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2019 7/29 『南池袋公園』

30年前からよく行く南池袋公園。
土曜の晩にはバスケットやスケートボードをしたり、たんにたむろってワイワイしたり、デートでも使ったり....浪人時代、バイク通学で代々木ゼミナールに通っていて、この公園の歩道に駐車。
大学生の頃は園内で花見をしたり、社会人になっては旅行の集合場所で使ったりと思い入れのある公園。
当時の公園は暗くて汚く、浮浪者の寝床としても機能していた。汚いトイレに入った恋人たちはなかなか出てこないことも多々。
そんなこの公園の芝生の下、戦争で亡くなった多くの方の収容場所で埋葬されていたという歴史もある。毎年地域の方々によって供養されている。
今では併設されたショップでビールや肉を楽しむこともできて、幸せな多くの家族づれや恋人たちで賑わっている。
園内には戦争のことを綴った案内板もあるが、ほとんどの方が素通り。
平穏なこの環境の元には、かつて犠牲になった方々の思いもあることを知って欲しいと思う。

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2019 7/23 『独り言』

去年は6月に梅雨があけて、Facebookの思い出によると、ちょうど去年の今頃は都立公園のBBQ広場で36℃だったと....アスファルトのところだと40℃ちかくか越えていたことだろう。
汗だくでベロンベロンになりながらソーセージや肉などをびちゃびちゃになりながら食べて、なかなかハードだった....つい最近のことに思う。
その日はスケート仲間の親友の命日だった。
さて、長引く梅雨で比較的涼しい日々で、身体がとて楽で、今年だけは嬉しい限り....でも、今週には梅雨明けだ。
暑い暑い夏がやって来る。

この雨が続く中、あまり走る気にもならず、ゆっくりと過ごしている。
この3つの写真は4−5−6月くらいのもの。
YAMADAのポイントがまぁまぁあるけど、自分が欲しいものが店頭にほとんどないので、1年以上放置しっぱなし。
GPSのランニングウォッチが去年の12月に壊れて以来、携帯でしかレコードしていなくて、YAMADAでGPSのランニングウォッチを買おうとも、ポラールとエプソンしか取り扱いがなく、店員さんいわくガーミンの取り扱いの問い合わせが多いけど、今後もないという。さんざん迷って、エプソンにしようと思って寄ったら、エプソンのGPSのランニングウォッチの取り扱いはもう終了したとのことで....あんなに大きい本店なのに、どういうことだよと思って。YAMADAではあまりGPSのランニングウオッチは需要がないのでしょう。
唯一自分にとって有意義だったのはJINSでポイントが使えること。
妻に眼鏡をあげた。家電だけではないのが良いところだろう。
と、久しぶりにコンタクトレンズを新調したら、まぁ遠くは良く見えるけども、手元が滲む....ゴルフ場などでもリーディンググラスが置いてあるって聞くし、近眼で補正したところにまた近くが見えるようにリーディンググラスで補正をかけないとならないという、これがとても不便。
スポーツする時だけだったら快適だけど。。
検索したら補正してさらに補正する人もとても多いんですね。聞いてたとおりだ。
近くが見えづらいよりも、遠くが見えづらい方が、劇的に生活をしやすいように思うがどうだろうか。
レーシックとかしなくて良かったとも思うし、近視で良かったとも、なんとも変なことを思う今日この頃。
今かけている眼鏡は0.8くらいかせげていて、手元も遠くもあまり不便なく見えるが、めちゃくちゃちいさい数ポイントの文字だと、眼鏡を外すとえらくハッキリ見える....昔も今も眼鏡をずらして携帯などを見ている自分よりも年上のおじさんの気持ちがわかった今日この頃.....棟方志功が彫刻しているさまのような至近距離....ぺろぺろ指をなめてビニル袋や新聞や本をめくる先輩方と同じ行為。

最近はあまり走る気にならないので、かなり遅いペースでゆっくりジョグ。
ランニングを初めてちょうど10年となった。
実に早い。
そして、メシも酒も実に美味しい。
....ランニングシューズも増えたから、処分していこう。
うちは靴が多いし。

梅雨明け時季は大雨が多く、災害につながることも多い。
身体もまだ暑さに慣れていない。
水分補給もしっかりと。
えらい暑い夏はかんべん。
ご自愛ください。

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2019 7/17 『もつっ子』

永井食堂のもつっ子を戴いた。
もつ煮込みはほとんど食べないけど、ココのは独特の臭いもしなくて、とても美味しかった。
ちょっとびっくりで。
もつとこんにゃくだけなので、大根や人参、豆腐なんかも入れて煮込んでも良いかも。

話が飛ぶが、はじめてハツや砂肝を食べたのは12歳の頃だった。
前に住んでいた集合住宅の隣の一階に焼き鳥屋が入った。
そこではじめて食べたけど、あまりおいしいとは思わなかった。
で、大将にすすめられたのが、スズメの丸焼きだった。
ぱくっと食べたらガリガリしてて、これもそれほど美味しいものではなかった。
可愛い顔して、まぁ喧嘩したらえらい格闘になるスズメ....今はどうなんだろう、食べられるお店はあるのだろうか?
大将は、「将来は銀座にお店を出すのが夢なんだよね〜」って言ってて、幼いながらも、すごい目標だなぁと思ったもんです。
今、大将はどうしているのかな....奥様と2人でやられていたけど、奥様も元気かなと、ホルモン系を食べると、ふと思いだすんです。
あのタレ....今でも他では食べたことがない味で、細かく刻んだ何か色んなものが絡んでいて、独特でおいしかったな。

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2019 7/16 『板橋区・北区 御代の台』

地図の赤丸部分とその周辺は御代の台(みよのだい)と呼ばれている。
地図の赤丸部分は崖が急なので、崖が黒い色で表現されている。
写真を見るとよくわかる通りにかなりの高低差は約13m。
赤丸の下部分は山之上(やまのうえ)とかつて呼ばれていて、埼京線はこの山之上と御代の台を切り通して線路を敷き、石神井川を越えている。
この台地は見晴らしが良く、天文ショウがある時は方角によっては楽しむことが出来るという。
今でもある程度遠くを見通せるので、かつては相当広く見渡せていたことだろう。
埼京線の線路を越えて少し先に、【過去記事】北区滝野川 狐塚の坂があり、おもしろい....というか、狐にまつわる少し因縁めいた話がある。
北区王子は狐の町と言われて、大事に祀られているように、滝野川地区から王子地区にかけては、かつてたくさんの狐がいたのだろう。
人の手が入り込み憎い、この急な崖にもいくつもの狐が住む穴があったのだろうか。
神様につかえる狐は、必要な時に人々の中にスッと入り込んで役目を果たしてしてのだろう。

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2019 7/12 『戸田橋の親柱と武蔵野台地の崖線』

案内板から引用-----------------------------------

これは、荒川に架かっていた三代目戸田橋の東京都側にあった親柱です。
江戸時代の中山道は、荒川を渡し船で渡っていました。
橋が架けられたのは、明治八年(一八七五)、長さ一三五m、幅四・二mの木製で、はじめは通行料をとる有料橋でした。
二代目は、路面を土で固めた木製土橋で、大正元年(一九一二)の完成です。
大正一二年の関東大震災後、都市化する東京の北の玄関口として架けられたのが三代目戸田橋です。
昭和七年(一九三二)に完成したこの橋は、長さ五四五m、幅一一mで、当時の橋梁技術の粋を集めた近代的なトラス構造の鉄橋でした。
昭和二六年からは橋のたもとで納涼花火大会が開催されるようになり、同三九年の東京オリンピックでは、聖火ランナーがこの橋を渡るなど、板橋区や東京都の発展を見守りつづけた橋でした。
昭和五三年、現在の四代目戸田橋が完成し、三代目は解体されましたが、橋の顔である親柱はこの地に保存されることとなりました。
埼玉県側の親柱は、戸田市立親水公園に保存されています。
平成二十三年度に板橋区登録文化財(歴史資料)となりました。
平成九年十月 板橋区教育委員会
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板橋区の武蔵野台地の端にある小豆沢公園内に、この三代目戸田橋の親柱が保存されている。
とても立派な親柱は出窓のようなものがあるので、常夜灯のような役目もあったのだろうか。
写真1番下と2枚目、これが上野駅の隣から始まる武蔵野台地の崖線(がいせん)で、東北本線などがこの崖線に沿って走っていることは車窓からも分るだろう。
崖線は補強されて、際に住宅が建っているが少し怖く感じる。
台地の下はかつては海で、この台地に波が当り砕けてこの崖をつくったと、かつての風景を想像してみるのもいいものです。
(写真は5年くらい前のもの)

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2019 7/8 『板橋区高島平 前谷津川“六の橋”のグラフィック<危険です!スリルとスピード、ルール無視>』

板橋区高島平、首都高五号線の脚に大昔からある有名なグラフィック。
危険です!スリルとスピード、ルール無視....もう30年以上前からあるんではないかな。高島平警察署・高島平交通安全協会トラック部会 公認
時代遅れのような登場人物にすごく違和感を憶えて、スケートボードで通りすぎたり、トライアルバイクで飛ばしてよく眺めていた。
この先はネズミ取りをやっていることは地元では有名で、空いている道だから、どうしてもアクセルを開けがちになるわけで。
もう30年以上前だけど、荒くれていた高島平と川越街道沿い....暴走族もたくさんいた。
盗んだであろう直管のCBX400Fを探し出せ!という2つ上の先輩の命令でもって、何十人もの同級生総でで、高島平や西台・徳丸を探したことも懐かしい。
毎週末の夜、テレビの音も聞こえないほどの大コール....それを追いかける本官たち。先輩のあとを継ぐ自分たちの世代や、後輩もほぼいなかったのではないかと。いわゆるヤンキーというスタイルが、時代と共に変わっていった過渡期だったのではないかと。
昔っからバイクは好きだったけど、自分とはスタイルが違うから、そういうデザインのバイクはあまり興味がなかったし、族ステッカーを買わなければならない押し売り状況もよくあったけど、いつも断っていた。「普通は買うんだけどな...困っちゃうんだよオレが」といわれたけど、母からもらった大切なお小遣いを好きではないデザインの¥5000のもするステッカーには、その行き先には提供することが出来なかった。
母が懸命に稼いでいくれたお金、お小遣い.....母にも同級生にもごめんね、という妙な気持ちになったもので。この時点で囲まれて、いわゆるリンチ的なことになるんだが、自分の場合はなぜか何もなかった。手を出しにくい相手だったのだろう。
その当時はタイマン大会っていうものが流行っていて、20人以上の不良に囲まれて、じゃんけんで負けたか勝ったか忘れたが、嫌な殴り合いをしなければならなかった。
意味が分からない出来事、それも地域性や時代だったのだろうか。

そんな何とも生きていて実感がわかない、糠に釘みたいな状態の13歳を過し、当時の偏差値は36だった。先生の面談では定時制高校も行けない状態だと飽きられていたが、出来ない自分に嫌気がさし、優秀な同級生の首根っこを捕まえて、さっぱりわからなかった連立方程式などを軟禁状態で無理やり教えてもらった。 逆いじめとも言えるのだろうか、どうだろう。今でもごめんね、ありがとうという感謝しかない。
その頃に出逢ったのがスケートボードで、勉学にもやっと感触がつかめるようになり、普通の都立高校に入学が出来て、これまたおもしろい気のおけない仲間ができ、今でも強い繋がりが続いている。
そんないつものスケートボードの親友も世を去り、いつもの仲間の友も先日他界した。
早くに逝った友も多い。
これからもしっかりとたくさんの経験をしたいと改めて思っている。

直管にしたトライアルバイクってのも、より遅くてそれはそれで楽しかったのを、このグラフィツクを見て思いだすんです。

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2019 7/4 『警報』

九州の大雨が早く止むことを願っている。
熊本にいとこが住んでいることも重なって。

さて、←この画像は2018年8月27日の20時頃の天気。
記憶に残っている方も多いと思うが、都内では落雷が連発で、こんなにも多くの雷鳴を聞いたことがなかった。初めてのこと。
掃出し窓を開けていたのだが、直上の空が光り続けて雷が落ちまくっているので、いつうちや近くに雷が落ちて、建物やとんで流れてきた雷に当ってしまうんじゃないかなと、とても怖い思いをしていた。
なので、掃出し窓を閉めに行くことさえもためらって、時の流れを待つしかなかった。
近所に雷が落ちまくっていた.....こんな経験は初めてだった。

都内は真っ赤っか。
考えられないほどの落雷が街を襲っているのがよく分かる。
紫、赤、桃色のひどい雨も。

自分が子供の頃の世界人口は45億人だった。
今は75億人だという。
子供の頃と今では天候も変わってしまった。
これからは水と食料の不足もさらに加速していくことだろう。
便利になった代わりに多くのことも失いつつあるのだろう。
昔からあるものも大切に守っていければいいと思う。

被害が拡大しないことを願って。

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2019 7/3 『豊島区 千川上水公園と千川上水分配堰碑 千川上水の放流(谷端川下水道幹線)』

明治通りと旧中山道の交差点は“掘割”(地面を掘ってつくった水路)という名称になっていて、そばに千川上水公園という区内最古の公園がある。
ここはかつて千川上水沈殿池というろ過機能があり、明治時代にはこの池から、北区・荒川区・台東区内の二十三ヶ村の灌漑用水、王子近辺の紡績工場・抄紙会社・大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水として利用された。
地図の青四角部分がその公園で、向いの黒丸にこの碑があり、横の道がかつて流れていた千川上水の水路で、現在は暗渠で生活道路となっている。
沈殿池は1973年頃までは、埋没されずに露出していたと写真が語っている。
老朽化で危険や保存の意味で隠蔽したのだろう。
整備して展示できたら良いのになと思うが。
草がぼうぼうに繁ったフェンス内にバルブがあり、草の隙間から辛うじてその姿を見ることができるのだが、もう少し手入れが出来ないのであろうか....歴史的に価値のあるものなんだが。
案内板のアップはこちら
隣は高等学校で部活の生徒の声が響き、トイレ休憩や一服休憩している方も多く、併設されている公衆便所は何気に便利だったりするが、見学者を見かけることはあまりない。

写真一番下、石神井川に架かるJR埼京線の鉄橋のわきに大きな開口があり、結構水が(下水)が流れ落ちているが、かつては千川上水の放流の計画もあったようだ。
しかし、埋没している樋が板橋区の一部で破損していたり、逆勾配になっていたりで、清流復活事業は頓挫したという。
地図の青い線が推定だが、このように流れていたのではないかと。
そして、すぐそばを流れていた谷端川(暗渠となり下水幹線になった)は、板橋駅から下流は早々に暗渠となり、板橋駅そばで付け替えられ、石神井川に合流させていたそうで、この地図のようなラインで流されていたのではないかと。(線路沿い)
地図の左上にも青いラインがあるが、これも谷端川の排水路。(現在は下水幹線)

地図からもわかるが、街道(旧中山道)と千川上水、谷端川と石神井川に囲まれた宿場町はなんとも良い雰囲気だったのではないだろうか。

過去記事
千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡

千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様

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