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2022 4/17 『板橋区加賀 帝京大学医学部附属病院前 都市計画道路補助第87号線 北区上十条3丁目<本郷通り(本郷赤羽線)>へ開通 十条駅西口再開発と補助73号線』

板橋区加賀にある帝京大学医学部附属病院の前を通る道は、北区上十条3から板橋区仲宿の中山道を結ぶ都市計画道路補助第87号線として計画されている。
上十条は一方通行や狭あい道路が多く、時間帯によって通行禁止になったりする道もあり、その地域にある帝京大学医学部附属病院から本郷通り(本郷赤羽線)へと行き来するには、この狭い住宅街の道を抜けなければならなかった。環七や国道17号線から行き来するにも右左折を繰り返し、幅員が狭い相互通行道路を通って病院へ行かなければならなかった。板橋駅や王子駅からはバス通りを通ってアクセス出来るが、帝京大学から北側や西側からはアクセスしづらい状況が続いていた。
本郷通り(本郷赤羽線)から病院へはもう目の前なのに、なかなか開通出来なかった地図の黒丸部分が長い時を経て、先日ようやく開通し、車で来院する人々にとってとても便利になった。悲願の開通とでも言えるし、狭い道路を行き来する道沿いに住む近隣住民にとっても安全になり良かったのではないかと思う。
帝京大学医学部附属病院へはこの5年の間、数えてみたら69日間通った経験があり、ようやく便利になったと嬉しく思った。開通してからは車両で病院へ行ったことがないが、それはとても幸せなことで通りたくないというのが本心。新型コロナウイルス感染症が出現する前の通院が主だったので、それはとても良かったと思っている。コロナウイルスのせいで基本的に病院は面会禁止が続いているから。
介護タクシーの運転士によって、狭隘道路を通っての病院へのアクセス経路はほんとそれぞれで、その都度関心したものだった。「このクネクネして相互通行の道はかつて稲付川という川だったんですよ」と介護タクシーの運転士との会話もたまにすることもあった。
とにかく地図の黒丸部分、数十メートルの道が開通したことで、本当に便利になり緊急車両にとっても大変役にたったことだろう。
病院から先には石神井川に御成橋が架かり、その先はまた住宅街になっていて、今後この仲宿の住宅街にも87号線が通ることになるが、相当の時間がかかると思われる。
よく言われることとして、東日本大震災後にずっと寝かされていた都市計画道路が徐々に進み始めたと言われているが、確かにこの10年であちこち一気に用地買収立ち退き、拡幅工事が進んでいるようによく思う。
それに伴い、都市計画道路に次々と住宅を建設するのを得意としている住宅メーカー(デベロッパー)が、もれなくこの地域や近隣区でも建てていて、この地域にある大学の敷地から都市計画道路に向けて、この住宅メーカーへの一種の抗議的とも捉えることが出来るような説明板が掲げられている。ずっと手つかずだった土地に次々と住宅があっという間に建てられていったこともつい最近のことのように思う。(写真一番下)
また、十条駅前の再開発や十条の商店街の裏を通す都市計画道路など、諸問題や大きな問題も抱えつつも工事は進んで行っている。十条の商店街の人々や大山の商店街の人々も怒りの抗議をし続けている。

話がそれて....自分の身体のことではないが、帝京大学医学部附属病院にはとてもお世話になったけれども、もうあまり通うことがないことを願うばかり。
ちなみに、介護タクシーを使ったことがない人も多いと思うが、数キロの移動でだいたい約6−7千円かかり、夜間はさらに割り増しとなる。
車椅子使用者の身体に支障がない状態で、移動に十分に耐えられるなら、そして介助者も体力があれば、電車やバスを使った方がはるかに安いです。介護タクシー使用で往復1万5千円が、交通費二人分で1−2千円ほどで済みますから。
今現在はだいぶ減ったが、少し前は車椅子を押して、都内のあちこちの病院...いくつかの大学病院への通院入院から、あちらこちらそちらの総合病院通院入院、町医者・クリニックなどまぁよく通った。ランニングウエアを着て大きなバックバックを背負って、冬でも大汗かいて....難が有ることは幸せなことだが、もうあまりこういう経験はしたくない、それも本心。
高齢者の生活や介護に関しては今もたくさんの課題や難題があるが、この先はもっと大変なことがもう目前に迫ってきている。自分の親族では認知症と診断された人が何人もいる。今はあまり関係無い環境の方も人ごとではなく、心してかかる準備が必要かと思う。介護を含めた諸々が突然やってくることも多いだろうから。

幸せな初夏が訪れますように。

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■十条台古墳群 十条冨士塚(冨士神社)の再整備(現状変更) その後7月・10月と“おふじ道”

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■北区上十条 姥ヶ橋の延命地蔵尊に添えてある小さな角柱型文字庚申塔道標
■稲付川(根村用水と中用水とも北耕地川とも言われる)と日曜寺と智清寺に架かる橋
■旧中山道“岩の坂”の縁切榎ほとりを流れる稲付川(中用水)と“なみだ橋”
■北区十条仲原 稲付川に下る游鯉園の坂
■北区十条仲原 稲付川に架かっていた游鯉園橋
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川) 水車の坂
■稲付川(根村用水・中用水・北耕地川)が流れる深い谷底

■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※河口側
■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀跡(神谷堀) 上郷用水・上十条用水の排出 製紙産業と水運 ※東十条側 大坊橋(デッカンボウ<誤 -大防橋 だいぼうはし->)と上郷用水に架けられた<桜橋> 大蛇伝説
■北区王子五丁目(王子神谷) 甚兵衛堀の主<ヌシ>の大蛇がまつり込まれている庚申さま(<庚申塔>神谷橋庚申通り商店会) 古墳 観音塚

■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■地元のお話 わたしたちの大山町会史 補助第26号線

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2022 4/13 『池袋駅 東口五叉路(グリーン大通り)にある<キリン堂薬局>と杉本彩』

地図の赤丸部分、池袋駅東口から真っ直ぐに伸びる、かつて都電が走っていたグリーン大通りの東口五叉路交差点に、周りはビルディングタイプの建物のみの中にひと際古い建物が一軒ある。
今はクローズしたが、かつてはキリン堂薬局として、少し前まで長年営業されていた。と言っても、クローズしてからだいぶ経ち、それがいつだったかは記憶にないが、はっきりと憶えているのは、自分が16歳の頃だ。
キリン堂薬局のファサードに貼られていた、超ハイレグスイムウエアの杉本彩のポスターを見て、その当時の彼女に「この人、お前に似ていない?」、「そうなのぉ〜、最近よく言われるの!」という会話を思い出した。
杉本彩がデビューして間もない頃で、ハイレグも凄かったが、レザー素材のSM的ウエアだったかポリスだったか忘れたが、Tバックの衣装であまり上手いとも言えないが踊りながら歌っていたのを憶えている。悩殺されてしまった男子も多かったのではないだろうか。
その当時はプロも素人も皆ハイレグでそれが普通だったので、その当時の彼女もセミグロスのパープルカラーのハイレグスイムウエアを着ていたが、とても似合って可愛かったので自慢の彼女でもあった。苦労したこともあり、慮る気持ちも強く、他者の立場になって考えることを大切にしている人だったので、尊敬できる人格も好きだった。

この場所はしょっちゅう通るが、先日ふと立ち止まって久しぶりにまじまじとキリン堂薬局を見て、昔の思い出がふわっと背後から覆ってきたような気がした。
今もなおこの一等地に佇んでいるのは、利権絡みや大人の事情で寝かしているのだと思う。敷地が小さいので、建設費やその後の収益の問題などがあるのだろうが、今後は解体されて、ビルディングが建設されることになる運命だろう。こうしてまた歴史のある池袋駅周辺で一番古いと思われる建物が消えてゆくことになるだろう。豊島区立郷土資料館へ、サインなどの一部を保存出来ないのだろうかとも思う。

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2022 4/8 『巣鴨 染井霊園<東洋のナイチンゲールと呼ばれたロダスカ ワイリックのお墓> 染井よしの桜の里公園<ソメイヨシノ発祥の地> 専修院<伊藤伊兵衛の屋敷跡>』

地図の赤丸部分、染井霊園内に東洋のナイチンゲールと呼ばれたロダスカ ワイリックのお墓が大きな染井吉野の下にある。

LODUSKA J. WIRICK 1856-1914(ロダスカ ワイリック)の案内板より引用ーーー

アメリカ合衆国オハイオ州マンスフィールドの貧しい農家に生まれる。
1890年(明治23年)ドレイク大学を苦学して卒業。直ちに宣教師として来日。
5年間にわたり伝道活動に携わり、一時帰国、翌1896年再び来日し、教会を開いて伝道に努める一方、学習院や、府立四中(現在の都立戸山高校)等で英語を教え、多くの孤児や捨て子を自宅に引き取って養育した。
また、当時偏見の強かったハンセン病患者の施設を訪問し、奉仕活動にも尽した。
日露戦争(1904-5)が始まると、ワイリックは、戸山の陸軍病院に赴き、病床から病床を回って負傷兵を励まし、献身的な看護に当たり、いつしか「東洋のナイチンゲール」と呼ばれるようになる。
意志の強い半面、物静かで心優しい人だったという。
人類愛と奉仕活動に尽くした信念の人ロダスカ・ワイリックは1914年(大正3年)4月30日東京赤坂の病院で死去。享年57歳。ここ染井霊園で永遠の眠りに就く。
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地図の緑丸部分に染井よしの桜の里公園がある。

染井よしの桜の里公園の案内より引用ーーー
豊島区駒込は、江戸時代に園芸の里として発達し、染井通りの一帯は植木屋が集まって住んでいた地域として有名です。今や全国的に植樹されている桜「ソメイヨシノ」は、ここ染井の地から広まっていきました。
染井よしの桜の里公園は、銀行の跡地を取得し、近隣住民の皆さんと検討を重ねながら計画した公園です。
公園の隣の土地には苗床があります。地元の桜の枝を接いだ接木苗を苗床で栽培し、成長したら区内の施設だけでなく全国へと送り出し、発祥の地・染井産の「ソメイヨシノ」を発信していく予定です。
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地図の黒丸部分に専修院があり、ここが江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられている。

専修院の案内板より引用ーーーーーーーーー
専修院は、元和三年(一六一七)に(一説に慶長二年=一五九七)、開山である得蓮社業誉上人迎阿弁教和尚が江戸の浅草新寺町(現台東区松が谷一丁目)に創立した浄土宗の寺院であり、正式には正業山専修院迎接寺という。本尊は阿弥陀如来である。
その後、東京府による市区改正事業のため、明治四一年(一九〇八)に浅草区北松山町六一番地から北豊島郡巣鴨町大字上駒込字染井八八八番地(現在地)に移転し、現在に至っている。
この土地は、江戸時代に多数の植木屋が集住していた上駒込村染井を代表する伊藤伊兵衛の屋敷跡と考えられ、平成九年(一九九七)四月から六月にかけて実施された埋蔵文化財発掘調査では、おもに植木屋が繁栄した江戸時代後半の遺構が発見された。建物の礎石や地下室のほか、溝や生け垣を何度も作り直した跡などがあり、広い敷地の中を区切って利用していた様子がうかがえる。
さらに、縄文土器も出土しており、周辺に縄文時代の遺跡が広がっていることも確認された。
境内には、伊兵衛に関係するとみられる寛永一八年(一六四一)造立の宝篋印塔をはじめ、乾元二年(一三〇三)造立の板碑、冨士構先達の元祖である藤原角行や浄瑠璃の富本節家元である富本豊前掾代々の墓など、多くの貴重な文化財が残されている。
平成十一年三月
東京都豊島区教育委員会
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上記にも書かれているが、北側には縄文時代の遺跡が分布しているのは、かつて古石神井川(河川争奪後の谷田川(支流の一部)が流れていたためで、谷田川をさらに北側へ越えると、西ヶ原遺跡(西ヶ原貝塚遺跡など)も広がっている。

桜が咲くこの時季の染井霊園はたくさんの観光客で賑わっている。
都内は今週末で見納めだろう。

【関連記事】
■豊島区駒込(染井)染井吉野 植木屋・庭師 伊藤伊兵衛家の菩提寺 西福寺への道標<大師道>と染井の泉 谷田川(谷戸川)の源泉の長池
■旧丹羽家腕木門と蔵 染井霊園<藤堂家の墓所>

■古石神井川の支流 谷戸川(谷田川・愛染川)源流の長池跡
■谷田川に架かっていた橋の親柱(芥川龍之介墓所 慈眼寺)
■古石神井川の流路 逆川

■縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
■北区西ヶ原 西ヶ原遺跡(西ヶ原<西ケ原>貝塚)
■北区西ヶ原 王子脳病院跡地の飛鳥中学校 西ヶ原遺跡群(西ヶ原貝塚) 住宅地にも広範囲に分布する縄文時代の貝殻 中里貝塚
■北区 中里遺跡出土丸木舟
■北区岸町 上郷用水(石神井用水)に架かる岩槻街道の三本杉橋下から出土した縄文時代の丸木舟と中里遺跡出土丸木舟

■北区西ヶ原〜滝野川 道音坂(浅草道、中世は鎌倉街道)
■北区西ヶ原 鎌倉道につながる熊野坂 豊島郡衙へ

■豊島区巣鴨 本妙寺 千葉周作の墓〜豊島区駒込 木戸孝允の駒込別邸

■北区滝野川 金剛寺(滝野川城跡)冨士講先逹の安藤冨五郎顕彰碑

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2022 4/5 『豊島区巣鴨5 将軍徳川綱吉より建てる許可を受けたョ禅寺(總禅寺/そうぜんじ)の赤門 朝日通り』

地図の赤丸部分、朝日通り沿いに總禅寺(総禅寺)があり、赤い山門がとても目を引く存在となっていることから、赤門寺と呼ばれるようになったという。

Wikiより引用ーーーーーーーーーーー
1624年(寛永元年)、日山宗春によって開山された。元々は湯島(現・文京区湯島)に位置していたが、天和の大火で焼失したため、翌年の1683年(天和3年)に千駄木に移転した。その際に、江戸幕府第5代将軍徳川綱吉より赤門を建てる許可を受けた。これにより「赤門寺」と呼ばれるようになった。
1897年(明治30年)に現在地に移転した。1945年(昭和20年)の空襲で焼失した。再建までの間は、戦災児童を集めて寺子屋をやっていた。戦後に再建を進め、当寺の象徴でもある赤い山門は、1970年(昭和45年)に再建された。
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赤門に刻まれた文から引用ーーーーー
ョ禅寺の赤門は寛永元年開創以来徳川家と由緒深く
天和三年、当山五世吉州和尚代に徳川綱吉公より赤門
を賜りのち市井に赤門と称し、親しまれた
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
境内の墓地には手塚治虫の曽祖父 手塚良仙の墓もあることから、手塚治虫も葬られていて、アニメ関係者が多く訪れるという。
写真下から1−2枚目、門前を通る朝日通りは緩やかな曲線を描き、幅員もあまりなく趣がある古い道。

一番上の地図の左下に養育院分院の文字が見える。この土地にはその後、現在の都立文京高等学校が建てられた。

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■加賀藩上屋敷跡 東京大学 赤門
■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺 左甚五郎作の龍と加賀藩下屋敷の裏御門だった山門
■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺の寛文の庚申塔 加賀藩前田家下屋敷の裏御門にあり移設された山門 平尾一里塚 2021年10月29日加筆

■五代将軍 徳川綱吉御殿跡之碑(練馬区北町1-14 北町小学校と田柄川の間) 脚気に効くと言われた練馬大根栽培・発祥の地と環状八号線の開通

■明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓

■谷端川流域 大塚 折戸通り入口付近の湧き水と洗い場 石材店のきれいな泉(湧き水)
■谷端川 西巣鴨1-2 洗い場跡<都立文京高等学校隣り 巣鴨新田停留所近く>と暗渠 谷端川沿い 巣鴨子供置き去り事件

■板橋区立郷土資料館 連携協定記念展 <渋沢栄一 高島秋帆> 養育院の始まりと渋沢栄一
■板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一

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