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2019 5/30 『夜の副都心ジョグ』

急に暑くなってきたと思ってたら、真夏のような暑さが続いてびっくりで。
そうなると、涼しい時間にジョグをとなるので、一年ぶりくらいだろうか....副都心ジョグを。
キャッチが跋扈する繁華街.....警備員がキャッチについて行かないようにアナウンスしているその傍らで、道行く人々に声をかけるお兄さん方....うまいこと避けながら脚を前へと運ぶ。
仲良くHへと入館するカップルを避けて、ズンズンと前に進む。
昼と夜では町の表情が変わるから、夜の繁華街ジョグも良いものなんです。
これが深夜になると、静かになってほとんど人がいない繁華街も贅沢な感じでいいものだが、あちこちに出現する吐しゃ物が地雷となる。
フィニッシュ後は本麒麟と焼き鳥がこれまたうまい。コレ、走る人は皆共通の飲み物。
走るという行為を生活の一部にして、この夏で10年となる。
カロリーとかほぼ気にしない生活も、10年ということで。
もし走っていなかったら、どんな生活だったのだろうか?どんな中年になっていたのだろうか?
考えると悪いことしか思いつかない。

アパレルが好きだから、ランニングウエアもあれこれチョイスするのも実に楽しいし。
繊研新聞を見ていたら、ニューバランスの新しいシューズ?だろうか、この写真をみかけた。
このトゥから再度にかけて流れるロゴがNIKEに似ていて、意識したのだろうか、このデザインは何だかあまり好みではないなぁ。

H&Mのランニングウェアも結構好きでよく買うけど、今ネットでセールをやっている。
ダークブルーのタイツをポチり。欲しかったカラーだったので半額はさらにうれしい。via

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2019 5/22 『池袋東貝塚遺跡(<谷端川>舌状台地)』

池袋と言われると、駅周辺エリアが中心と思っている方も多いが、実際は、というか、かつては池袋駅よりも1−2kmくらいだろうか....離れている池袋本町といわれる地域が中心だった。本町という文字どおり、こちらが中心ということ。
地図の黒い線が板橋宿と高田・雑司が谷を結んでいる“高田道”と言われる古道で、分岐した先は春日方面へも繋がっている。
このことからも分るが、メインストリートである高田道が通っている池袋本町がかつての中心ということ。
新川越街道の開通によって高田道は分断されて、池袋駅方面へは“平和通り”と言い、あまり治安が良くない地域へと入っていく。
池袋駅の北(西)と東を結ぶトンネルはウィロードと呼ばれていて、正式名称は雑司が谷隧道で、その先は明治通りにつながる。高田道はこのウィロードとほぼ同じルートだろうと思う。
池袋付近の明治通りは高田道を吸収し、上池袋付近では鎌倉街道も吸収して、現在に至る。

さて、池袋東貝塚は地図のピンあたりにあったようで、写真は2018年11月17日に撮ったもの。
調査のお知らせの後ろには道路予定地の看板が立っていて、地図の黄色い線のピンあたりは、補助第73号線として幅員が広くなるために、立ち退きが進んでいて、その際に埋蔵文化財の発掘調査をすることが出来たということで。
地図の青い線が今は消滅した谷端川で、この付近は舌状台地の端となる。
谷端川が流れていたこともあって、縄文人はこの付近を住みかとして生活をしていたのだろう。少し北上すると石神井川が流れ、もう少し約3km進むとそこはもう海(遠浅だったようだ)で、貝も大量に獲れていたことが分っていて、中里貝塚は国指定史跡として指定されている。
(最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚。焼き石を投入して水を沸騰させて貝のむき身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道などが確認されている。生産された大量の干し貝は、内陸へ供給されたものと想定され、縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で重要である。via

池袋東貝塚からは縄文土器以外にも、ハマグリやカキ、それにシカやイノシシなどの動物の骨が大量に見つかったそうだ。

引用----------------------------
No.2遺跡 「池袋東貝塚」〜地元の考古学者が見出だした、幻の貝塚

今回は、「池袋東貝塚」を紹介します。豊島区遺跡地図では、池袋本町三〜四丁目の一角がその範囲とされていますが、げんざい正確な位置は不明となっています。都市化が進む豊島区にあって、失われゆく自然環境と同じく、遺跡もまたかつての面影を留めることは、ひじょうに難しいことと言えます。
さて、この貝塚の発見は、いまをさかのぼること120年余、実に明治時代後半のこととなります。近隣の氷川神社裏貝塚が、このころ著名な遺跡として学界の注目を集めたことは前回お話しした通りですが、この貝塚に魅せられ、訪れた研究者の一人に蒔田鎗次郎(まいだそうじろう)という若き考古学者がいました。彼は現在の豊島区駒込一丁目に居を構えていた地元の研究者ですが、氷川神社裏貝塚へおもむく途中、偶然にも新たな貝塚を発見したものです。彼の報告によれば、貝層は当時の地表から深さ30cm前後で確認され、かなりの規模をもった貝塚であったようです。そこから、多数の縄文土器や石器が発見されました。
この貝塚は、鎗次郎によって「池袋東貝塚」と名づけられました。しかし、発見からまもなく、周辺の宅地化が進み、本格的な調査も行なわれないまま貝塚の姿は失われていきました。いまや貝塚の正確な位置は不明ですが、推定位置の周辺では今も縄文土器をはじめとした遺物が発見されますので、ここに縄文人の集落が存在していたことは間違いないでしょう。さらに、新しい発見もありました。2000年に豊島区教育委員会によって行なわれた発掘調査で、弥生時代後期の竪穴住居址が発見され、ここに弥生時代の集落が存在したことが明らかとなったのです。この遺跡周辺では、多少の断絶はあるにせよ、貝塚が築かれた縄文時代から、のちの弥生時代に至るまで、人々が連綿として生活を営んでいたわけです。
ところで、この蒔田鎗次郎、彼は池袋東貝塚の発見の後、考古学史上に大きな業績を残すことになるのですが、これはまた別の機会にお話しすることにしましょう。ただ、彼の名は豊島区の遺跡を語る上で、これからもたびたび登場することとなります。

としま遺跡調査会
より --------------

豊島区役所より引用(写真)ーーーーーーー

再発見の意義
このあたりに縄文時代の遺跡が残っているという事実は、蒔田鎗次郎をはじめとする考古学者だけでなく、地域の人々にも知られていたものでした。実際に、地域の人々が畑などで土器や石器を拾ったり、石鏃(せきぞく 石の矢じりのこと)などを集めたりしていたという話が伝わっています。したがって、今回の発見はその「再発見」なのです。

都心部で貝塚が見つかること自体が珍しく、また豊島区で初めての明確な貝塚発見であるという意味で、この「再発見」は歴史上重要な発見であると言えます。そして同時に、池袋本町地域の人々が語り継ぎ、忘れられかけつつも大切に残してきた地域の記憶という文化的遺産の再発見であるという意味で、地域にとって重要な発見であるとも言えるでしょう。

【関連記事】
■池袋富士塚と<谷端川>舌状台地に広がる池袋西貝塚(氷川神社裏貝塚)・池袋東貝塚

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2019 5/21 『西池袋 自由学園明日館』

地図の黒い四角部分、住宅街に自由学園明日館がある。
ここだけぽっかりと空が開けて静かな環境ゆえに、池袋の喧騒を忘れそうになる。
この建物はフランクロイドライトという有名な建築家と弟子が設計したことが有名で、重要用文化財に指定されている。
中は見学も出来て、よくコンサートなども開かれている。
そして、結婚式もよく挙げられている。
詳しくはwikiをご覧に。
クラシックな佇まい、パッと見てもライトの設計だというのがすぐに分りますね。窓の幾何学的な格子もきれい。
知らない方も多いと思うが、池袋のガヤガヤとした街で買い物などをするのもいいが、少し足をのばして、見学をしてみるのも良いものです。

ところで、劇場通りのドン突きはぷっつりと幅員の広い道が終わっていて、その先は住宅街で道は細い。
この住宅街を突っ切るように黒い線の道路を通そうという計画がある。
今のところまだこの付近の進展がないのは、住民が断固反対しているからだという....広い道が通れば車では町と町はアクセスがしやすいが、果たしてどこまで必要であるのだろうか。
劇場通りは川越街道の交差点まで開通していて、そこから先の池袋本町の住宅街を突っ切って下板橋駅横を通り、そこからは開通していてまた幅員が広くなって国道17号線に繋がっている。池袋本町の住宅街は、現在徐々に立ち退きが進んでいる。

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2019 5/15 『板橋区栄町(大山)養育院 渋沢栄一』

養育院本院の碑から引用(碑のアップ画像はこちら 別ウインドウで1.3MB)
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養育院は、明治五年(千八百七十二)年十月十五日に創設された。
維新後急増した窮民を収容保護するために、東京府知事大久保一翁(忠寛)の諮問に対する営繕会議所の答申「救貧三策」の一策として設置されたものである。
この背景には、ロシア皇子の訪日もあった。
事業開始の地は、本郷加賀藩邸跡(現東京大学)の空長屋であった。
その後、養育院本院は上野(現東京芸大)、神田、本所、大塚などの東京市内を転々としたが、関東大震災後、現在地の板橋に移転した。
養育院設置運営の原資は、営繕会議所の共有金(江戸幕府の松平定信により創設された七分積金が明治新政府に引き継がれたもの)である。
養育院の歴史は、渋沢栄一を抜きには語れない。
営繕会議所は、共有金を管理し養育院事業を含む各種の事業を行ったが、渋沢は明治七年から会議所の事業及び共有金の管理に携わり、養育院事業と関わるようになった。
明治十二年には初代養育院長となり、その後亡くなるまで、五十有余年にわたり養育院長としてじぎょうの発展に力を尽くした。
養育院は、鰥寡孤独(かんかこどく)の者の収容保護から始め、日本の社会福祉・医療事業に大きな足跡を残した。
特に第二次世界大戦後は、児童の保護や身寄りのない高齢者の養護、さらに高齢者の福祉・医療・研究、看護師の養成などの時代の養成に応じて様々な事業を展開した。
平成十一年十二月、東京都議会において養育院廃止条例が可決され、百二十七年にわたる歴史の幕を閉じたが、養育院が行ってきた事業はかたちをかえて現在も引き継がれている。
養育院に関連する碑は、ほかに養育院の物故者中、引取人のない遺骨を埋葬、回向をお願いした東京都台東区谷中の大雄寺、了?寺、栃木県那須塩原市の妙雲寺及び東京都府中市の東京都多磨霊園にある。
なお、碑の「養育院本院」は渋沢栄一の墨蹟を刻んだものである。

平成二十五年(二千十三)年 三月
養育院を語り継ぐ会

この碑は元養育院職員等の篤志によって建てられました。
地方独立行政法人 東京都健康長寿医療センター
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地図の黒丸で囲った場所がかつての養育院で、現東京都健康長寿医療センター.....40年近く前に自分が住んでいた大山、母の親友がこの養育院に勤めていた。
母からは、「色々な方がいて遊びに行っては迷惑になるからだめだよ」とよく言われていた。近くて親しみがある施設だけど、あまり近く行っては行けない所だと、周りの大人たちからはそんな雰囲気だったように思う。

写真1−2枚目、旧川越街道は遊座大山商店街と言われている。かつてはポルノ映画館や数軒映画館があった。
旧川越街道の文化会館横の道が養育院へと続く表玄関の道。写真の黒矢印。

養育院に入ると、右手に渋沢栄一の像が鎮座している。
渋沢栄一が次の新紙幣のモデルになるということで、来訪者が多くいた。
現在は病院となっているが、大山の人々にとって、というか、自分にとっては養育院は身近でもあるが立ち入ることが難しく、心強いような、なんとも言えない存在だったように思う。

地図の青い線が旧川越街道で、旧中山道から交差して、旧川越街道に繋がっているのが小松屋横町道。(旧中山道の交差点にかつてあった小松屋さんから名付けられたという。有名な商家だったのでしょう)
点線になっているところがかつての道で、ちょうどこの場所に競馬場がつくられために、小松屋横町道は競馬場に道を譲り、カクんと北に折れて付け替えられたそうだ。

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2019 5/15 『GW』

あんなに長い休日、潤沢な資産があるのならば、あちこち旅行行っておいしいものをたらふく食べてアグレッシブに過すこともできますが、それは一部の人々ではないだろうか。
まわりの自営業の方々は、ほぼ皆連休としては過ごしてはいなかった。
取引先から連絡があれば、黙々と業務をこなし、晩に一杯、いや二杯、いや、3−4杯と飲んで就寝....そんなかんじではないだろうか。

今さらだが、そんなGWは仕事をしつつ、いつも通りに過ごしていた。
時間がとれれば、ランニングをして夕刻前までに一杯ひっかけて。
30%オフになった焼き鳥と本麒麟でやりながら、オランダのメーカーの耳栓を眺めて、どんだけ遮音するんだろうかと、、いやぁ格好いいなと。
耳栓は音の周波数によって、さまざまあって、このImpactは打撃音に有効だという。さて、どうだろうか。

GWの中日には、地元のスケート仲間家族と、都立赤塚公園でBBQを。
ちびっ子に大人気の焼マシュマロ、これってとろけるとクリームみたいになっておいしいんですよね。
外で飲んで◯ホな話をして、ほんとリラックスできて楽しい。
夕刻前に夕立ち襲来で、河岸を変えて、首都高五号線の下にある名店『まりを』で、またたらふく飲んで。
ここは屋台から始まって店舗になり、名物はおでんとラーメンなんだと。
なかなか行く機会がなくて、今回が初。チビらがうまそうにズルズルすするラーメン見ながらのレモンサワーはとてもおいしかった。なんとも幸せな気分になって。

そんなGWもいつもの週と変わらずに終わり、いつもどおりに過す。
歴史が好きだけど、どんどんエスカレートしてきて時代をさかのぼり、人類のルーツが気になって仕方がない。ただ、アップデートが盛んなので、ナショナルジオグラフィックからの情報に驚くばかり。

と、食べたければ飲みたければ走れっていう人も多い。自分のようなもの....気づくと、走り始めてもう10年になった。
ランニング歴は10年...キツイって思うほど走り込むことはないので、何もキツくなく今までを過ごしてきた。それはこれからも変わらない。
今は、かつてよりも環境が変わったので、月に200kmちかくは走ることはできないけど、気ままに走ったり歩いたりしている。そんなんで十分に気持ちが良い。
走ったら腹が減る。
したら、悪そうなものを食べたくなる。
牛肉があまり得意ではないんだけど(うちは母子家庭で母が忙しかったのから、幼い頃は毎晩吉野家か店屋物の鍋焼きうどんだった。そんだけ牛丼を食べると、そりゃあまり得意ではなくなる。牛丼の牛をのけて食べていた)、たまに食べたくなる牛丼には、他者よりも少し多めに紅しょうがと七味を。
どんだけいただいていいのか分らないけど....いっぺんにはのせない多めの紅しょうが.....すれ違う女性に、半透明でも鮮やかな赤と七色で彩られた、お牛丼さんを2度見されて顔まで見られて....いっぺんにそんなに入れるの?って思うでしょうね。

と、年齢を重ねると濃いラーメンは食べられなくなるというのはホントのことで、中華屋で普通の醤油ラーメンや五目麺が定番になりつつあるも、たまに、濃い家系ラーメンが食べたくなる。
ニンニクたっぷりに酢たっぷりで....ほうれん草ってカリウムが豊富で、海苔は尿酸値を気にする人にも有効って聞いたことがある。
だから、家系って理にかなっているなと....ほうれん草と海苔は多めにして、免罪符ということに。そんな人も多かったりするのかな、どうだろう。

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2019 5/2 『文京区本駒込 吉祥寺側の出桁造り』

文京区本駒込、本郷通り(日光御成街道)沿いに吉祥寺がある。
吉祥寺というと、中央線の吉祥寺を思いだすが、吉祥寺というお寺は、この本駒込にある。
現 水道橋交差点の都立工芸高等学校がある付近に、かつて吉祥寺があったが、明暦の大火でこの本駒込に移転してきたという。門前町に住んでいた人々が、現 吉祥寺を開拓して移り住んだことから、吉祥寺と名付けられたという。したがって、吉祥寺には吉祥寺はないということで。
さて、その吉祥寺は徳川将軍が日光へと参拝に行く時に利用したことから、本郷通りは日光御成街道とも言われている。
歴史がある通りだけに、今でもいくつも出桁造りが存在している。
地図の黒丸付近に、写真の出桁造りが建っていて、ほとんどが改修されているが、一部にその姿を見ることができる。
日光御成街道(本郷通り)を江戸城(皇居)へと少し進んで行き、左に曲がって下っていくと、根津神社がある。
この時季は境内のつつじがきれいで見事な景色となる。
過去記事:吉祥寺 榎本武揚の墓根津神社 塞の大神碑

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