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2021 7/15 『北区滝野川・JR板橋駅前 新選組隊長 近藤勇が葬られた無縁塚(無縁塔) <近藤勇隊長の死と無縁塚> 寿徳寺住職 新井慧誉 著 (現住職 新井京誉) [近藤勇の墓と寿徳寺]』

地図の黒丸部分に近藤勇の墓、永倉新八の墓、土方歳三や新選組隊士供養塔がたっている。(東京都北区指定文化財に指定)
幕末動乱、全国に名を馳せた近藤勇は板橋宿(平尾宿<上宿・中宿・平尾宿の3つに分れていた>)の平尾一里塚付近で斬首され、首は京都三条河原へ運ばれ、胴体はこの供養塔がある無縁塚に葬られたという。(異説もある)
今でこそとても立派な供養塔がたっているが、当時は平尾宿の外れで何もない原っぱだったところで、巣鴨からは板橋宿の入口にあたり平尾一里塚(地図の緑丸部分)もあり、旅人への見せしめもあったのだろう。

北区郷土誌 近藤勇隊長の死と無縁塚より引用ーーーー
近藤勇隊長の死と無縁塚
寿徳寺住職 新井慧誉 著 (現住職 新井京誉)

近藤勇の墓と寿徳寺

近藤勇の胴体は処刑のあと、近くにあった無縁塚に葬られました。
それがいま板橋駅前にあるお墓です。
近藤勇の死後、明治九年に近藤の養子になった勇五郎という方が、晩年に回想していうには、近藤の出身地の村人たちと胴体を掘りおこし、近藤家の菩提寺である流源寺墓地へと改葬したというのです。
しかし現在では、残念ながら真偽は確認できません。
勇五郎のその回想は、近藤処刑のあと六〇年ばかりあとになされたという点からも、改葬説に疑義をはさむ人が少なくありません。
ともあれ処刑直後の胴体が、板橋駅前のお墓にいけられたことは事実であり、したたる血や脂がその土にしみこんだことも確かです。
墓地は現在の北区滝野川七丁目八番一にあり、寿徳寺の境外墓地であります。
間違ってそこが板橋区内であると誤記した書物もありますが、墓地は明らかに北区内にあるのです。
その意味で、北区の皆さんにはもっと認識を深めていただきたいと思います。
近藤が葬られたことで、墓地はいま近藤勇の墓として世間に知られていますが、もともとは無縁仏を葬った墓地でした。
中山道を往来する人、宿場で働く人、その他引きとり手のない遺体などが何人もいけられたようです。
いま墓地の正面向って左側に、一メートルばかりの無縁塔と記した石柱がありますが、あれが本来のこのお墓の趣旨を示すものです。つまり死刑に処せられた近藤勇は、もはや無縁仏と同様の処遇を受けたというわけです。
寿徳寺では降って湧いたような近藤との関わりですが、これも仏縁のいたすところかと思います。
爾来、今日まで近藤および新選組諸隊士の追善法要を、境内と境外墓地で営んできました。
もちろん近藤の命日の四月二五日にです。
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新政府軍に身寄りのない人間として処理された近藤勇だが、その後家族が胴体を引き取ったとのことで、他の様々な武士よりも幸せな人生だったと思う。

この無縁塚からすぐ近く、旧中山道へむかい千川上水跡を巣鴨方面へ進むと(50mくらい)、馬頭観音(地図の赤丸部分)が祀られていて、人馬の供養としてこの無縁塚とも関係があるのだろうか。

※2021年7月19日写真追加

【関連記事】
■近藤勇と新選組隊士供養塔 平尾一里塚(板橋一里塚)跡と千川上水跡を越えたあたり
■板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい
■北区滝野川6丁目 旧中山道と千川上水の間に祀られた馬頭観世音 板橋宿で捕らえられた千川の怪物(オオサンショウウオ)
■旧中山道 板橋宿(平尾宿) 観明寺の寛文の庚申塔 加賀藩前田家下屋敷の裏御門にあり移設された山門 平尾一里塚

■加賀前田家下屋敷跡 〜江戸下屋敷平尾邸〜 裏御門通りと板橋一里塚(平尾一里塚)跡
■中山道 平尾一里塚(板橋一里塚) 一里塚まんじゅうと史跡
■北区滝野川 重吉稲荷神社と平尾一里塚の東側の小道にあった廻国塔

■旧中山道 板橋宿(仲宿) 宿場時代は馬つなぎ場でもあった遍照寺の石仏

■中山道と川越街道起点の平尾追分 高田道と川越街道の四ツ又

■新選組 沖田総司 逝去の地と玉川上水余水吐

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2021 7/12 『あらかわ遊園にあった男滝・女滝 小台の渡しの渡し場にあった料亭・清水滝』

地図の青四角に荒川遊園の男滝・女滝、青丸部分に小台の渡しの渡し場の料亭・清水滝があったという。
低地において同じ低地(敷地)に落ちる滝は人工で、川や井戸などから取水して高い所まであげて、滝として落していたという。

<第19号 荒川ふるさと文化館だより 平成19年12月31日>より引用ーーー

自然としての滝と文化としての滝
古来、滝は信仰の対象であり、信仰を実践する場でもあったが、今日の私たちにとってはどうだろう。
あえていえば感動の対象といったところだろうか。
試みに『広辞苑』を引いて見ると、1「河の瀬の斜面の急な所を勢いよく流れる水」、2「高いがけから流れ落ちる水」とあり、いずれにしても自然の中で流れる現象そのものをいう。
しかし単なる現象にとどまらず、3夏の季語、でもあるらしい。
俳句の世界では今でもある意味常識といわれそうな、滝といえば夏をイメージする言葉なのだ。

滝と夏
滝と夏を結び付けるのは、納涼・避暑といった夏に人びとがとりそうな行動である。
だいたい滝は崖から流れ落ちるものであって基本的に滝つぼは日陰であり、19世紀初めの文献によると、江戸の人びとはしばしば滝へ赴き涼を楽しんでいる。
滝つぼに飛び込み、泳ぎだす人もいた(「遊歴雑記」)。
かつて滝は、納涼のための場所としてポピュラーな場であり、結構身近な所にあるものだった。

身近な場所にあった滝
その証拠に、荒川遊園には男滝・女滝があった。
昭和初年当時、「東京に最も近き避暑地 山水木石園内弐万坪完備 暑さ知らずの仙境 涼味万斛、風景絶佳 有名なるあら川大瀧あり 安全飛行塔数十台建設」というのが売り文句だった。
つまり、昭和初年頃まで滝は納涼・避暑のための施設だった。
また、小台の渡しの渡し場にあった料亭・清水滝にもその名の通り滝があった。
井戸から引かれた水は、奇石を積んだ上に生い茂る楓や熊笹の間から、弧を描いて約三丈(9m)ほど水が流れていた(石田龍城『明治秘話』)。
尾久の二つの滝はいずれも玉電(現都電荒川線)に乗って行くところだったが、徒歩が主流の時代では、歩いて行ける範囲、つまり江戸・東京近郊にいくつかの滝が見出されていた。
比較的身近なところでは名主の滝(現北区)が挙げられる。その他、音羽(現豊島区)・角筈十二社(現新宿区)、等々力(現世田谷区)・目黒(現目黒区)などにも滝があり著名だった(以上、『江戸学事典』『江戸東京学事典』)。そして実は、あの道灌山にも滝があった。もっともそれほど有名ではないが。

道灌山の滝
安政5年(一八五八)8月4日、江木鰐水(えぎがくすい)という人がこの滝を訪れている(以下、『大日本古記録 江木鰐水日記』上)。鰐水の日記によれば、この滝は与一という農夫が作った人工の滝で、樋で水を引き、流れ落ちる滝つぼには板が張られ、座って水しぶきを浴びるところになっていた。脇には茶屋まであったという。

造られては壊された
近くにあるなら一度は行ってみたいものだが、今はもうない。
道灌山の滝は明治38年(一九〇五)に完了する鉄道線路敷設工事により、崖自体が削り取られ、消滅した。
一般に滝は自らの水の流れによる侵食により後退したり低くなったりして、ついには消滅、ないしは滝とは呼べない形になったりするそうだが(『水の百科事典』)、江戸・東京近郊の滝は造られ、そして壊されるものだったらしい。
荒川遊園・清水庵もその例にもれない。
このことは滝に対する需要が生まれ、なくなったことと重なっている。
納涼という行為の変化でもあると言えるだろう。
かくして、夏の季語としての滝のもつ語感は失われていった。
多くの人びとにとって滝は、鉄道や車に乗っていく、より遠い場所になっていった。

鰐水の眼
最後に鰐水の日記に戻ろう。
鰐水はこの日の日記を次のように結んでいる。
都会の者は繁華なものを見る目はあるが、「山水遊観」を見る目がないので、こんなものを滝だというのだ、笑うべし、と。
というのも、道灌山の滝が、高さ1間半(約2.7m)だったからである。
当時の江戸の人びとにとって紛れもなく滝だったが、福山藩の儒学者で医師だった鰐水には、この流れ落ちる水を滝とは認めがたかったのである。
地方のみならず外国の有名な滝へ行く機会があり、写真や映像で目にすることがある今日の私たちは、鰐水と同じ眼をもっているのではなかろうか。<亀川泰照>
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荒川区 あらかわ遊園 遊園の歴史より引用ーーーー

『尾久の民俗』(荒川区教育委員会、平成3年)p.8-9には、『新興の尾久町』(下谷新聞北豊島支社、大正12年)より引用して、大正十一年には、広岡勘兵衛が船方の煉瓦工場を廃して、荒川遊園を開園した。
近くに住む石神寅松氏は荒川遊園について「道路境木材塀は全部煉瓦塀にして、南側一帯は土盛して滝も造り、水は井戸を掘った。
お宮(稲荷様)の池は広く、貸しボートを浮かべ、水は荒川の水を利用した由。
開園当日は、地元町会(小橋町会)として役員総出で交通整理その他を手伝った。
花火も盛んに上げ、園内の滝の前では仕掛け花火を上げた。特別大玉を上げたが、ここでは危険であるため、尾久西校正門西方にある野球場で二尺玉とか三尺玉を打ち上げた。と記されている。

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尾久地域は大正初期に、碩運寺の住職が井戸を掘ったところ、水が綺麗だったことから水質検査をし、成分のラジウムが含まれていたことから、温泉施設を開業し温泉街となり、花街としても発展し、三業地となった。
これを機に尾久地域は近場の観光地として賑やかになり、荒川遊園も開業し、避暑地としての象徴のような滝を造ったということだろう。

あらかわ遊園正面向って右に池があるが(写真は8年くらい前のもの。現在工事中のため休園中)、こちらにかつて男滝・女滝があったのだろうか。

【関連記事】
■王子七滝 名主の滝
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2021 7/6 『旧川越街道 下練馬宿』

地図の黒丸部分、旧川越街道沿いの空き地が整備され、かつてあった下練馬宿を伝える広場となった。
広場と旧川越街道を横切る道は古道だと思うが、若木・西台と小茂根(小山・茂呂・根ノ上)地域を結ぶ道で、旧川越街道との交差点には、青面金剛像が彫られたものとしては都内最古の庚申塔が立っている。
この広場(の隣り)はかつては下駄屋だったようですね。(上から2枚目)
この先、上から7枚目〜は比較的古くみえる商家や、本陣木下家跡(名主)と向いに大山道道標・東高野山道標があり、浅間神社・下練馬の富士塚などがあり、さらにすぐ先には北町観音堂と東武練馬駅入口の道に、木下家から引き継いだ本陣大木家跡がある。そこからさらに先、東武練馬駅と赤塚駅の間にも立派な商家が建っている。
※写真はいくつかの年代に渡って撮っている。

案内板から引用ーーーーーーーーーーーー
旧川越街道の商店街のあたりは、江戸時代に「下練馬宿」がおかれました。
川越街道は、江戸日本橋と川越の間およそ43kmをつなぎ、板橋宿で中山道と分かれました。下練馬宿は、上宿・中宿・下宿から構成され、本陣・脇本陣(幕府役人や大名などが宿泊・休憩する施設)、問屋場(馬や人足を用意し、荷物を次の宿場まで届ける所)がありました。下練馬宿に暮らす人々は、苗字を名乗れ人は少なく、商家や職人などは家ごとに「屋号」をつけて呼び合っていました。
江戸から近い下練馬宿は、宿泊よりも休憩する所として利用されることが多かったようですが、参勤交代のほか、行商人や大山.富士参詣の旅人などが、さまざまな人々の往来でにぎわいました。
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※案内板の拡大写真はこちら

いたばしの古道より引用ーーーーーーーー
(2)下練馬村
日本橋より三里許 民戸四百二十六 当所は河越道中の馬次にして、上板橋村へ二十六町、新座群下白子村へ一里十町を継送れり、道幅五間 此道よえい北に分るる道は下板橋宿へ達し、南へ折るれば相州大山道への往来なり、御打入以来御料所にて今も然り、検地は延宝元年十一月竹村興兵衛中川八郎左衛門改め、其後開きし新田は宝暦十一年伊奈半左衛門改む、高札場は河越道の傍にあり(新編武蔵風土記稿)
村高は武蔵田園簿によれば、1226石1斗8升4合で、その内訳は水田が292石7斗3升1合、畑方が923石4斗5升3合で、上板橋村同様、畑作を中心とした村である。
その後「旧高旧領取調帳」によれば、2627石となり、幕末期までに約2倍強の石高の増加を見る。
宿場は村の北部に位置し、上板橋側より下宿(北町1町目)、中宿、上宿(北町2丁目)に分かれ、下宿内には、大山道との分岐点があり、現在もその道標が残っている。
宿場の中心は下宿にあったと言われ、本陣は、木下家(現 北町1〜37)が勤めていたが、後に上宿(現 北町2〜37)大木家(しょんや)が勤めたと伝えられる。脇本陣は木下家に隣接する内田家が、また、問屋場は本陣の真向い(現 北町1〜25付近)にあった。
宿並みはおよそ1km程続き、「はずれ」という家(現 北町1〜35付近)が宿の西端にあったという。(『練馬のみち』練馬教育委員会)
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旧下練馬宿の古地図1枚目、右から二つ目に<初代 (木下)本陣跡>が、2枚目、左から二つ目に<(大木)二代 本陣跡>が見える。
上記にもあるが、一番左の「はずれ」という家あたりが、今はどうかわからないが原価無視の<中華たけいし>あたりになるのでは。
また去年、コロナ禍に悲観したと伝えられているある飲食店の店主が火災により亡くなった。自分のまわりには飲食店経営者が何人もいて、この大変な困難を乗り越えようと必死に戦っている。ご冥福をお祈り致します。

さて余談だが、宿場町というと昔も今も人がたくさん集ってくるように、少し前にアンパン(シンナー遊び)をやって駅前を堂々と歩いている女子がいた。何だかとても哀れに映った。
さらに昔に遡ること35年前、洋服屋があってよく買いに行っていたところ、髭の濃い店員の兄ちゃんに何故か気に入られて、行く度に私の耳たぶをぐりぐりと嬉しそうにこねくりまわしていた。当時はよくそういうことが分からなかったので、「・・・(うざいな、すげぇ耳たぶが好きな奴だな)」と思いつつもほったらかしにしていた。LGBTの兄ちゃんだったのだろうか....原宿の明治通りでもばったり会ったこともあった。

とても好きだったお店がもうひとつ...東武練馬駅の上り線改札入口に100円バーガーがあって、ジョーイバーガーとかそういう屋号だったように思うが、池袋にスケートボードをしに行く時には、150円だったかのチーズバーガーをしょっちゅう食べていた。
値段ゆえに質素な味だったけど、活動量が多い少年にはドムドムやマクドナルド以外の珍しいバーガーが美味しくて々。池袋の西口のロサ会館あたりにも100円バーガーがあったような。
まぁスケートボードであちこち移動して、ジャンプランプをたくさん作って飛んで楽しかったもので。
池袋、東武練馬の坂道(前谷津川へ下る道)、光が丘、所沢航空公園、原宿、そして板橋区西台(前谷津川緑道<グリーンベルト>・高島二中付近の広場、西台住宅など、スケートをして楽しい思い出のある場所がたくさんあるし、早くに逝ったスケート仲間の親友もいる。
他にもあれこれいくつも思い出がある東武練馬、好きな町のうちのひとつです。

【関連記事】
■富士・大山道の道標と庚申塔 下練馬大山道の道標と東高野山の道標
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■体の中にいる虫 旧川越街道にある庚申塔・板橋宿観明寺の青面金剛像が彫られたものとしては都内最古の庚申塔・千川上水と中丸川の分水地点の庚申塔
■旧川越街道 下練馬宿の北町観音堂
■練馬区 ふじ大山道

■中山道と川越街道起点の平尾追分 高田道と川越街道の四ツ又
■古道 高田道と旧川越街道の辻 四ツ又馬頭観音(板橋区登録有形文化財)
■池袋 四面塔尊 池袋村 高田道<四ツ辻付近の追はぎや辻斬> 辻斬残骸 無縁仏の供養 
■雑司が谷 未来遺産 雑司が谷・高田と池袋本町と板橋宿をむすぶ高田道
■板橋宿平尾脇本陣豊田家 新撰組 近藤勇が幽閉された豊田家と次女トミとの語らい

■上板橋宿と大山福地蔵尊
■町民を癒し見守る大山福地蔵尊
■豊敬稲荷神社 旧上板橋宿概要図
■上板橋宿にあるかつての“板橋”の親柱と距離の札
■板橋区弥生町 上板橋宿 豊敬稲荷神社の玉垣に刻まれた瀬戸川牧場

■五代将軍 徳川綱吉御殿跡之碑(練馬区北町1-14 北町小学校と田柄川の間) 脚気に効くと言われた練馬大根栽培・発祥の地と環状八号線の開通

■板橋区高島平 六の橋のグラフィック

■ボクらのホームグラウンドの前谷津川<前谷津川と宮下大山不動明王> 2022年1月19日加筆
■ボクらのホームグラウンドの前谷津川の支流 梶谷津川
■前谷津川支流 不動通り 中尾不動尊の谷

■ジュラシックワールドと原価無視 中華たけいし

【過去記事】
■構成要素
■オールドスクール
■オールドスクール #2
■生まれる
■あぶないランプ
■クルーザー
■メイク
■思いでの撤去
■オールドスクール #3
■あぶないランプその2
■中年スケーター
■JT -大切なひととき-
■スケートボード道
■スケート祓い
■28年前のクルーザー
■レールバー
■やっと乗れてきた、サポートタイツ効果
■IXLオイルとガッツレーを流用
■クルーズにもいいデッキ
■中年スケーターのブルース
■もう一度
■#14
■HILAQUE
■VANS 50 YEARS Kickflip
■MoMA
■OJ2 HOSOI ROCKETS 95A
■AND SKATEBOARDING
■Zorlac Todd Prince 高い??
■梅雨の晴間の真夏日 5週間ぶりに
■UNIqueでスケートボードのレクチャーを
■スケートをする意味
■我ら徳丸ヶ原のスケートチーム
■また出会って、共に生きましょう
■自分のためにスケートを
■オヤジスケーター
■この1年半のスケートボードの練習まとめ
■SEIBU SPORTS SKATEBOARDING TEAM
■家でスケートを MADE IN VENICE
■やすらかに
■スケートボードのホームグラウンド 前谷津川緑道(グリーンベルト<西台・高島平> 一時姿を現す消えた川
■GET RAD
■マドンナエア
■YouTube 作ってから1年半
■久しぶりのお墓参り
■第三回目
■TOKYO SKATEBOARD PICNIC CLUB

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