷裏古墳の狐穴(横穴墓)<十条台遺跡群>
■王子稲荷の坂 旧中山道と王子稲荷道の分岐にあった“王子大明神 常夜灯”(2020年8月29日写真追加)
■王子七滝 王子稲荷神社 狐石像が置かれた滝

■十条板橋道と王子稲荷道の追分に置かれた(仮称)稲付の関所跡と稲付川に架かる赤羽根火薬庫道の橋跡
■北区上十条 姥ヶ橋の延命地蔵尊に添えてある小さな角柱型文字庚申塔道標

■石神井川の大橋たもと 不動明王座像と敷石供養塔 安全の祈願〜臨済宗大徳寺派 廣徳寺

■江古田川 不動橋と垢離取不動尊

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