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2019 6/28 『板橋区上板橋 旧川越街道沿いの出桁造り2』

板橋区上板橋、新川越街道と旧川越街道が分れる付近の旧川越街道沿いに出桁造りがある。
地図の黒丸部分....写真では見づらいが。
周囲の建物とは異なり異彩を放っているが、現在でも草木が手入れされているようなので、住まわれているのではないだろうか。
ファサードが朽ちているために屋号などは読めないが、昭和60年くらいの地図には◯◯薬局と◯◯商事と記載されていた。
時代の流れに抗い、こちらも長く残って欲しい。

過去記事 板橋区上板橋 旧川越街道沿いの出桁造り

【過去記事】
巣鴨遺跡
庚申塚 巣鴨遺跡
駒込富士神社と古墳群
庚申塚 巣鴨遺跡
北区西ヶ原 熊野坂
巣鴨遺跡 町屋跡
巣鴨遺跡 柳沢家
巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩
縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓

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ここをクリックすると下に【過去記事2<地域史(歴史)・史跡遺跡(古墳 塚 石仏 社寺 城跡 陸軍 )・文化財・宿場・上水・旧道/古道・坂道・廃線跡・都市計画・出桁造り・ルポなど>】のリストが展開します。
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2019 6/25 『旧丹羽家の門と蔵 染井霊園<藤堂家の墓所>』

旧丹羽家蔵及び門の概要より引用
旧丹羽家の蔵は、江戸時代から明治後期まで染井を代表する植木職人として活躍した丹羽家の八代目茂右衛門が、昭和11年、九代目の結婚の際にもともと木造土蔵造りだった蔵を鉄筋コンクリート造りに建て直したものです。
築後70年以上が経過していますが保存状態は良く、昭和初期の建築当時の姿を残していることから、平成19年12月に国の登録有形文化財建造物として登録されました。
門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式です。
正確な建築年代は不明ですが、修理の記録等から江戸時代後期に建てられたものと推定されています。
現在も植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在として地域の方々に親しまれています。
平成19年8月に豊島区指定有形文化財となりました。

重複するが、案内板より引用
旧丹羽家の門は、腕木と呼ばれる梁で屋根を支える腕木門と呼ばれる形式で、簡素な構造ですが格式のある門です。
この門の建築年代を明らかにする記録はありませんが、言い伝えによれば、染井通りをはさんで向い側にあった津藩藤堂家下屋敷の裏門を移築したといわれています。
当初の部材と考えられる親柱には和釘が使用され、風蝕もかなり進んで木目が深く浮き出ています。
また、都内の類例と比較して大名家の裏門として使われても不思議ではない規模と構造といえます。
解体工事の過程で墨書が発見され、弘化四年(一八四七)、嘉永六年(一八五三)、安政六年(一八五九)の三回修理が行われていたことが判明しました。少なくとも建築年代は弘化四年以前ということになります。
この門が丹羽家の所有になった年代ははっきりしていませんが、当時は、染井通りに面して建っており、丹羽邸内に移築した時と、染井通り側にマンションを建てるため現在地に曵屋(建物を解体しないで、そのまま場所を移動させること)した時の少なくとも二回移動しています。
また昭和十年(一九三五)の主屋の増改築とあわせて門の屋根を、柿葺き(薄い木片を重ねて敷きつめた屋根)から瓦葺きに葺き替えたといわれていいます。
一方、親柱、冠木、袖戸、両開き扉などは杉で当初からの部材と考えられ、板扉に見られる技法から、建築当時の姿を概ね残しているといえます。
江戸時代の腕木門としては区内で唯一の事例であり、植木の里・駒込の歴史を物語るシンボル的存在として長年地域の人々に親しまれています。
このように、染井の植木屋として活躍した旧家の遺構である旧丹羽家腕木門は、豊島区における貴重な文化遺産であることから、平成十九年八月三日、豊島区指定有形文化財になりました。

下の方の墓石は藤堂家のお墓で、この門と蔵がある場所からすぐ近くの染井霊園内にある。
自分が行った時は、少し寂しい状態だったが今はどうだろうか。
藤堂家とは藤堂高虎が宗家初代で、伊予今治藩主から伊勢津藩の初代藩主となった大名。 外様大名でありながら徳川家康の側近となった希有な大名といえるだろう。
上野動物園の中に藤堂高虎(藤堂家)のお墓があるが、元々は彼の屋敷がそこにあったからで、上野東照宮の敷地も藤堂高虎の屋敷の一部を提供して建立されたという。
染井霊園の藤堂家のお墓だが、よく読むと藤堂高潔と読める。
高潔は藤堂家宗家12代で最後の藩主だという。
藤堂高潔は版籍奉還後の藩政改革を主導し、明治天皇の伊勢神宮参拝においても守備などで尽力したそうだ。
お笑い芸人の“ゆってぃ”は高虎の末裔だと。
徳川家康、天海、藤堂高虎....この三人は強い絆で結ばれていたのも有名ですね。
この付近は太古の昔から栄えていて、様々な遺跡が見つかってきている。
巡ってみると結構楽しい発見があるので、おすすめ。

【過去記事】
巣鴨遺跡
庚申塚 巣鴨遺跡
駒込富士神社と古墳群
庚申塚 巣鴨遺跡
北区西ヶ原 熊野坂
巣鴨遺跡 町屋跡
巣鴨遺跡 柳沢家
巣鴨 眞性寺の地蔵菩薩
縄文人の一生 -西ヶ原貝塚に生きた人々- 武蔵国豊島郡の郡衙跡と鎌倉街道
明暦の大火と本妙寺 遠山金四郎景元の墓

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2019 6/20 『70s 原宿 原風景』

先日発売された本。
その当時原宿にいた人々が経験した様々な出来事を、思い入れのあるお店や人々から回顧して綴っている。
エッセイを書いた人々は自分よりも10歳以上上の先輩で、とても貴重でおもしろい内容。
自分が原宿によく行っていた時代とは少しずれるが、いくつも重なるものがあった。
自分が初めて原宿に遊びに行ったのは11歳の頃で、DCブランドに身を包んだ人や、その当時は安全ピンをGジャンなどに付けまくっていた人や破れたジーンズを穿いている人をみかけて、とても刺激的だったのを憶えている。ちょっと大人なセントラルアパート、ホコ天もとても楽しかったし。
そんなことを学校で友に話したら、そんな格好をしている人なんかいるわけないと、全く信じてもらえなかったので、後日数名を引率して原宿をアテンドしたこともよく憶えている。「ほら、いるだろ....すごい格好をしてんだろ!?」って。
その4−5年後には、当時付き合っていた彼女とも、まぁよく原宿に行った。喫茶店でジュースだったかコーヒーだったか忘れたが、休憩してピザも頼んだら、冷凍ピザが出てきて、うぁぼったくり的だな...と、そんなこともあったり。行くといつもじゃんがらラーメンの中吉を食べていたのも懐かしい思い出。
プロペラ(かつてあった有名な洋服屋)にもよく行ったし、オッシュマンズや同潤会アパート....その他いろいろなお店に行った。帰りはキャットストリートを散策して渋谷から帰るコースもいいものだった。
それから6−7年後に、友がプロペラがあった通りにお店を構えて(WORKページの中ほどに掲載している赤で“a”というレタリングをガラスにしているショップで、主にスケートボードのブランドを扱っていた)、買い付けた商品やオリジナルブランドの販売をしていた。
いわゆる裏原宿って言葉がつけられるちょい前のこと。
ネイバーフッドやエイプ、アンダーカバー、ナンバーナイン、ヘクティク、バウンティーハンターなどが勢いをぐぐっと増していった時代。
とにかく楽しい時間(時代)だった。
久保田米屋が営む定食屋の“生姜焼き定食”なんかは名物で、とにかくめちゃくちゃ美味しかったし、とりわけアパレル関係の人には人気があったようだ。少し上の世代の方と生姜焼き定食の話をすると、まぁ盛り上がる。

そんな昔の出来事、時代ではないが、原宿はとても思い入れのある場所。

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2019 6/19 『喰っちゃ走る』

喰っちゃ寝の逆。

ランニングを生活にとり入れている人のインスタやブログよく見るけど、皆実によく走りよく食べよく飲んでいる。
日々走っていると、あまり体が大きくなることがないからなのだろう。
最近はあまり走れていないが(月に20−40〜60kmくらい)、ほぼ体型は変わらない。体重は2−3kg動くけど、気にしていない。
ステーキが食べたい!とかはないが、走った後はラーメンやレバニラ定食などが、ものすごく食べたくなる。安上がりなタイプ。
下の定食なんて、この量で¥600〜¥800ほどで、白米は大盛り無料というすごいパンチ。
これからの季節は暑くなるし、走ると塩分がかなり出るので、少し濃い目の味付けでも良いのだろう。全身塩まみれでザラッザラになるし。

年齢を重ねると、食も細くなるというから、よく食べられることは幸せなこと。いつもこういう食だとダメだが、たまには良いもんです。
そのうち、濃い家系ラーメンも食べられなくなるだろうし。。

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2019 6/17 『十条冨士塚(冨士神社)と補助83号線』

東京大学の前を通るのが旧中山道(本郷通りと重複する)で、言門通り付近で旧中山道と本郷通りが分れ、その交差点が本郷追分とかつて言われていた。
本郷通りは別名日光御成街道とも言われ、江戸城の大手門から出発した、歴代の将軍はこの本郷通りを使って、徳川家康が祀られている日光東照宮へと参拝に行っていたことから、その名が付けられた。
本郷通りを北上すると、十条台(十条の自衛隊駐屯地付近)で、細い道になるが、この道こそがかつての道幅に近いのだろう。(補助83号線)
相互通行になっているが、歩道はとても狭いために、昔から危険視されてきている。
日光御成街道は武蔵野台地の際を通っており、地図の右側すぐが崖になっていることもあり、なかなか整備が進まなかったようだ。
しかしこの何年かで、多くの商店や家が立ち退きが進み、だいぶ整備されてきている。地図1−2枚目の黒いラインが拡幅された道幅。
そこで問題になっているのが、冨士神社の存在で、境内はほぼ全部富士塚となっており、古くから信仰の対象となり、毎年開催されるお祭りも、地域にとっては重要となっている。
この富士塚だが、道路の拡幅工事のために、半分ほどが削られることになる。もしくは後方に移転となるのだろうか。詳しい情報がないために不明なことが多いのだが、現状では道に席を譲るしかないと思われる。
昔も今も、寺や神社は人々の利便性のために、移転することも多い。
神様は優しいから、筋を通せば怒らないと言われるが....貴重な富士塚や信仰が末永く残って欲しいと思う。

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2019 6/12 『渋谷川の再生と白根記念 渋谷郷土博物館』

もう何年も前から、渋谷駅周辺の開発が進められ、街や建物が新陳代謝を繰り返し、商業施設がいくつも誕生、再生している。
東急の日比谷線直通(相互乗り入れ)は、さっさと舵を切って副都心線へと鞍替えって、代官山駅〜渋谷駅間を地下化して街も一変したことには驚いたもので。
その結果残った鉄道の設備は遺構となってほぼ消滅したが、線路や橋脚などは残されており、高架跡地の遊歩道とその横を流れる渋谷川も整備され、渋谷リバーストリートと名付けられ、近所のワーカーや観光客を楽しませてくれている。地図の緑色のラインとその下の写真がそれ。
渋谷川の整備にあたり、渋谷駅前を流れる渋谷川(下水)は、またも付け替えが行われ、一時駅前にその姿を現していて、もうこの先その姿を見ることは、ほぼないだろうなと思うと感慨深いものがあった。

その渋谷川今昔の写真展が白根記念 渋谷郷土博物館・文学館にて開催されているとのことで、用事のついでに観てきた。もう最終日に近かったので、ぎりぎり。
というのも、貴重な写真がふんだんに掲げられているからで、企画展はとてもおもしろかった。
ポスターの昔の写真は渋谷川に架けられていたかつての“恵比寿橋”で、優雅なアーチを持っていたが、架け替えの際には、今のように何ともない普通な橋になってしまったのが残念なところ。
渋谷川はゲリラ豪雨が起きると、今も一気に水嵩が増すように、かつては洪水に悩まされいて、水であふれかえった写真が印象的だった。

開発されても水際まで降りることができないのが危ない都市河川の特徴だろう。
しかし、ストリートは休憩する人が多く、とても良い雰囲気に生まれ変わっている。
かつてのドブ川は再生水の放流のおかげで、あまり人が寄りつかなかった昔よりもきれいに生まれ変わって何より。
なぜなら、十代〜二十代のキャットストリート(渋谷川、または穩田川)で遊びまわって、たくさんの人と出逢ったから。
そんなキャットストリートの近くにかつてあった“久保田米店”の辛くてとてつもなく美味しかった生姜焼き定食のことを、ふと思いだす。
清き水に魚住まずというとおり、きれいすぎないストリートには今でも、たくさんの人々が集い、次々とカルチャーが新陳代謝を繰り返して生まれ続けている。

【過去記事】
河骨川(春の小川)
自然の猛威 渋谷川千駄ヶ谷・代々木支流付近の谷
渋谷川 氾濫危険水位
水無橋 神南2丁目1番先
穩田川(渋谷川)の支流
庚申塔 恵比寿西二丁目11番7号
渋谷川 庚申橋供養碑
鎌倉街道 中道 並木橋
内藤新宿 天龍寺の時の鐘
新選組 沖田総司 逝去の地

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