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2022 2/28 『国宝土偶 合掌土偶のフィギュア』

カプセルトイの土偶があったので、やってみたら一番好きな合掌土偶が出てきた。そうなると全種類を揃えたくなるので、コンプリートセットを買った方が早いけど、こういうのはゴミになるとよく言われますよね。
子供の頃から30代前半まではプラモデルも散々作って、カスタムもしたけど、結局一台(1/24のプラモデルをラジコン化したもの)しか残っていない。
収集癖というほどのものは持っていないけど、唯一は本だろうか。あと昔のスケートボードか....実益を兼ねてのランニングシューズもかな。でも、はき倒したシューズを持っててもしょうがないから処分しょう。
年齢を重ねると、物持ちでもしょうがないですしね。ただ、好きな物をたくさん持っていると<生きる氣力>にもつながるし、そこらへんのバランスが年齢を重ねると難しくなってきますね。

書いててふらふらしてますが、合掌土偶は良い姿。

引用ーーーーーー
八戸市風張1遺跡出土(合掌土偶)

出土年月日:1989年(平成元年)7月。
重要文化財指定年月日:1997年(平成9年)6月30日
指定名称:土偶単独の指定ではなく、重要文化財「青森県八戸市風張1遺跡出土品」として一括指定された遺物(縄文時代後期後半の土器類131箇、土製品類177箇(土偶16箇を含む)、石器・石製品類356箇の一括)[45]に含まれる1箇であった。2009年に、この中から「合掌土偶」と呼ばれる土偶1箇のみが分割されて国宝に指定された。
国宝指定年月日:2009年(平成21年)7月10日。
時代:縄文時代後期後半。年代:約3500年前。
寸法:高さ19.8cm、幅14.2cm、奥行15.2cm。

【関連記事】
■カプセルトイ ガチャガチャ <妖怪根付>
■合掌ステンシルTシャツ

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2022 2/26 『都内城北地区の名店<やきとんひなた>のやきとん弁当』

新型コロナウイルス感染症のまん延で、お酒を提供することが難しい時期に登場した<やきとんひなた>のやきとん弁当。
上が去年のもので、下が今年つい最近販売再開したお弁当(720円)。串はもちろんのこと、250g入ったご飯がおいしいんです。
豚肉のビタミンB2で疲労回復....これに舞茸一株と冷凍エノキ、豆腐二丁の具沢山のお味噌汁をつけて免疫力アップ。ウイルスに負けるな。

いつまで販売されているのか分からないが、大衆的でおいしいお弁当なので、おすすめです。

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2022 2/23 『大塚原(板橋区赤塚一丁目、赤塚新町一丁目) 赤塚大塚原遺跡 <消滅した八つ程の大きな塚>と<地名 馬喰谷戸> 赤塚・成増での母との思い出と激安洋品店<のとや>での良品発掘』

一番上の地図、国道17号線(新大宮バイパス)の西側を大塚原と呼んでいて、この地域には旧石器時代・縄文時代後期の赤塚大塚原遺跡がある。

いたばしの地名より引用ーーーーー

大塚原(赤塚一丁目、赤塚新町一丁目)赤塚村大字四ツ葉小字
今の東武東上線、下赤塚駅から東武練馬駅付近までの区間に、大きな塚が八つ程あったそうです。
大正三年に東上線開設工事により整地され平地と変り八個あった塚も消失してしまいました。
その大塚から発生した地名と思われます。ただし、大塚原という地名は文献上の地名か、土地の人には馴染みが薄いようで、南原、四葉原と呼ぶ方が通用します。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
遺跡番号:9
遺跡名:赤塚大塚原遺跡
所在地:板橋区 赤塚一丁目
時代:[旧石器時代][縄文時代(後期)]
種別:包蔵地・集落
主な遺構/概要:[旧石器時代]ブロック [縄文時代]陥し穴 土坑 ピット
主な出土品:ナイフ形石器 縄文土器 スタンプ形石器 弥生土器
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
名のとおり、大きな塚が八つ程あったようだが削られて消滅してしまったという。
調べてみると、板橋区には古墳やあちこちに塚があったことが分かったが、あまり現存していないことは残念ですね、仕方がないが。

旧川越街道と新川越街道と国道17号線、練馬区北町三丁目あたり、古地図に馬喰谷戸という地名になっているのは、旧川越街道を往来する人馬、馬を管理していた場所・人々がいたのだろう。また、国道17号線(新大宮バイパス)が南北に通っている場所は、等高線を見ると谷(前谷津川の支流だろうか)になっていることが分かるので、馬喰と谷戸が合わさった地名だと思われる。

関西からボストンバッグひとつで、幼い姉と一歳の自分を連れて上京してきた母は、赤塚の隣町の成増にあった銭湯に住み込みで働き口を見つけて、しばらくお世話になっていたと聞いた。その後、自分達家族は大山にあった施設に入所することができて生きていくことができた。
今、母が入所している赤塚にある施設に週一くらいで行くが、赤塚郷はとても良いところですね。
今生、母とももうあまり長くは一緒にいられないから、変わらずに自分が出来ることはたくさんしたいと思っている。もちろん他者のご助言、お力を最大限お借りして。

ところで、空気階段の鈴木もぐらさんも行っていたという、赤塚駅前にある激安の洋品店<のとや>には施設訪の帰りにたまに覗きに寄るけど、ニューバランスのソックスが他店よりも数百円安いのは良いですね、消耗品だから。他はほぼ欲しい物は無いような感じだけど、たまに良いものが混じっていたりする。
高島平の<のとや>では、NIKEのサーマルランニンググローブとか、15年位前に見つけた数百円だったと思うけどmade in veniceのDOGTOWNのアーロンマーレーのTシャツとか、vanquishの鋲が付いたレザーサンダルとか。

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■練馬区田柄二丁目 (旧)川越街道と所沢道の追分に立つ庚申塚(庚申塔・道標) 鎌倉街道
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■板橋区大門 都立赤塚公園 鎌倉街道 しったり坂
■湧き水のビオトープ<赤塚トンボ池> 赤塚不動の滝向いの崖からの湧水<赤塚公園斜面の湧水> 2022年1月15日<赤塚 不動の滝>
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川<前谷津川と宮下大山不動明王> 2022年1月19日加筆
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流 梶谷津川
■前谷津川の支流 梶谷津川の源流付近と暗渠蓋
■スケートボードのホームグラウンド 前谷津川緑道(グリーンベルト<西台・高島平> 一時姿を現す消えた川
■前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷
■前谷津川(前谷津川緑道) <赤塚しのがやと公園(篠ヶ谷戸)>と<橋ぎわ>
■板橋区 赤塚不動の滝と大根
■板橋区赤塚 不動の滝<記念物(史跡)> 令和3年

■渋谷区代官山 猿楽塚(猿楽塚古墳 猿楽神社)と鎌倉街道 中道

■加賀藩下屋敷にあった山々 現存する大山(築山)

■電話番号の表札 ◯◯方・◯◯◯◯◯呼出 ◯◯ 電報
■板橋区大山町 山中通り商店街(大山道・小松屋横町道)  補助第26号 むかしの大山西銀座商店街(大谷道) とハッピーロード大山商店街・大山サンロード(遊座大山商店街)の町並みと思い出 山中の村人と板橋宿の開拓と整備(2022年2月22日加筆・写真追加)
■巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩(子育地蔵尊) 実弟を重ねて

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ここをクリックすると下に【過去記事1<河川・湧水・池・滝・堀・上水・暗渠・橋・宿場・史跡遺跡(貝塚 古墳 塚 庚申塔 道標)・文化財・古道・坂など>】のリストが展開します。
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2022 2/21 『谷端川ほとりにある<魚がし寿司 板橋総本店>』

地図の黒丸部分、今は暗渠となった谷端川のほとりに、町のお寿司屋として評判があり名が知られている<魚がし寿司>がある。
寿司はピンキリだが、この値段ではなかなかおいしいと思う。
明るい時間に、ベロンベロンに出来上がった客らが暖簾から出てくる光景をよく見かける....おいしいからついついお酒も進むんでしょうね、よく分かる。
手土産としても喜ばれるんではないかと思う。

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■谷端川 高田道沿い<子易神社境内 田楽橋の橋桁(板橋区板橋2丁目)>
■板橋区板橋2丁目高田道沿い 子易神社<胸突地蔵 別名身代わり地蔵> <狐山>と<高稲荷山>に住む狐と金井窪のきつね色の水
■谷端川 大塚にある瀧不動(豊島区北大塚2)
■谷端川下水道幹線 SPR工法
■谷端川跡 昔の粟島神社と祥雲寺坂下の洗い場
■谷端川(千川・小石川・礫川) 猫又坂(猫貍坂、猫股坂)と猫又橋
■宮仲(巣鴨村) 谷端川 上池袋支流(瓢箪池支流) 滝と呼ばれた洗い場跡 瓢箪池跡(山玉(やまたま)の池)
■谷端川 雲雀ヶ谷支流(名も無き小川)とお多福弁天沼(お多福弁天様・橋かけ弁天様)
■谷端川と上池袋支流(瓢箪池支流)の落ち合い地点にある防災用ポンプ
■谷端川流域 大塚 折戸通り入口付近の湧き水と洗い場 石材店のきれいな泉(湧き水)
■谷端川 西巣鴨1-2 洗い場跡<都立文京高等学校隣り 巣鴨新田停留所近く>と暗渠 谷端川沿い 巣鴨子供置き去り事件

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■板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
■北区滝野川・JR板橋駅前 新選組隊長 近藤勇が葬られた無縁塚(無縁塔)

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2022 2/16 『東京府北豊島郡金井窪村 今も残る金井窪村の痕跡  高田道(池袋 平和通り商店街)』

地図の青丸部分が金井窪と呼ばれていた金井窪村で、南北を通る道が古道 高田道(高田雑司が谷道)。
高田道は板橋宿と池袋村、雑司が谷とその先の高田村を結ぶ重要な道で、村の東西、東武東上線の横を谷端川が流れていた。

写真上より、高田道と東武東上線が交差する踏切で、線路の奥、山手通りに架かっている橋が<しんかないくぼはし>で、すぐそばのバス停の名は<金井窪>と名付けられている。
下板橋駅と大山駅の間、高田道とこの留置線の踏切あたりにかつて金井窪駅があったが、1945年に廃止されたという。駅の間が近過ぎたことも廃止の要因だったのだろうか。
板橋町に吸収された金井窪という地名だが、今でもその痕跡を見ることができるのは、この高田道が金井窪村をとおり、道沿いが商店で繁栄していたこともあるのだろうと思う。踏切と谷端川を渡り、南へ進むと今でも商店が連なっている。賑やかだった道沿い(古道)には交番があるように、ここにももれなく池袋氷川神社の入口に池袋本町交番があり、その先、高田道は新川越街道を越えて続き、平和通り商店街となり、ここにも交番がある。

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■板橋区板橋2丁目高田道沿い 子易神社<胸突地蔵 別名身代わり地蔵> <狐山>と<高稲荷山>に住む狐と金井窪のきつね色の水
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■谷端川 高田道沿い<子易神社境内 田楽橋の橋桁(板橋区板橋2丁目)>
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■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
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■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■池袋 四面塔尊 辻斬残骸 無縁仏の供養 池袋村 高田道<四ツ辻付近の追はぎや辻斬>

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2022 2/14 『板橋区板橋2丁目・大山金井町 高田道 金井窪の峠(高稲荷山の切通し)』

地図の青丸部分が金井窪と呼ばれていた金井窪村で、南北を通る道が古道 高田道(高田雑司が谷道)。
高田道は板橋宿と池袋村、雑司が谷とその先の高田村を結ぶ重要な道で、村の東西、東武東上線の横を谷端川が流れていた。

いたばし風土記より引用ーーーーーーー

高田道をわずかに南に向うと左側の崖の上に日蓮宗の宗仙寺がありますが、この寺は明治二十年代に河内(大阪府)から移転して来たお寺です。
この崖の高さが昔の高田道の高さで、このあたり峠を形づくっていた淋しい所だったといわれています。
この先の森が金井窪村(大山金井町、板橋二丁目一部)の鎮守子易神社です。この神社、江戸時代には真言宗福生寺と申しまして、本尊の子安観音は子育ての守り仏として広く信仰されていた流行仏でした。維新後廃寺しあらためて子易神社と転身、今日に至っております。子安観音は明和二年(一七六五)開眼されています。又ここの境内地蔵堂に安置されている身代り地蔵は元禄八年(一六九五)造立されました。うら淋しい高田道の山かげは人もろくに通らぬ状態でしたが、王子村の金持が夜池袋村からの帰り道、ここで夜盗に襲われ胸を一突されて倒れました。しばらくして気が付き、起きあがってみると突かれた跡は全然なく、かたわらの石地蔵の胸に傷あとが残っていた、という話から、この名が生れ、深く信仰されたと伝えられています。
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地図の黒丸部分が、上記の“峠”と言われている部分で、写真上から2枚〜3目の宗仙寺がの敷地が高くなって、大谷石やRCで留められているように、切通して道を通していることがわかる。

地図の赤丸部分が、前の記事の<高稲荷山>の際部分で、こちらも大谷石で崖線を留められている。なぜこの住宅の敷地は高いのかは高低差図を見るとよく分かる。
かつて住んでいた方々や、上記のとおりに、今では景色が変わっているが、峠と言われていた痕跡も分かりますね。

【関連記事】
■板橋区板橋2丁目高田道沿い 子易神社<胸突地蔵 別名身代わり地蔵> <狐山>と<高稲荷山>に住む狐と金井窪のきつね色の水

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2022 2/10 『板橋区板橋2丁目高田道沿い 子易神社<胸突地蔵 別名身代わり地蔵> <狐山>と<高稲荷山>に住む狐と金井窪のきつね色の水』

地図の赤丸部分、古道 高田道(高田雑司が谷道)沿いに子易神社があり、境内の地蔵尊菩薩御堂には胸突地蔵が祀られ、別名身代わり地蔵とも呼ばれている。かつてこの地域は金井窪村と呼ばれていた。
高田道は板橋宿と池袋村、雑司が谷とその先の高田村を結ぶ重要な道だった。

案内板から引用ーーーーーーーーーーー
子易神社

御祭神木花開耶姫命。
創建時代は不詳ですが、延宝二年(一六七四)の検地帳に境内地が記されており、それ以前から当地で祀られていました。古くは武州豊島郡金井窪村の鎮守であり、もと富士浅間神社の御分霊を遷祀したものと伝えられています。
江戸時代には別当の福正寺(福生寺とも称す、明治初年に廃寺)が当社を管理し、古来より安産・子育ての神様として広く信仰を集め、江戸時代より安産の御守札を頒布していました。
境内に祀らている子安観音坐像は、もとは福正寺の持仏と伝えられ、福正寺が廃寺となった際、当社へ遍座されました。像は蓮華座の上に結跏趺坐し、膝の上に朱色に彩色された子どもを抱いています。像は入母屋造りの厨子に安置されており、厨子の屋根裏の墨書銘から、明和二年(一七六五)霜月十六日に氏子が願主となり開眼供養が行われたことが分かります。
子易神社には祭礼に関する古文書が伝わっており、祭礼の運営が金井窪村の年番と若者衆により執行されていた点が、神楽師を招き十八座神楽を奉納していた様子が分かります。また、祭礼寄進帳からは金井窪村をはじめ、遠く麹町や神田などからも寄進・奉納を受けていることが確認でき、当社の信仰範囲の広さを窺わせます。
子安観音坐像及び子易神社文書は共に区の文化財に登録され、子易神社の歴史を伝えています。

平成二十三年三月
板橋区教育委員会
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下記引用
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神社入口にある胸突地蔵は、別名身代わり地蔵とも呼ばれ、元禄8(1695)年に造立されたもので、もとは神社の裏手(現金井窪保育園)にあった。台座には「右上尾」「左河越」と刻まれており、道標にもなっていた。
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※豊島郡赤羽村 新義真言宗宝幢院末寺 福生寺
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いたばし風土記より引用ーーーーーーー

高田道をわずかに南に向うと左側の崖の上に日蓮宗の宗仙寺がありますが、この寺は明治二十年代に河内(大阪府)から移転して来たお寺です。
この崖の高さが昔の高田道の高さで、このあたり峠を形づくっていた淋しい所だったといわれています。この先の森が金井窪村(大山金井町、板橋二丁目一部)の鎮守子易神社です。この神社、江戸時代には真言宗福生寺と申しまして、本尊の子安観音は子育ての守り仏として広く信仰されていた流行仏でした。維新後廃寺しあらためて子易神社と転身、今日に至っております。子安観音は明和二年(一七六五)開眼されています。又ここの境内地蔵堂に安置されている身代り地蔵は元禄八年(一六九五)造立されました。うら淋しい高田道の山かげは人もろくに通らぬ状態でしたが、王子村の金持が夜池袋村からの帰り道、ここで夜盗に襲われ胸を一突されて倒れました。しばらくして気が付き、起きあがってみると突かれた跡は全然なく、かたわらの石地蔵の胸に傷あとが残っていた、という話から、この名が生れ、深く信仰されたと伝えられています。
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お金持ちの王子の村人が襲われたと伝えられているように、池袋村の中心を通り、この先池袋村の外れは辻斬りが多発してたという。
高田雑司ヶ谷と板橋を結ぶ街道(現 平和通りが高田道)と礫川(文京区 小石川)と東長崎を結ぶ街道との四ツ辻付近(現在の西武線池袋駅東口)は、夕方になると追はぎや辻斬りが出没し、夜はその難を逃れる為通行する人が途絶えたという。
宿場を通る高田道は大なり小なり金銭を持つ人の往来も多く、人を襲いやすい通りでもあったのだろう。

身代わり地蔵は大切にされていることがよく分かる。
御堂の戸はいつも閉じられているが、撮影したこの日(2016年7月25日)は地蔵尊菩薩祭禮で開けられていた。

いたばしの昔ばなしより引用ーーーーー
きつね色の水

むかし、今の板橋第七小学校のあたりは、しのの生い茂るやぶ山で、松の木やうるしの木がたくさんはえていました。人びとは、この山を「狐山」と言っていました。松の大木の根かたには、大きなほら穴があって、狐の親子が住んでいました。
この狐の親子は、大へん心やさしく、人をばかにしたり、人のにわとりを盗んだりはしませんでした。それどころか、夜な夜な田畑を荒す野鼠をとって呉たり、時には赤塚沼や石神井川べりまで出かけては、鴨などをとってきました。鴨などをとって来ると、穴の入口に並べておきました。村人たちは、それを時どき、そっともらって来てはごちそうになっていたそうです。
この狐山と低地をはさんでもう一つの山がありました。今の板橋第二小学校や宗仙寺、子安神社のある山です。この山にも狐が住んでいました。村の人たちは「高稲荷山」と言っていました。この山の狐は、狐山の狐とはちがって茶目気があって、よく人をばかしました。夜、胸突き坂に出ては、地蔵さんにばけたり、盗人にばけたり、女の人にばけたりしました。
この二つの山の間が、金井窪と言われた窪地で、低いじめじめした所でした、そこに湧き出る水は、みんな、「狐色」した赤茶色の水でした。人びとは「きつね水」とも「かなしぶ水」とも言っていました。二つの山の狐たちが、よくこのくぼ地で、カニや蛙を取って遊んでいる姿を見かけました。元禄のころ、与右衛門というよその村の若者が、狐にいたずらをして、その晩、狐にばかされ、「いい風呂だ」と言って、福正寺の湧き池に一晩中つかっていたそうです。
金井窪の村の人たちは、そんなわるいことはしませんでした。時どき、狐の嫁入りちょうちん行列を見ることがありました。狐たちはまた、山の上から、中山道を通る諸国の大名行列を眺めました。こんなことが武士の世の中頃まで、のんびりとつずいていたそうです。
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高低差図をみると分かるが黒丸の2つ、西側に<狐山>があり東側に<高稲荷山>がある。
この2つの山の間を南北にかつて谷端川が流れていて、谷端川に流れ落ちる支流(湧水や千川上水から分水した流れ)がいくつかあったために、上記の昔ばなしのとおり、じめじめした湿地帯だったと言われている。また、谷端川を下流(東)へ少し進むと古いお多福弁天沼もあった。
さらに、この2つの山の向かいの舌状台地には縄文時代(前期〜晩期)の遺跡、氷川神社裏貝塚と池袋東貝塚があることでも知られている。

狐にまつわる話は本当に多いですね。

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