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2017 11/30 『東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡』

--------------案内板から引用
区立加賀公園のこの場所から、隣接する野口研究所の構内にかけ、道路のように見えているのは、戦前、この一帯(現在の加賀一・二丁目)にあった板橋火薬製造所内を通る電気軌道(トロッコ)線路敷跡です。
軌道は、北区十条の銃包製造所や王子にあった分工場とも結ばれており、製造所内外の物資や人の運搬に大きな役割を果たしていました。
現在、埼京線にかかる十条台橋の南側の線路脇にあるコンクリートの土台は、明治38年(1905)に軌道敷設時に建設された跨線橋跡です。
その後、明治40年度には、製造所内の火薬研究所(現:加賀公園・野口研究所付近)や本部(現:東板橋体育館付近)、原料倉庫(現:金沢小学校付近)を結ぶために軌道が延伸しています。
以降も軌道網の整備は進められ、大正年(1923)の構内図によれば、ほとんどの建物が軌道によって結ばれており、さらには清水町から北区西が丘にかけてあった兵器支廠(後の補給廠)にも延びていました。
なお、板橋火薬製造所は昭和15年(1940)に東京陸軍第二造兵廠(二造)に改組されています。
また、この軌道は幅が750mmの珍しいもので、そこを走る電気機関車は、その車体の形状から「だるま電車」とも、走りながら鐘を鳴らしたことから「チンチン電車」とも呼ばれていました。
--------------
石神井川をはさんで、かつて板橋区加賀や北区十条付近には軍事工場がいくつかあったために、トロッコ電車が工場を結んで、あちこち通っていたという。赤羽や王子や十条で、微妙に幅員が広い道路はトロッコ電車の線路跡であったりする。
過去記事 陸軍板橋火薬製造所跡 加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜
で書いたが、国指定史跡として公園を整備するとのことで、このトロッコ電車の軌道も再現されるようだ。
※北区公式チャンネルYoutube<北区鉄道物語3〜かつての鉄道風景をたどる〜>で上記のトンネルや築堤、線路跡などが見られます。

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2017 11/28 『加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚(平尾一里塚)跡』

加賀前田家下屋敷跡は地図一枚目のピンク部分で、JR板橋駅付近から仲宿の先までと22万坪という広大な屋敷だったという。
石神井川の金沢橋横にある加賀公園の小高い山には史跡碑と案内板がある。
当時の築山をそのまま整備して公園にしていて、桜の季節は暖かい時季にはたくさんの人々が訪れるスポットにもなっている。
地図二枚目、屋敷内には石神井川の水を引いた大池があったという。

------------------------ 案内板とこちらから引用

加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜
江戸時代に成立した参勤交代 制度により、大都市江戸には日本各地から多くの大名が集まり、その家族や藩士、奉公人などとともに日常生活を送っていました。
そして、各大名に対しては、将軍より屋敷地が下賜されました。
延宝八年(一六八〇)の段階で、加賀藩前田家 は本郷邸(現:東京大学周辺)を上屋敷に、駒込邸を中屋敷(現:本駒込六丁目周辺)に、板橋宿 に面する平尾邸(現:加賀一・ニ丁目、板橋三・四丁目周辺)を下屋敷に定めています。
上屋敷は藩主と家族が住む公邸に、中屋敷は隠居した藩主などの住居に利用されました。
下屋敷の平尾邸は、約ニ一万八千坪に及ぶ広大な敷地があり、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家を含めて、江戸に所在する大名屋敷では最大の広さを持つ屋敷でした。
邸内には石神井川が流れ、その水流と千川用水の配水を利用した大池が設けられ、築山や立石、滝などが各所に配された池泉回遊式庭園が展開していました。
その規模は本国金沢にある有名な大名庭園、兼六園の約七倍の広さがあります。
平尾邸は、通常は藩主と家族のための別荘として使われており、かれらが保養や散策に訪れ、時には鷹狩や花火などが行われました。
また、幕末には園遊会も催され、その席に招かれた松平容保 をはじめとする会津藩の人びとは、邸内の様子を「まるで桃源郷のようだ」と表現しています。
なお、当邸が中山道板橋宿に隣接していることから、参勤交代時に前田家の藩主が休息をとり、江戸へ出入りする際の装束替えの場としても利用されました。
また、家族や家臣による送迎の場にもなっていました。
邸内には与力を筆頭に五〇人ほどの詰人がおり、その大半は定番足軽と呼ばれ、ここを管理していました。
彼らは代々平尾邸に在番し、板橋宿や蓮沼村をはじめとする板橋区周辺地域の名主などの娘と婚姻関係を結ぶ人もいました。
なかには板橋宿の寺子屋の師匠として、地域の教育にあたるなど、地元板橋との密接な関わりが見られます。
幕末になると、加賀藩も世情の影響を受け、邸内オランダ式ゲベール銃を使った調練を実施しています。
また、石神井川の水流を利用して大砲の製造を行っています。
明治期以降には、平尾邸の大半は、同じく石神井川の水流を利用し火薬を製造する、板橋火薬製造所(後の東京第二陸軍造兵廠)となります。
なお、現在、平尾邸の面影は、わずかにここ加賀公園に残る築山の一部だけとなっています。
平成二十一年三月
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白黒の写真は、都立北園高等学校の教師だった奥山正氏が書かれた“加賀藩江戸下屋敷”から引用させていただきました。
屋敷の境界線がどこだったかを調べられていて、当時の下屋敷内のこともとてもよくわかる。
下屋敷の表御門通りは、現 東京法務局板橋出張所の前面道路だという。
一番下の写真とその上の地図、旧中山道は本郷追分(旧中山道と本郷通りの交差点)に最初の一里塚があり、次が現 板橋駅付近にあったといい、公園内の案内板の古地図とこの本によると、下屋敷の裏御門通りと旧中山道の交差点に板橋一里塚があったそうだ。
一里塚は残念ながら現存していないが、かつてあった場所に、この写真にも写っている八百屋さんは、今でも営業をされている。(2019年10/8加筆 現在は撤退)
一里塚の前には旧中山道がとおり、その横には盛り土された千川上水が流れていたので、休憩するには心地が良かったのではないかと思う。
そして、千川上水の盛り土を下ると、新選組隊士供養塔があり、近藤勇はこの一里塚付近で官軍に斬首処刑されたという。
首は京都に運ばれさらされて、胴体はこの付近に埋められて、いつしか親族によって掘出されて、供養されたという。

近藤勇と新選組隊士供養塔
加賀藩中屋敷跡 旧駕籠町
現存する都内の一里塚
東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的
東京第一・第二陸軍造兵廠電気鉄道の遺構 跨線橋の台座
東京第二陸軍造兵廠 加賀公園 電気軌道(トロッコ)線路敷跡
東京第一陸軍造兵廠 陸軍用地の標柱(石標)
東京第一陸軍造兵廠 軍用鉄道軽便線(ちんちん電車)トンネル跡

千川上水跡(豊島区立千川親水公園) 桜並木と五基の庚申塔
分水嶺、千川上水調節池跡

千川上水 喜内古屋水車跡
千川上水 水神様

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2017 11/27 『東京第二陸軍造兵廠 板橋火薬製造所跡 弾道検査管(爆速測定管)の標的』

先日、板橋区加賀にある陸軍板橋火薬製造所跡が国指定史跡に認定され、史跡公園として整備されるという。(地図の赤丸部分)
この場所は、1853年にペリーが浦賀に来航したことを契機に西洋式の大砲製造が行なわれていたという記録もあるそうだ。
2024年度のグランドオープンを目指し、東京オリンピック・パラリンピック開催の2020年夏頃には、一部施設を先行オープンするという。

---------------------案内板から引用
弾道検査管(爆速測定管)の標的
区立加賀公園にある小高い山は、加賀藩前田家の江戸下屋敷内の庭園にあった築山の跡です。
この築山の中腹に造られたコンクリート製の構築物は、現在隣接している野口研究所内からのびる弾道検査管(爆速測定管)の標的の跡です。
戦前、野口研究所を含めたこの場所には、板橋火薬製造所(昭和15年以降は東京第二陸軍造兵廠=二造)内におかれた火薬研究所があり、弾薬の性能実験などが行なわれていました。今も野口研究所の構内には、火薬研究所時代に使われていた試薬用火薬貯蔵庫や防爆壁などの構造物が残されています。
その中の一つに、長さが十数メートル、内径686mmのコンクリート製の弾道検査管の一部があります。
これは、技術者の間ではトンネル射場と呼ばれているもので、火薬(発車薬)の種類や量を変えて、弾丸の速度などを測定・観測する装置であり、戦前の二造構内の図面からは、弾丸がこの築山の標的に向って撃ち込まれていたことがわかります。
戦後、旭化成などの創業者である野口遵が設立した野口研究所が当地に移転してきましたが、いまなお構内には、戦前に使用していた観測装置や標的などが現存しています。このような例は全国的に見ても珍しく、軍工場時代の活動の一端を窺うことができる貴重な資料となっています。
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そんなことで、今まで非公開だったのだが、工事するにあたって、弾道検査管が露出していた。工事フェンスの隙間から覗くことができる。
標的は普通に見ることができ、トロッコ電車が走っていた跡地も見ることができる。
ちなみに、この野口研究所跡のそばには金沢橋が架けられている。由来は加賀藩下屋敷があったことから。花見の時季には桜が見事なところなので、石神井川とも一体に計画されるようで、みどころのある史跡公園となるだろう。

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2017 11/24 『YouTube 作ってから1年半』

ほとんど表に書いていないので、アクセスしてくる方は検索して来られているのだろう。
今年に入ってからはまだ1回しかスケートが出来ていないので、アップデートもほぼ出来ていない。
半年すべらないと、身体の動きがほぼ振り出し戻るので、オーリー(ジャンプ)も低いし、ふらつく....一年半くらいだっただろうか、一所懸命に練習してきたんだけど、しょうがない。ランニング以外、自分の時間があまりとれない状況なので。
乗れてきたなぁ〜と思うようになるには、最低週に一回は乗りたいところ。
先輩スケーターとも話しててそうみたいで。
12月中には一回くらいスケートできればいいなと思うが....ムリかな。

You Tube AND SKATEBOARDING

【過去記事】
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■オールドスクール #2
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■あぶないランプ
■クルーザー
■メイク
■思いでの撤去
■オールドスクール #3
■あぶないランプその2
■中年スケーター
■JT -大切なひととき-
■スケートボード道
■スケート祓い
■28年前のクルーザー
■レールバー
■やっと乗れてきた、サポートタイツ効果
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■クルーズにもいいデッキ
■中年スケーターのブルース
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■#14
■HILAQUE
■VANS 50 YEARS Kickflip
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■SEIBU SPORTS SKATEBOARDING TEAM
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■東京オリンピック 新種目スケートボードと日本人のDNA
■池袋スケートパーク 試験運用

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2017 11/22 『JR貨物北王子線と廃線跡』

北区王子5丁目にかつてJR貨物の北王子駅があった。
貨車が写っている写真は2004年4月のもの。
初めてこの路線を知ったのは18歳頃だったと思う。
北区岸町に住んでいた友にラーメン屋に行く途中にアテンドされたんだったような気が。
彼が言ってて自分が憶えているのは、彼の家の近くにトロッコ電車が走っていたとか、この貨物線とか比較的地域史をよく知っているなぁと思ったのはだいぶ経ったこの5−6年だろうか。軍の施設が多くあったためにトロッコ電車などがあちこちに通っていたと知った。
鉄道に詳しい方はご存知であろうが、この貨物線から分岐して、現 豊島五丁目団地にかってあった現 日産化学工業へと続いていたという。そんなことから、豊島五丁目に住んでいた友の家は日産スカイラインに乗っていたんだと合点。

そんな30年近く前のことはおいといて....
この北王子線は数年前に廃線になり、ターミナルは大規模マンションへと変化している。かつてたまに踏切に捕まって、通りすぎたり出入りしたりしていた貨車と力強い機関車を懐かしく思った。
最近久しぶりにこの貨物線跡を通ってみたら、線路がオブジェとして残されていた。線路が続く先のタイルも線路をイメージしている。

【関連記事】
■JR貨物北王子線と廃線跡
■JR貨物北王子線と廃線跡と映像
■JR貨物北王子線の廃線跡 線路撤去工事
■東十条駅 下十条運転区検修庫解体

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2017 11/21 『渋谷川 庚申橋供養碑』

一番上の地図の赤丸1、渋谷川に架かる庚申橋の袂に庚申橋供養碑がある。
10年前、恵比寿で働いていた時に、この付近をバイクでよく移動していた時から気になっていた庚申塔....先日久しぶりに近くを通った時によく見てみたところ、びっちりと人の名が刻まれていた。
広範囲に渡る多くの人々の想いが入っていた。

----------------------- 案内板から引用
この橋供養碑は、寛政11年(1799)にたてられた数少ない珍しいものです。
上部の青面金剛像のほかに、四面すべてに、橋講中世話役や万人講及び、個人の名が多数刻まれています。
それらの人びとの地域をみますと、渋谷はもとより麹町、赤坂、芝、麻布、四谷、大久保、池袋。市ヶ谷方面から、目黒、中野、世田谷、荻窪といった広い範囲にわたっています。
こうしたことからみますと、庚申橋を通る道は、江戸時代には重要な交通路であったことがわかります。
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上から2枚目、古地図は1896年〜1909年の物で、赤丸のところに庚申橋供養碑がある。
黄色い線が庚申橋供養碑が建つ前面道路で、東へは室泉寺へと続き、西へは鎌倉街道(緑色の線)へ合流することから、案内板に書いてある通りに交通上重要な道だったことがわかる。将軍の鷹狩の際には、主要な道は通行禁止となる為に、東西へ抜ける裏道として重宝されたそうだ。また、当時の渋谷は江戸誤府内の堺にあたるために、江戸市中と郊外農村の交易路としても栄えていたことがわかる。
庚申橋供養碑がある渋谷川を渡り、道は室泉寺に続いている。
地域の方々に今でも大切にされている。

室泉寺の縁起
室泉寺の創建年代は不詳ですが、当初浄土真宗西本願寺派の寺院として芝金杉にあったものを、松平外記忠益が抱屋敷を和泉神鳳寺中興快圓比丘に寄附した際に、寺蹟を譲り受け、真言宗に改め寶泉寺と号して和泉神鳳寺中興快圓比丘の宿寺としたといいます。

【関連記事】
■渋谷区恵比寿西二丁目11番7号 庚申塔
■金王八幡宮 <澁谷城 砦の石>渋谷川支流 黒鍬谷の湧水
■鎌倉街道 中道 並木橋
■猿楽古代住居跡(代官山)
■渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道

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2017 11/16 『鎌倉街道 中道 並木橋』

渋谷の明治通りの並木橋交差点、渋谷川に架かる並木橋の袂に鎌倉街道についての案内板が設置されている。

--------------案内板から引用
この右手の細い道を、古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けた軍道のひとつといわれています。
ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県に入ります。
また、東に進むと、青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向っていたといわれています。
大永四年(1524)に、相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
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写真上から2枚目、右に見えるのが並木橋。
一番下の写真の細い道が、並木橋交差点の横を走る道で、これが鎌倉街道。(地図のセブンイレブンの横の道)
南下してヒルサイドテラスへと続くが、その間、八幡通りと鎌倉街道は重複している。
【過去記事】
渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道
旧鎌倉街道 中道編
鎌倉街道 中道 西巣鴨〜西早稲田
豊島区立郷土資料館 新・旧鎌倉街道

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2017 11/15 『目白通りにある出桁造り』

明治通りと目白通りの交差点、千登世橋付近には出桁造りが数軒ある。
写真一枚目、有名な富士見坂付近にある鳳山酒店。(ホーザン酒店)
写真二枚目、かつては何屋だったのだろうか。不明。
写真三枚目、とても立派な畳屋。
【過去記事】清戸道の名家 江戸橋通り 出桁造り 古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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2017 11/14 『漂う』

銀杏の臭いに包まれた公園.....この時季はず〜っと臭い。
公園を周回するランナー、少しの辛抱。
近隣住民、銀杏の肉部分をバケツに大量に入れて放置、息を止めて通りすぎる。
ボルゾイの綺麗なスタイルに目を奪われる。
トイレに立ち寄って、顔を洗う。
さてと、引き返そう....あと5km
フィニッシュ前に、足腰の神様にお参りを。
その足でストアにより、レモンサワーとホットドッグを。
グビグビ飲みながら残り1.5kmをウォーキング。
そういえば、8年前のこの時季にはじめてニューバランスのランパンを買いに、表参道までライダースと編み上げブーツって格好で行ったんだよなぁ...なんか場違いな感じがしてドキドキしたんだよなぁ、と思いだす。

そんな宴会前の10kmのジョグ。
平穏で幸せなひととき。

距離: 11728.5 km タイム: 1058時間01分25秒 平均速度: 9.9 km/h 平均ペース: 06:01 /km

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2017 11/14 『徳川慶喜が撮影に来た板橋区の日曜寺 松平定信奉納の扁額と根村用水』

--------------------- 案内板から引用
宗派は真言宗霊雲寺派で、御本尊は愛染明王、光明山愛染院日曜寺と号します。
“新編武蔵風土記稿”によると、開山は宥慶比丘で、正徳年間(1711〜16)に小堂を営んだのに始まりとあります。
その後、八代将軍徳川吉宗の子、田安家初代徳川宗武をはじめとした田安家の人々から帰依をうけ、愛染明王像などの仏像や仏画、什器類が奉納され寺として整備されてきました。
それにあわせて「開運愛染明王略縁起」が作られ、さらに寛政11年(1799)には中山道との分岐点に道標が建てられました。
このころから。武士や町人、特に愛染が藍染に通じることから染色業の人たちから篤い信仰を集め、参詣者や物売りで賑わいました。
縁日である毎月26日には、参詣者らは、宿坊に泊まって月待をおこなったといいます。
その後、第二次世界大戦の空襲で本堂などが焼失すると、参詣者は1月と5月、9月の大護摩祈祷の日に日帰りで参詣するようになりました。
近年は同業者組合の東京愛染講や豊染請などが縁日の日に参詣しています。山門に架かる松平定信奉納の扁額や境内に立つ阪昌周歯髪埋納の碑、染色業者奉納の石造物・扁額は、板橋区登録文化財となっています。
平成26年12月 板橋区教育委員会
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松平定信とは、江戸時代中期の大名、老中。陸奥白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。1787年から1793年まで寛政の改革(幕政再建を目指した)を行った。

写真1〜2枚目、日曜寺の山門と扁額、雄大で勢いがよいが、見ようによっては可愛くも見える。
モノクロの写真、これは15代最後の将軍 徳川慶喜が撮った日曜寺とその周辺で、山門が写っているが、これは現在の山門だろうと思う。
田安家との繋がりで徳川慶喜はこの日曜時に親しみを感じて、写真を撮りに来ていたのだろう。
いつ頃の写真か分らないが、日曜寺(現 板橋区大和町)は徳川慶喜の巣鴨屋敷からも中山道で一本、5kmくらいなので来やすかったのだろう。

地図の青い線が稲付川で、日曜寺の門前をかつて流れていた。

【過去記事】稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋

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2017 11/9 『赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域と稲付城跡にある静勝寺から宝幢院の道標』

地図の赤丸の下の方、北区赤羽西二丁目の日光御成街道沿いに“赤羽西二丁目地区急傾斜地崩壊危険区域”がある.....凄い崖です。
他に都内だと神楽坂の赤城神社裏あたりにもある。
この崖は縄文時代に海が削ったものだろう。
【過去記事】 新宿区 赤城元町の崖

そして、青い線が稲付川(根村用水や北耕地川とも言われる)で、板橋区双葉町の石神井川から分水して、石神井川のすぐ近くを流れて、地形を巧みに使った川(用水路)で、北の地域であるこの一帯の農地を耕作するためなので、北耕地川とも言われているそうだ。
【過去記事】 稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)

この崖沿いを北上すると赤羽駅に達するが、その手前に静勝寺があり、かつては太田道灌が築城した可能性がある稲付城があったところでもある。(一説には太田道灌は扇谷上杉氏の家臣だったので太田道灌が築城した可能性もあるというが、築城人物は特定されていないという。)
崖が高いので、長い階段を上って行くと本堂がある。
この写真は3年前のもので、門前を走る日光御成街道は補助83号線で、拡幅工事が進められていて、静勝寺だけではなく周辺一帯は、開発に反対されている人々も多い。

---------- 平成25年3月 東京都教育委員会 案内板から引用

稲付城跡は、武蔵野台地北東端部の標高21m程度の舌状台地先端上に立地する自然地形を利用した中世の城館跡です。
文化・文政期の地誌『新編武蔵風土起稿』にも「堀蹟」として登場します。
現在静勝寺が所在する平坦面に主郭があったと考えられています。
北面と東西面は崖面で、南側台地が続き平坦な地形になっています。
周辺からは、発掘調査によって幅約12m、深さ約6mの空堀の跡等が検出され、その際に16世紀前半頃の遺物が出土しました。
静勝寺には室町時代の武将、太田道灌の木造坐像が所蔵されています。
寺伝によれば、城はこの道灌による築城とされています。
今のところ築城した人物を特定する明確な根拠はありませんが、荒川を前面にひかえ北方の防御を重視した城の構造と、発掘調査の成果などから、南側に勢力をもった扇谷上杉氏にかかわりのある城館であったと推測されます。道灌が扇谷上杉氏の家宰であったことから、道灌築城の可能性も考えられます。

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赤羽駅の先、宝幢院(ほうどういん 昔の地図の深緑丸部分)前で、日光御成街道(江戸道)は板橋道(鎌倉街道中道)と合流し、この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点だった。
かつての赤羽は北の玄関口とも言われていたそうで、上野には行かずに遊べたという。
その名残で飲食店や風俗店が多いのでしょう。
静勝寺斜め向いにあった飲み屋で、上尾に住む飲んだくれのおばちゃんと、かつて飲む機会があって、実際に「上野へは行かずに、赤羽で十分楽しめているんだよ」と言っていたのを思いだした。

下から3枚目、宝幢院前を板橋道(昔の地図で左の西側方面)を西側方面を見ている。
板橋道は赤羽台〜小豆沢へと続き、中山道を渡り、大原町〜富士見町〜双葉町で石神井川を渡る。
【過去記事】
古道 鎌倉道 別名 椎名町道(兵隊道)

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2017 11/8 『マドンナエア』

30年前好きだった技、マドンナエア....マドンナは後ろに脚を出しているけど、ジュードエアは逆に前に脚を出す技で、ジュードからのマドンナを得意だった。
他にもたくさん得意技があった。【過去記事】オールドスクール
一度コツを掴むと、あっという間に色々できるのも、楽しくて楽しくてしかたがなかった。
起きている間、勉強をしている間以外はほぼすべてスケートのことしか考えていなかったなぁ。
単車に乗っている人って、スケートボードをやっていたりする人も実は多かったりするんですよね。

【過去記事】
■構成要素
■オールドスクール
■オールドスクール #2
■生まれる
■あぶないランプ
■クルーザー
■メイク
■思いでの撤去
■オールドスクール #3
■あぶないランプその2
■中年スケーター
■JT -大切なひととき-
■スケートボード道
■スケート祓い
■28年前のクルーザー
■レールバー
■やっと乗れてきた、サポートタイツ効果
■IXLオイルとガッツレーを流用
■クルーズにもいいデッキ
■中年スケーターのブルース
■もう一度
■#14
■HILAQUE
■VANS 50 YEARS Kickflip
■MoMA
■OJ2 HOSOI ROCKETS 95A
■AND SKATEBOARDING
■Zorlac Todd Prince 高い??
■梅雨の晴間の真夏日 5週間ぶりに
■UNIqueでスケートボードのレクチャーを
■スケートをする意味
■我ら徳丸ヶ原のスケートチーム
■また出会って、共に生きましょう
■自分のためにスケートを
■オヤジスケーター
■この1年半のスケートボードの練習まとめ
■SEIBU SPORTS SKATEBOARDING TEAM
■家でスケートを MADE IN VENICE
■やすらかに
■スケートボードのホームグラウンド 前谷津川緑道(グリーンベルト<西台・高島平> 一時姿を現す消えた川
■GET RAD
■マドンナエア
■YouTube 作ってから1年半
■久しぶりのお墓参り
■第三回目
■TOKYO SKATEBOARD PICNIC CLUB
■東京オリンピック 新種目スケートボードと日本人のDNA
■池袋スケートパーク 試験運用

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2017 11/2 『北区十条四間道路にある出桁造り』

低地である東十条・王子・神谷地域から台地へとあがり、その先は帝京大学病院から板橋宿(現 板橋本町でかつては上宿)へと続く古い道である四軒道路沿いに出桁造りが2軒ある。地図の黒丸部分。建物の状態は良いようにみえるが、比較的新しい時代に建てられたのだろうか....貴重です。

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 庚申塔 馬頭観音 地蔵尊 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・古道・坂・廃線跡・出桁造り・四方山話など>】のリストが展開します。
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2017 11/1 『NIKE RUN CLUB』
このアプリケーションを使い始めて約2年半。
先日、突然地図が表示されなくなり、相変わらず誤差が多いけど...
今朝、トータルで2500kmを走ったようで、パープルレベルになっていた。
あと2500km走るとブラックレベルだそうだが、2−3年はかかるんじゃないかなと。
暑い時季はランニング後にパークで軽く一杯ひっかけて休憩するのが気持ちが良かったけど、もう今時季の晩は寒いからそれが出来ないのが残念。
しかし今年はいつもよりもはやく時間が経っていっているように感じる。
この前年末で、3月に家族が退院して、あっと言う間に今が11/1....
このままではすぐに春になるだろうなぁ。